俳句

2011年9月 8日 (木)

出会いの一句

出会いの一句

 
三島広志


 人に強烈な出会いがあるように、俳句との出会いもまた大いなる影響を与えてくれるものである。以下にはそのことを述べてある。

 

 高浜虚子の客観写生に不満を抱いた水原秋桜子は、自らの主宰誌「馬酔木」(昭和六年十月号)に「自然の真と文芸上の真」の発表をもって「ホトトギス」から離別したといわれる。

 虚子は弟子たちに主観性の強い句の創作を禁じておきながら、自分自身は主情の強い俳句を発表していたのが秋桜子には納得できなかったのである。その間、高野素十との人間関係など複雑に込み入った事情もあったようである。

 

 平井照敏氏はこの秋桜子の「虚子・ホトトギス」離脱を現代俳句史上最も大きな出来事の一つとしている。なぜなら後の新興俳句、前衛俳句などの潮流はそれに先立つ秋桜子の勇気ある反虚子の行動があってこそ起こり得たというのである。

 

 そのころ俳句を制圧していたと言っても過言ではなかった大虚子に反旗を翻しなおかつ「馬酔木」を成功させることができたのは秋桜子ほどの力量・人望あってこそ可能であったであろう。でなければ単発の花火として消滅したにちがいない。

 これは当時、虚子という存在がいかに巨大であったか、その強大な権威にアンチの声を挙げることがどれほど大変であったかを物る逸話である。

 

 また秋桜子が試みたような揺さぶりが大なり小なり繰り返されることが俳句の命脈を保つ内なる生命力を高めることになるのであろうことも確かなことである。

 

 といった歴史の話は枕であって、主題はわたしの出会いの衝撃が大きかった俳句についてである。その一句とは

 

  高嶺星蚕飼の村は寝しづまり   秋桜子

 

である。

 

 この句に関して秋桜子は句集「葛飾」の序に、おおよそ次のようなことをことを書いている。

 

 作者のとるべき態度に大別して二種類あり、

 

 「その一は自己の心を無にして自然に忠実ならんとする態度、その二は自然を貴びつつもなお自己の心に愛着をもつ態度である。第二の態度を持して進むものは、先づ自然を忠実に観察する。而して句の表には自然のみを描きつつ、尚ほ心をその裏に移し出さんとする。」

 

と。

 

 さらに続けて、句作をはじめた大正八年から同十三年までは第一の態度で心を無にして客観写生を行い、同十四年春頃第二の態度での創作が意識され、同年五月、掲出の一句によって第二の態度がはっきりと自覚されたと書いている。いわば主観写生、文芸上の真の目覚めであろう。

 秋桜子自身にとってもまた偉大なる出会いの一句であったわけだ。

 

 無論、わたしはこれら諸々のことは何も知る由もなく、何かのおりに掲出句に出会い大きな感動を得て、一時中断していた俳句の創作を再開したのである。

 

 

 高嶺星は秋桜子の造語であり、高嶺のそら高く燦然と輝いている星のことであるが、意外なことにこの句は大垂水峠で昼間に作られた空想句であるとのこと。

 「寝しづまり」に作者の主観がたっぷりと込められており、明るい昼間の空に星を想像することこそ芸術における創造、いわゆる「文芸上の真」の発見ということになるのであろう。

 今日考えれば実に当たり前のことであるが、その当たり前に到達する道筋はけっして当たり前ではなかったのである。

 

 わたしと俳句の出会いは多くの人と同様、小学校の教科書である。確か
 

  春の海ひねもすのたりのたりかな

  山路来てなにやらゆかしすみれ草

 

などの句であったと記憶する。

 

 高校三年の校内模試で、山頭火の自由律俳句が出題され試験を忘れて感動した。

 

  しぐるるや死なないでゐる

  うしろ姿のしぐれていくか

 

 これらの自由律は当時の心を激しく揺さぶった。人並みに悩み多き少年期にあった身としてこれら自嘲的な独白はまさに身に染むものであった。

 

 大学に入てから自覚をもって俳句をやろうと決心して書店で山本健吉著「現代俳句」文庫本を入手し、気に入った作が一番多かった原石鼎の系統にある「鹿火屋」に入会した。

 いきなり自由律では足腰が鍛えられないだろうと思い、まずは有季定型の勉強をしようと考えたのである。

 しかし根っからの飽きやすい性格ゆえと、多忙を口実にあまり熱心に続けることなく自然に俳句から離れ、卒業後は鍼や指圧などの東洋物理療法の専門学校に進みそちらに熱中した。大学在学中父親の死去にともなう生活苦もあった。

結社に払う会費も捻出できなかったのである。

 当時「鹿火屋」の主宰は故原コウ子先生だった。先生はこちらの事情を察して当方から丁重にお断りするまで無料で本を送り続けてくださった。この厚情には今も感謝している。

 

 俳句を中断している間に結婚し、子を二人得て家庭的にも落ち着いた頃、いつの間にか年は三十才を目前にしていた。仕事も何とか安定してほっとしたら、加齢に対する漠然とした焦りを感じていた。

 そんな頃に出会ったのが高嶺星の句である。

 以前にはこの句から読み取ることのできなかった俳句の深さ、新鮮さを発見して句作を再開したのだ。

 

 高名な高嶺星の句には以前から出会っていたはずだ。しかし当時は句を味わう器量に欠けた。中断している間のさまざまな経験がわたしの器量を多少大きくして、鑑賞眼を成長させていたのだろうか。あるいは以前の俳句体験が知らず知らずのうちに体内で発酵していたのかもしれない。

 

 句作中断前、秋桜子の俳句では

 

  滝おちて群青世界とどろけり

 

が一番好きであった。色彩感と臨場感には素晴らしいものがある。だが人生の味わいという点では

 

  高嶺星蚕飼の村は寝しづまり

 

の方であろう。生活や労働、休息が一種の祈りにまで高められているようだ。

高嶺の星に託された生命の賛歌、自然の中に生きる人々の息遣いが聞こえてくる。

 

 打ち明けるなら、実はこの句の景観は我が胸中に深く浸透している。

 妻の実家が長野県南佐久にあるが、そこは今も蚕を飼う村なのだ。

 

 夜、星を見るために外へ出ると、すっかり寝静まった村の彼方に黒い八ケ岳の稜線がくっきりと闇に浮かび、手を伸ばせば採れそうな星が全天に輝いている。

 寝静まった村から蚕が桑の葉を食う音が聞こえてくるような静寂の中にたたずむと美の極みは畏れではないかとさえ思えてくる。

 

 そこに立てば日常を超えた世界の存在の底深くにいる自分が自覚できる。

 家々からの寝息が空に溶け込んでいく。

 そのうち自分の身体が大地につき刺さった一本の杭のように感じられ宇宙との一体感とはかくやと確信する。

 そこでは秋桜子とも時空を共有することができる。

 

 出会いの一句とはこれほど偉大なものとして胸中に存在し続けるのだ。

 

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俳句と志 -「遊び」と「人格」をからめて-

俳句と志
-「遊び」と「人格」をからめて-

三島広志

始めに

 人はなぜ俳句を作るのだろうか。なぜ作り続けるのだろうか。
 多分に創作の喜びを感じるためではあろう。また社会的な関わりからしばし逃れるための趣味としての側面もあろう。しかし、それにしても十七音の言葉に苦悶し呻吟する句作りにはどこか滑稽で自虐的な面を感じないではいられない。それでも人は俳句を作る。
 あえて言えば俳句は「遊び」だ。しかし、生きるということから完全に遊離した、ディズニーランドに行くような遊びとは明らかに異なる。

「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技である。」

 この川崎展宏氏のよく知られた断定は俳句ならではのものと思うし、こうした断定は俳句以外には絶対ふさわしくないと盲目的に確信するのである。
 川崎氏は最近「俳句研究」誌に

「全体として、句に志がない。自分の作を含めて、今日の句には『腹(はらわた)の厚き所より』出たものがない。」

と書かれているが前述の「遊び」と後の「志」の間にはなんら矛盾はない。
 氏の言われるこの「遊び」がくせ者であるが、わたしは俳句はとにもかくにも生きることと根っこでつながっている「遊び」と考える。そして生きることそのものが「遊び」という感じでとらえていけたらと願っている。

俳句と人格

「一句を書くことは一片の鱗の剥脱である。」
 これは三橋鷹女の至言である。「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」などの彼女の有名な句を読めばなるほど鱗の剥脱という激しさを感じないわけにはいかない。しかし鱗を剥脱したとき、逆に彼女は彼女自身に何かを刻み付けたことにはならないだろうか。
 一句一句を成していくとき、心にあるものをことばとして吐露していくと同時に心に何かを刻み付けていく。その刻みが年月とともに人を俳人に作り替えていく。その理想が平畑静塔氏の言われる「俳人格」と呼ばれる一個人の中に俳句が人格化したものだろう。

 話は逸れるが、平畑氏は高浜虚子を俳人格の典型と見ていたようである。しかし、一個人に収斂してしまうことには危惧を感じないわけにはいかない。なぜなら虚子を俳人格の典型とすることでわれわれは虚子の見ようとしていたものを見る前に否応なく虚子を見てしまう。俳句の前に虚子が衝立のように立ちはだかるという厄介なこと
になるのだ。

 話が逸脱し過ぎたようである。視点を戻そう。人格に因んで話を進める。
 「技の人格化」ということばがある。長い修練の結果、技と人が不離のレベルに高まった状態のことである。逆に言えば人格中に無尽蔵の技を内包している状態だ。俳句の技が人格化した人は一定以上のレベルの俳句が自ずとその人の日常の中から生み出されるのである。そしてその日常そのものが俳句的人格に内包される。

俳句と関係性

 ヒトは動物としてこの世に誕生するが、生まれながらに自然とものと人の狭間にしか生存できない生き物である。
 具体例を上げるなら身近にいくらでもある。親と子、医師と患者、教師と生徒、大工と鉋、農夫と畑、運転手と車、人と食べものなど。むしろ、そうした関係なしにはヒトは人間として存在し得ないのだ。俳句も人間と同様それ自体が単独で存在するのではなく、作品と作者との関係の中にあって互いに影響を与え合っている。
 同じことは作品と読者の関係にも言える。そこで相互成長しあえる作者と作品の僥倖な関係が築けるならその俳句にはことばの力が宿るだろう。反面、作品と作者、あるいは作品と読者の「志」次第では相互堕落への広き門がいとも簡単に開かれる。

生活者と俳人

 会社員などの生活者として俳句を趣味にしている人もいれば、俳人として会社員を勤めている人もいる。その差は有名無名を問わず本人の自覚の問題である。仕事を通じて人間としての成長があると同じように、俳句を通して人は意識するしないに関わらず自己教育を実施する。
 主婦も学生も全く同じである。主婦として俳句を作る人もいれば、俳人という本分を保ちつつ主婦をしている人も大勢いるのである。 自分をどのように規定するか、そこに本人の「志」が関与してくる。一個人の中に住み着いている俳人と生活者の狭間にも絶えず対象と主体との間の関係において物事は揺れながら成就していく。
 先程述べたように、作品もそれ自体の自立はなく、読者の内的世界に支えられることで伝達普遍化する。その両者の関係によって鍛えられもすれば堕落もあるのだ。
 生活者としての自分を貫きつつ、俳人であるためには「志」と「志」を常に維持し続けようとする「意志」が必要になる。その「意志」が個人の対象とする分野においておのおのの対象を人格化するのだ。

 俳句ではそれを俳句的人格と呼ぶし、それぞれ人は各分野で何々的人格を目指すのではないだろうか。

俳句と教育

「ヒトは教育によって人間になる。」(南郷継正・・武道理論家)
「人間であることと人間になることは違う。」 (林竹二・・教育者)

 ヒトは教育によって社会と歴史の中に生きていることを学ぶ。つまり空間性(社会)と時間性(歴史)に自ら積極的に参加しようとしたときヒトは人間になるのだ。だから「人の間」と呼ぶ。そして人間は自己を教育しようとする欲求を持つ、あるいは持ち続ける。 俳句は自らの「志」の設定によって自己教育足り得るものである。(むろん設定に応じて心の癒しとか趣味にすることも可能であるが。)
 これは俳句に限ったものではない。俳句は俳句的人格を形成し、武道は武道的人格を成長させ、音楽は音楽的人格を築き上げる。また病気は病人を作るが、本人の考え方や性格によって、闘病的人格を形成し、あるいは和病的人格を作り上げる。
 これらを各分野が潜在する能力と呼んでもいいだろう。その能力を発揮するか否かが、繰り返して言うように「志」と継続的「意志」なのである。

 俳句は即吟という手軽さがいかなる生活者であっても継続を可能にし、大衆性を生む。常に脳裏胸中に俳句を置くことで俳句的人格を形成しやすいようだ。そこが他の分野との相違点であろうか。
 大相撲の横綱曙関の次の言葉はその点で実に示唆的である。

「ボクシングのチャンピオンはリングの中だけチャンピオンであればいいが、相撲の横綱は起きてから寝るまで横綱でなければならない。」

 横綱を俳人と置き換えることに、多くの俳人はさほどの違和感を感じないはずだ。さらに「なければならない」という義務感と責任感に曙関の困難さを読み取るであろう。ここが横綱の特殊性と大衆俳人の日常性の差である。

まとめとして

 俳句はその即吟性ゆえに日常の流れの中に自分の心の移ろう過程を刻み込むことができる。
 しかし、もう一面ある。それは俳句を作るとは心情をものに即して言語化するだけでなく、己が心に何かを刻んでいくことである。 俳句をつくり続けることは我が生において自分の「志」を見失わないための「意志」の確認とも思える。むろん人生の目的は一般生活者にとっては俳句ではない。各人の主たる人生の部分である。
 俳句はその背後にあって不即不離、一如として溶け合い影響を与え合うのだ。
 俳句の中に敢えて「人間性」を織り込んだり、俳句の目指すところが人格形成というのではなく、コツコツ俳句を作り続ける行為が某かの人格を形成するのではないかということである。
 そうあることが自然体に人格化した場合を「俳人格」と呼ぶことができるかもしれないが、それはあくまでも二次的なことだ。

 人は「俳人格」である前に「生活人格」であるべきだ。そしてわたしは両者の溶融をこそ目指したい。さらに言うなら、死を直覚しつつ恬淡たる句を詠めるなら俳句的人格のひとつの極みと言えるだろう。
 通りいっぺんに俳句を「志」中心に俯瞰してみた。しかしいささか急ぎ過ぎたきらいはある。全体に遊びがない。だがむしろこうした愚にもつかないことを考え、文章に表すことが即ちわたしにとっての「遊び」にほかならないのだ。

 

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切磋と情  --句会・俳句メディア空間--

切磋と情 

--句会・俳句メディア空間--

三島広志

始めに
 世間には俳句という無用のものを作る人達がいる。
 なぜ俳句を作るかここでは問うまい。同様に、なぜ俳句でなければならないかも。

 それらはすでに本誌の拙稿「俳句と志-遊びと人格をからめて-(平成六年十一月号)」や「現代の俳句(平成七年一年間連載)」で断片的に私見を述べた。したがってこの稿ではすでに俳句を作ることを当然のように生活にしみ込ませ、時々、あるいは定期的に句会へ参加する人達について語ろうと思う。すなわち「人はなぜ俳句を作るか」ではなく、「人はなぜ句会に参加するか」である。

地方にいて
 わたしは主宰からの直接指導かなわぬ地方愛知にあって藍生俳句会に入会した。しばらくして句会という研鑽の場が経験したくなり他結社の句会に参加した。そのうち藍生の支部活動の存在を知り、愛知会員による句会を提唱、毎月の例会を仲間と共にした四年間という貴重な体験を持つ。
 この体験について振り返ることで、その中からなんらかの普遍的なものを見いだせるなら、藍生愛知支部「からふね句会」という閉ざされた空間での体験を、もっと多くの人々の共通の経験に転化することができるかもしれない。
 これがこの稿で句会を取り上げる所以である。

芭蕉の座
 専門の研究者ではないため、句会がいつから行われているかは知らない。ただ古くからの和歌の歌会に対して俳諧の句会が行われていたことは確かだろう。たとえ句会と呼ばなくとも正岡子規以前から俳諧のための集まりが行われていたことも間違いない。
 江戸以前には連歌があった。和歌を二人もしくは複数で作るものだ。そこから俳諧として古歌に詳しくない庶民向けの連句が派生した。制約が少ないので参加しやすかったのだ。 松尾芭蕉も俳諧連句の宗匠であった。彼には弟子の土芳の記録になる次の有名な言葉がある。これは芭蕉往時の句会(連句の座)の精神を述べたものであるが、今日の句会の精神的拠としてなんら色を失していない。なぜなら目的をもった集団の普遍的摂理が述べてあるからだ。

 学ぶことはつねにあり。席に臨んで、文台と我と間に髪をいれず。おもふ事速にいひ出て爰(ここ)に至つて迷ふ念なし。文台引下ろせば即反古也。
三冊子(服部土芳)

 芭蕉の時代、まだ俳句ではなく連句であったから形式は今の句会とは異なっていただろう。しかし、文芸を囲んだ人間関係という点では同じである。また、俳句(連句)を通じて自分の生きる過程に何らかの付加価値を与えたいという人達の協力で成立している場であることも古今に差はあるまい。
 しかも集いの目的は「無用の用」「夏炉冬扇」であることも同様である。

 「学ぶことはつねにあり」という態度。これこそが句会に参加するための最低条件である。漠然と句会に参加する人がいると参加者全員のこころの流れを遮られてしまう。
 俳句の経歴・巧拙に関係なく、また俳句に限らず「常に、何にでも学ぶ」という態度をこそ持ち合わせたいものである。句座を共にする資格、これは「学ぶことはつねにあり」に言い尽くされている。

 「間に髪をいれず」とは当意即妙、打てば響くの意だ。元来、連句の座の流れを淀ませずに進行させる江戸時代の俳諧宗匠の心構えであるが、今日の句会においては参加者一人一人の戒めとなるであろう。機に応じ感に敏なること。人の話をよく聞き、そのこころを理解しようと努め、非日常の遊びの空間と時間を渋滞なく生み出し続けるために必須の心掛け。

 「おもふ事速にいひて」も本来、連句を付けることであろうが、句会に置き換えるなら選句後の講評を求められた場合、速やかに意見を述べることと読むことができる。
「爰に至つて迷ふ念なし」と言うことである。

 句会に参加しているときは、自分の句にばかりこころを置くものではない。その場で出会った仲間の句を味わい、選句し、講評するという流れの中に積極的に浸り、極力場を乱さぬよう心掛け、何時間かの充実した時を過ごす。日常生活から敢然と遊離した貴重な場を連衆と呼ばれる人達と築き上げ、句会を終了したら各人散り散りに日常生活に戻る。これが「文台引下ろせば即反古也」である。
 反古とは書画などを書き損じた不用の紙のことから、転じて役に立たない物事をいう。
 いかに熱中した句会といえども、終わればそれは済んだこととして見切る。これは逆に言えばそこまで一心に集中して句会に参加しなさいということであろう。ここに一期一会の醍醐味がある。

 芭蕉はこうして句会(連句の座)を自身の生涯を賭けた芸の道の縮図として、参加者にその精神の高みを求めたのだ。
 「文台引き下ろせばすなはち反古」とするためには、句会に参加するまでの時間が重要なことは言うまでもない。月に一回の句会ならその数時間のために残りの一カ月を過ごす決意がいる。それは悲壮なものではなく、心の片隅に俳句をしのばせておくことだ。寂かな緊張感を常に維持し、句会においてはその場の共同精神にとっぷり浸かり、過ぎし一カ月の成果を確認、来る一カ月への励みとする。 「学ぶことはつねあり」とはこういう普段の心掛けを言うものなのだ。

なぜ句会に参加するか
 芭蕉をもってきたために、文章が堅くなり過ぎたようである。いかに論立てしようとしまいと、句会の楽しさは参加した者のみが知る何かがある。それをあえて説明するために実に好都合な心理学の理論がある。企業研修などでよく使われるマズローの欲求五段階説だ。
 人の欲求には大まかに言って五段階があり、それらが並列するものではなく、一つの欲求が満たされるにつれてステップアップするというものである。

 マズローの欲求五段階説とは
  一 生理的欲求
  二 安全欲求
  三 帰属欲求
  四 承認欲求
  五 自己実現欲求
の五段階を言う。

 生理的欲求とは生きて行くために必要な食を基本にした欲求で、それを満たすためには危険も返り見ない。したがって、安全欲求の前段階に置かれている。
 生理、安全がほぼ当然となった社会においてはどこかの組織に参加したい(帰属)という欲求が出てくる。高校野球などで地元高校の応援に夢中になったり、オリンピックのにわか愛国心「ニッポンチャ!チャ!チャ!」などかこれである。
 それが満たされると、さらに人から認めてもらいたい(承認)と思うようになる。
そこまで行くと最後には自己を発見し、自己の可能性を見出し、実現していきたいという高度な真に人間らしい欲求が出てくる。
 平和でものの豊かな社会ではこれらが順次欲求として頭をもたげ、満たそうという行動を生むのである。
 これを句会に置き換えることはたやすいことだろう。
 句会に参加することで第三の帰属欲求を満たし、投句した自分の句が高い点を得ることで承認された喜びを感じ、一連の句会の流れの中で個々の力量に応じた力を注ぐことで自己実現することが可能となる。これらは順次質的に高めつつ繰り返される。

 こうして、昔からお天道様と米の飯がついて回り、空気と水と安全は無料と言われる国で歌会や連歌、俳諧連句や句会が続けられている理由がマズローの人間性心理学でうまく説明できるのである。

地方句会の問題
 芭蕉のような優れた指導者のもとに句会が開かれるならいささかの問題もない。しかし地方においては主宰・指導する者がいない。いきおい参加者全員が指導者であり被指導者となる。
 会員の中にはベテランもいれば新人もいる、才気溢れる人もいるだろうし遅々として上達しない人もいるだろう。しかし、句会は俳句というメディア(媒体)を介した共同の遊び場だ。そこには日常を離れた人々が虚構の「遊び」の場を築くためにさまざまな個性を持って集まっている。
 「遊び」の最大の長所、それは日常の利害から離れた純粋な場で、何が起こるか分からないことを、かつ起こってしまったことを、とことん楽しめることである。
 虚に遊ぶ。そこには新人もベテランもないのだ。ただただ虚心に遊ぶ。それが最大の、最高のルールなのである。
 句会はその「遊び」のメディアとして俳句を用いる。句会という俳句メディア空間に集う目的はただ一つ、無目的で公平な俳句という「遊び」のためなのだ。したがってそこでは依存は許されない。もとより「遊び」に依存は存在しないものだ。常に自分に何ができるかを模索すること。これが一番楽しく「遊ぶ」秘訣だろう。なぜなら、「遊び」は常に過程を楽しむもであるし、いかなる場合も自分が主役なのだから。
 そして自分がより楽しくありたければ周囲を楽しませることだ。真剣に「遊ぶ」という共通体験の場においてこそ真に個性が息づいてくるだろう。

 個性の異なる幾億の天才も並び立つべくかくて地面も天となる (宮沢賢治)

 わたしの座右の銘である賢治の「農民芸術概論綱要」に見られる言葉。これは戦前の東北農民の苛酷な労働を、そのままの状態で芸術にシフトするという理想主義に基づいて説かれたものだ。
 
 芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ(同)

 これこそ壮大な遊びにほかならないのではないか。句会はこれを日常生活と同規模にスケールダウンしたものだろう。個性の異なる幾億の天才。賢治は誰もが何らかの能力を持っていると信じていた。句会という小空間においても、一人一人が全体のために惜しみなく力を発揮するなら天才と呼べる何かを出してくるに違いない。
 指導者と被指導者という固定的な一方通行の力関係が築けない地方句会ならではの良さがここにあるのだ。
 ただし、元来、固定的な関係などはあり得ないこと、主宰と言えども会員からの影響を受けずに成長することはあり得ないことを蛇足までに。

オズの魔法使い
 ここに「オズの魔法使い」とは我ながら唐突である。これは有名なアメリカのバームの童話。ジュディー・ガーランドのミュージカルでも知られているからストーリーはあえて紹介するまでもないだろう。さまざまな願いを魔法使いのオズにかなえてもらいたい一行がオズの住むエメラルドの都へ行く間のさまざまな冒険物語である。

 この話の示唆的な点は、エメラルドの都へ通ずる黄色いレンガの道の存在である。どこにいても、迷っても、常にこの黄色いレンガの道に戻ることで確実にエメラルドの都へ行くことが可能なのだ。これは目的即ち志と、目的へ向かおうとする持続する気持ち、即ち意志を象徴していないか。
 たとえ進路を失って、路頭に迷っても、困難な事件に出会って弱気になっても、黄色いレンガの道に戻りさえすれば、目的に向かって歩み続けることができる。わたしは幾度、人生に黄色い道があればどんなにいいかと思ったことか。

 句会に話を戻そう。賢明な読者諸氏には既に話が見えているだろう。
俳句の志高く掲げても、なかなかに難しいものだ。そんなとき、句会の仲間の誰かがエメラルドの都(俳句)へ続く黄色いレンガの道を指し示してくれるなら、句会に参加する会員全員が歩み始めることができる。「学ぶことはつねにあり」と芭蕉につながる精神を想起することができるのである。
 孤高を歩むごく少数の人を除けばこうした仲間の存在はありがたいに違いない。

孤と衆と
 句会では仲間と歩むことで志を失うことなく意志の確認ができると述べた。しかし、俳句は元来は孤独なものである。たとえ大勢の吟行で仲間と語らいながら作句したとしても、創作工房は孤独な営みだ。
 けれども鑑賞は共同の営みである。そもそも創作は常に鑑賞を前提にしているはずだ。 「いや、自分は誰にも見せずに一人で俳句を楽しんでいる」
 こういう人もいることはよく知っている。でもよく考えてみると、たとえ密かな楽しみで句作をしていて、絶対に誰にも見せないという人でも、必ず自分という鑑賞者は想定しているはずだ。自分という鑑賞者を排除することは絶対に不可能なのだ。
 句会は多くの鑑賞者に自分の句を見てもらう場である。まさに句を鑑みてもらう場なのだ。孤独な創作の結果を句会参加者という鏡に照らすことで、自らを別の視点から鑑みることができる。
 ここにおいて、平凡な我々が自らを相対化する哲学者の視点を得ることになる。

切磋と情
 句会という俳句メディア空間に集う人達の間には、互いに研鑽しようという「切磋」と、励まし合おうという心の通い合いつまり「情」が交錯しつつ、かけがえのない人生という有限な時間の中の潤いある場となる。

 座には連歌の雅に飽きた上流社会の人と、俗に生きる庶民の上昇志向とを同時に満足させる社会的ヒエラルキーを超える場としての機能もあった。
(乾裕幸「松永貞 徳、国文学 解釈と鑑賞一九八四年六月号」要約)

 このように、古来からさまざまな人生を背負った人達が交響して、句会という俳句メディア空間に「遊ぶ」。
 先の黄色いレンガの道さえ歩んで行くなら句会に直接参加した仲間だけでなく、遠く空間を隔てた仲間との交流も同時に行っていることになる。志を同じくした仲間に無言の叱責と励ましをいただいているのだ。
 同様に「学ぶことはつねにあり」と芭蕉に代表される時代を超えた仲間とも切磋琢磨し、道を同じくする同友としての情を交わし、虚の「遊び」、魂の交歓をすることができるのである。
 ここに至って、地方も本部も時代も関係ない本当の意味での「出会い」が、俳句をメディアとした虚構の「出会い」が成立するのだ。

 俳句メディア空間に心底たゆたっている時、三昧の境地を疑似体験していると感じているのはおそらく筆者だけではあるまい。しんとした会場で紙と鉛筆の音だけが辺りを満たす。 誰の句とも知れぬ作品に固唾を呑んで感動し、言葉の醸し出す世界に浸るとき、優れた芸術家や宗教家のみ到達できる世界を垣間見たような気がするのだ。

 

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藍生集を読む

藍生集を読む 

三島広志

藍生集を読む(′92・10月号) 1
影と陰とかげ

三島広志

 ある詩人の息吹を実感したくてみちのくの炎暑の下を彷徨したことがある。
 古びた町並みはくっきりとした影を道に焼き付けていた。

  日がかうかうと照ってゐて
  空はがらんと暗かった
宮沢賢治 「開墾」より

 明るさも極まれば暗くなる。みちのくの炎昼は旅人に鮮烈な片陰を与えてくれた。


 片陰に己の影を見失ふ
中井みつぐ(岐阜)

 旅人は自問する。自分は一体どこから来て何処へ去り行こうとしているのかと。片陰には確かに己を見失わせる魔力がある。

 片蔭や見知らぬ人に会釈して
川島維頼(群馬)

 見知らぬ人とは一体誰か。彼こそは失った己の影ではないか。会釈をしながら遠い記憶をまさぐる。

 果たして陰と影とは。
 「影」「形」「彫」「彩」などに含まれる三本の斜めの線は刻まれたものを象形している。即ち影はものが日を遮って刻み付けるものなのだ。
 対して 陰(蔭)は「魂」「雲」などと同じように「云」を持つ。これは日の当たらない所の意味と同時に「氣」の古い意味を有し、形無けれど動めきありを表す。

 土に焼き付くはずの己が影を片陰が吸い取る。片陰に涼をのみ求めてたやすく入り込めないのは陰に潜在する怪しげな動めきのなせる技なのだ。

 石影の濃ゆきはさびし冷し蕎麦
後藤仁(岩手)

 地に刻まれた石の影。ただ今、此処には確かに存在する形。けれども時のうつろいとともに形は歪みついには夕闇に溶け去る。

 待つ人のどの道を来る夏木立
大沢江南子(福島)

 人を待つ。その人の面影を胸に抱いて。燃え立つ夏木立の彼方からあの人は来る。
しかし来る人にかかわりなくその人はわが胸に住んでいる。投影された郷愁の影として。

 名作の冒頭の海明易し
西村隆枝(広島)

 名作は海の光景から始まる。潮風に読者をたゆたわせながら。ふと気付けば現実の朝は暁光に包まれている。
 光もまた彼方からやってくるのだ。沖の波に光が砕け、夏の太陽が昇ってくる。古人は光をも「かげ」と呼んだ。なぜなら、光は陰の中を突き進む。そしてものに出会って影となる。

 蚊喰鳥手話の指先昏れのこる
長野眸(福岡)

 一心に語る指先を見つめている。胸の前で軽やかに指ことばの精が舞う。語り合う
二人の周りには闇も近づけないのか。ふと見上げるとが蚊喰鳥が音無き声を発して宵
の空を飛び交っている。

 夜濯やすいと男に騙されて
橘しのぶ(広島)

寝静まってから汗のものを洗う。蒸し暑さで寝苦しいなら、いっそさっぱりと一日の埃を落とそう。深闇が覆い被さる窓を開けて洗濯物を干す。すいと騙されたんだもの。汗も男に騙されたこともすいと流してしまおう。

 墓洗ふ水をもらってくすり飲む
篠塚秀義(北海道)

 一年の苔を墓石から洗い落とす。幽明の境の標だから丁寧に磨こう。だが命あるこの身も労らねば。薬の時間だが、えい、ままよ。水に代わりはあるまいと墓石用の水で服薬。この飄逸さはどうだ。

 すいと騙され、墓洗いの水で薬を飲む。このおおらかさこそ超然と「かげ」を突き抜ける。陰(かげ)から光(かげ)へと転換し、影(出会い)を大空へ解き放つ。

 でで虫や真っ直あがる観覧車
小山京子(福島)

藍生集を読む(92・11月号) 2
なつかしみ

三島広志

 季語の現場に立っての俳句の創造は、季節のただ中にあって季を実感し、事実・事物の確かな手触りの中から生み出されるものである。
 しかし、鑑賞は違う。夏の俳句でぎっしり埋められた藍生集を今わたしが読んでいるのは、暦の上ではすでに冬、現実には晩秋である。
 されば、鑑賞こそは想像力を縦横に発揮する現場とならねばならない。先月のわたしの鑑賞のあまりの牽強付会さに呆れた方もあるだろう。しかし、それはわたし自身の想像力の表出の結果にしか過ぎない。
 また、韻文を散文で解釈・解説することは作品に対して実に失礼なことだ。俳句をなぞらず鑑賞文の形を借りた自分表出を心掛けたい。

 今月もまた集中が佳句で満たされている。そんな中にあって共感できる俳句、驚きを与えてくれる俳句も素晴らしいが、読みを深める謎を孕んだ俳句もまた楽しい。えてしてそんな俳句は表現が極めて素直なものだ。

 海底を白く平たく泳ぐかな
溝口怜子(埼玉)

 海に帰る。そこは遠いいのちを育んだ故郷。骨を無くした原初のからだのように平らになって水中で白くきらめく。

 かなかなの万のかなしみ負ふごとく
遠野津留太(東京)

 かなかなと鳴くを数へて父の墓
坂内信造(東京)

 かなかなやうしろ姿を見つめられ
浜谷君子(愛知)

 蜩はその鳴き声をして聴く者にあはれの情を起こさしめる。
 その音色は生のかなしみを負い、数えるうちに遥かな来し方を偲ばせる。

 うぶすなの深閑として蝉涼し
荻野杏子(愛知)

 これもまた蜩か。うぶすなの静けさは懐かしさにつながる。

 盆の月廃船をうつ波の音
長晴子(大阪)

 最終のバスに人待つ盆の月
田丸栄子(広島)

 盆は魂の歴史と語らう日だ。身を流れる血潮に耳を傾けるために鮭のように故郷に帰る。廃船を照らす月明かりが人を語らいへいざなう。そしてバスは最終。未来からの断絶がそこにある。

 ひと逝くや大暑の風にさからはず
桑尾睦子(高知)

 日盛や霊柩車のみ路地に入る
川崎柳煙(福島)
 風に逆らわずに逝くのは自然随順の極致であろう。日盛りに葬儀は音もなくあっけからんと運ばれていく。
 人の訃を突き放して読むところに俳句の凄みがある。死という重い事実を端的に描写すると枯れて見えるのだ。
 ただ自らに忍び寄る死をこのように詠めるかが一大事。

 想ふことみなそれぞれでゐて涼し
山崎紀子(鳥取)

 集いは楽しい。さざ波のように笑顔が広がっていく。でも皆本当は何を考えているのだろう。言葉は同じでも受け取り方はそれぞれ違う。そう、共通点は涼しさばかり。


 ねむの花郵便配達くる時間
内山兌子(長野)

 軽くなる朝の気配に芙蓉咲く
安河内ちえ子(福岡)

 百合の花ひらりと食べてしまひけり
森田伊佐子(茨城)

 花は時間と繊細な心象を吸って開くようだ。花を見て心安らいだ後なぜか疲れるのはそのせいだ。

 ゆく夏のある日鰻の掴み捕り
滝本利子(神奈川)

 不思議な句。ある日という曖昧さが鰻の掴み所の無さにあいまって逝く夏の味わいを醸す。

 夜の秋の蜆の水を替へにけり
加藤きちを(岐阜)
 秋近き夜のしじまの深さが懐かしい。蜆に注がれるのはすでに秋の水だろう。

藍生集を読む(九二年・十二月号) 3
過程としての俳句

三島広志

 自分にとって俳句とは一体何だろう。
 藍生集の膨大な俳句をじっくり鑑賞する機会を与えられて、改めて考えさせられた。

 漫然とただ楽しいから作句していた時期を経て、生活の中に句作りが習慣化され、いつも脳裏ないしは胸中奥深くに五七五の調べが流れ、ふとした瞬間にそれが言語と化す。そうした十数年が断続してあった。
 断続、そう、決して一貫して俳句に没頭してきた訳ではない。熱中したり、離れたりの幾度かの繰返しがあった。しかし、俳句はついに心身の一部のように完全には捨て切れない、業とでも呼ぶべき動かしがたいものとして背後に張り付いていたのだ。


 では改めて自分にとって俳句とは何なのだ。 心情をふと吐露する私小説的俳句、人生の根幹に関わる問い掛けを表現する求道的俳句、呻吟の中から絞り出す自己救済的俳句、日常のひとこまを活写する日記的俳句、仲間との触れ合いや旅吟に親しむ愛好的俳句など人それぞれに俳句への取り組み方は異なるであろう。

 今のわたしにとって俳句とは、句を創出することで魂を建て直すとも言うべきものである。しかしそれは決して呻吟から生まれるものでなく、おおらかで呼吸が深くなるような虚構を設定・構築するものである。
 そのために現実を直視し、心の琴線に響くものを直覚するのである。しかしこの方法は類型化を招く。そこに詩化という魂の新鮮な仄めきが必要となるのだ。
 したがってわたしにとって「結果としての俳句」は「過程としての俳句」の魂を揺する瑞々しい展開に及ぶべくもない、即ち少なくとも第一義の問題ではないのである。


数片の骨を拾ふて夏果つる
小原祺子(岩手)

空蝉を拾ひて吾子の墓参
飯倉あづま(茨城)

 ともに死をテーマとする。死は唐突にかつ確実にやってくる。愛する者の全てが消失する。人は何かの手応えがないと不安でしかたがない。骨や空蝉は故人の隠喩として残された者を慰める。

林檎二個もいで秘密の基地へ行く
齋藤えみ(福島)

 造成地か薮の中に秘密基地を作った。食料は通りがかりの畑から拝借したもぎたての林檎。男性が悪餓鬼のころの共通体験。それを母の目で捕らえた。

鬼灯を残り火のごと引きにけり
大町道(栃木)

 残り火は未練である。燃え盛りの後の燻りが、残滓の中に淀んでいる状態。また鬼は充たされないあがきを示す。だからこそ狂気のごとく打ち込む姿を鬼と言う。鬼灯は鬼の未練を照らし出す。

何もせぬ両手をさげて夏に居る
溝口怜子(埼玉)

起重機の何も吊るさぬ良夜かな
本田正四郎(埼玉)

 何もしない、何も吊るさない。何もないものは俳句の素材に向いているようだ。その発見こそが詩精神の発露。

厳かにみんみんの鳴き始めたる
浦部熾(埼玉)

 厳かとは見事。来年からみんみんの声には襟を正さねば。

秋高し妊りて知る空の色
岡村皐月(千葉)

 新しい生命を胎内に秘めた女性に、秋はどんな色をもって祝福するのだろう。

息継いで舞ひ上がりたる秋の蝶
藤井正幸(東京)

 秋の蝶の舞い上がる一瞬の空白。あれは息継ぎだったのだ。

今日の月照らせよ滅びゆく大和
島田勝(奈良)

今生に最高の夏ありがとう
市嶋絢(京都)

 全ての現象や自然、営みは滅びへの前奏曲にしか過ぎない。しかし最高の夏は確かな手応えで我が身体・命の賛歌となる。
 「ありがとう」。哀しいほどに輝かしい。

 

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現代の俳句 連載12 〈痰のつまりし〉

現代の俳句 連載12 〈痰のつまりし〉 

三島広志

 短歌・俳句の投稿欄は新聞販売に地味ながらも大きな影響を持っているそうであるが、現在、人気の点では俳句が短歌を圧倒的に凌駕していると聞く。

 俳句の人気の大きな要素のひとつは、それが世界で一番短い詩型である点だろう。何にしても一番というのは気分が良い。それに、短くて誰にでも作れそうだ。そこで、とりあえず短さにだまされて取り付いてみると・・・その先は実作に苦しむ会員諸氏には言わずもがなのことである。

 鑑賞するだけの人からすれば、俳句より短歌の方がずっと読み易いと言う。短歌の方が長いだけ説明の部分があるからである。
 俳句は短さを克服するために色々な技術を発展させて来た結果として、逆に俳句を読み難くしてしまったことは否めない。

 この傾向は決して喜べるものではない。ある特殊な環境に適応したために、一般的な環境に適応できなくなって絶滅した生物種は無数にある。俳句もその危機にあらずとは言えないだろう。
 しかし、やはり俳句でモノを詳細に説明するのは難しい。十七字ではあまりにも短すぎる。だからと言って直截に感情を吐露すれば読み手は白ける。では、先人たちはどんな方法を駆使してきたのだろうか。

 「写生」と呼ぶ絵画の技法を取り込んだ方法。モノの指示だけに止めてモノそのものに語らせるやり方だ。即ち、読者に鑑賞の大方を委ねてしまう。例えば、林檎と書けば読者は読者なりの林檎を思い浮かべるように。

 あるいは、五七五の韻律を意識的に断ち切って、その空白に物語らせる方法。さりげなく文法違反を犯す韻文の最大効果でもある。「切れ字」や体言止めが典型。

 それとも、モノとモノとの衝撃的な出会いに読者を巻き込むか。各々意味合いは異なるが二句一章とか二物衝撃、モンタージュ効果などと称される俳句の中でも重要視される技術である。

 さらには、季語の持つ普遍的な時空間的〈場〉の中に読者を引きずり込む方法。歴史的に最も有効な手段とされ、現在、季語は方法を越えて、俳句の条件とまでされている。

 結局、十七文字で完結した世界を提供しようとするなら、これらの俳句が育んできた技術を駆使するしかあるまい。

 しかし、その繰り返しだけでは俳句の世界が狭まる。従来の方法に乗りながら新しい世界を目指すにはどうしたらいいのだろう。

 一の橋二の橋ほたるふぶきけり 黒田杏子
 指さして雪大文字茜さす 同
 はにわ乾くすみれに触れてきし風に 同 

 これら杏子の俳句は、過去の俳句の世界をあえて踏襲しようとはしていない。むしろ、現場において体ごと感じ取った(観じ取った)ものを一気に句に仕立て上げて俳句を若返らせている。句を作るに当たって季語の力に依存していないのだ。


 これらの句にも、結果として、長い年月をかけて育まれてきた季語やその他のことばの世界が見え隠れしている。それらの相乗効果の上に杏子の俳句は立ち、さらに俳句が季語に命を吹き込んでいるのだ。黒田杏子の俳句が驚嘆をもって迎えられた理由はこんなところにもあるのだろう。

 現場に立ち、対象から送られて来る波動と自らの精神とが共鳴する瞬間をはっしと掴む。それを自得するためには年月を必要とし、さらに、俳句の表現技術と同時浸透するように〈人間〉としての成長も必要とされる。

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 子規

 子規のこの句に学ぶなら、それは叙法ではあるまい。彼は宿痾による極めて困難な日常生活を見事に俳句を通じて突き抜けた。即ち、非常を平常として生ききった。その間、自らを俳人の目で相対化できたこと、この俳精神をこそ、まず学ぶ、否、追い求める必要があるだろう。

 熱や喘ぎの中に苦悶している自らを痰の詰まった仏と見る諧謔。こういうところからしか糸瓜の句は生まれてこなかったのだ。

後書に代えて
 一年間、読みづらい文体に付き合って下さったことに感謝します。
 また、本来なら当然敬称を付けるべき方々に対して文の体裁上一貫して省略させていただきました。ここに謹んでお詫びいたします。

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現代の俳句11 「女流俳句 」

現代の俳句11 「女流俳句 」

三島広志
 

 俳句総合誌では、時折、女流特集が組まれる。数誌が時折やるのだから、結果として年がら年中、どこかの雑誌が女流で賑わうことになる。
 しかし、今更、女流特集など組まなくても、世の俳句愛好家の大勢は女流にある。
文化センターしかり、結社またしかりである。それとも、いまだに女流は量的にこそ男流を凌駕しているが、質的にはまだまだ劣っていると考えられているのだろうか。
華々しい女流特集を見るたびに考えさせられるのである。

 物事を類型的に見るのは好きではないが、一般に女性の方が感覚的な表現に優れている、あるいは大胆であると言えるだろう。今日、現代詩でも短歌でも川柳でも女流は元気がいい。男流に比べて感性のままの表現を恐れず、身体性豊かで伸びやかなのである。

 母の寝顔を見る/眼の縁の皮膚が/湿った布のように/ひだをたたみ/眼球のはげしい動きに/物の姿が伸び縮みしている
岩崎迪子(坂道より抄出)

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る  河野裕子

 わたくしの骨とさくらが満開に 大西泰世

 これら他のジャンルに対して女流俳人がやや自制的に感じるのは、俳句の短さや季語、なにより漠然たる説明困難な俳句性などというものの制約の大きさゆえであろうか。その俳句性というものが男流の寄り所と言えなくもない。そこに男流擁護のシステムが見受けられるのだ。そもそも女流特集などという企画があることに男流擁護が窺えるというものであろう。

 そうした、無自覚的な男流擁護の俳句界にあって、女性俳人が詩人としての資質を適度に抑制して俳句にまとめると、かえってそこにきらめく詩情と味わい深い世界が展開される。若い男性俳人にも感性重視の俳句が見られるが、多くは女性本来の特徴としてその傾向が強いようだ。例えば長谷川久々子の俳句などはその良い例だろう。
 長谷川久々子。昭和十五年生まれ。二十七歳で雲母(飯田龍太主宰)に投句を始め、二十九歳で岐阜から発行の青樹(木下青嶂主宰)にも入会。句作は夫長谷川双魚の影響による。現在、青嶂・双魚の後を受けて青樹の主宰である。昭和五十四年刊の処女句集「方円」序文に師の龍太は次のように述べる。

  私は久々子さんの作品に接するたびに、恵まれた詩才に感服する以上に、見事な怺え性に共感をおぼえ、深い感銘を受ける。
(生得と自得と)

 弟子の才能に感嘆する優れた師匠は久々子の怺え性に共感をおぼえるという。つまりは龍太本人も有り余る才能を俳句一筋に絞り込んできた、つまり他の分野や表現方法への誘惑を怺えてきたという本音がぽろりとこぼれた「共感」なのだろう。龍太には男流擁護から距離を置く見識がある。

 冬鏡伏せて嘆きは詩のはじめ (方円)
 誰が死んでも仙人掌仏花にはならず 同
 模糊として男旅する薄氷 同
 病人に耳と目のある良夜かな 同

 師の懐で久々子は自分の才能を縦横に展開することになる。そこには直接の先生で夫でもある双魚の深く暖かい眼差しも忘れてはならない。

 うすものに風あつまりて葬了る 双魚
 雲よりも花に従ふ空の色 同
 しんがりの子に風の吹く鰯雲 同

 恵まれた二人の師匠の下、その愛に報いるために久々子は敢えて自分の才を見事に抑制してきたのである。おそらくこれは俳句の師弟関係や結社の束縛が極めて上手く機能した例だろう。逆に潰されたり、俳句を見捨てて他のジャンルに移行した才も多くいるに違いないのだから。

 仏事から慶事やうやくうすごろも (水辺)
 秋口の終りの草で鎌ぬぐひ 同
 枯蟷螂血縁は骨はさみ合ふ (光陰)
 茎立や別るるための耳飾 同

 今は男女別なく俳句の世界を歩んで行くことができる時代であることは間違いない。子を産み育てる性である女性に男性が機会を与え、協力を惜しまないことが社会の発展に繋がるとは実にプラトンの時代から言われていることなのだ。ただし、お稽古事でなく、真っ当なる「遊び」として極めるという志はしっかり持たなければならない
ことは言うまでもない。

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現代の俳句10 「季語」と「写生」

現代の俳句10 「季語」と「写生」 

三島広志


 些少ながらも俳句に関わる者として季題や季語、さらに写生に触れないで通過する訳にはいかないだろう。そこで、今月はわたしなりにまとめてみた。

 季題は長い歴史の間に、人々の美意識の選別に磨かれてきた四時の物事の奥にある本意である。その際、具体的な季節の事物を指すことばを季語と呼ぶ。

 季語はより実生活に即した季節を表すことばである。物事の持つ本意の醸し出す季題の世界を日本人一般に共有させる記号のようなものとも言えるであろうか。季題も季語も日本人の精神史が育み、鍛えてきた美的経験共有化のためのことばなのであるが、季語のほうがより現実的とされているし歴史も浅い。

 山本健吉によれば、季題の頂点に五個の景物として「花・月・雪・時鳥・紅葉」があり、その裾野に和歌の季題や俳句の季語があるということになる。

 しかし、それは反面、ことばが美意識を強制することでもある。人の意識をことばに隷属させるのだ。例えば、花と言えば目の前の桜だけでなく、西行や業平などに代表される多くの歌が築いてきた花にまつわる世界が染み付いている。そこから完全に屹立した地点に立つことの難しさ。

 したがって、逆にそのことばに付着した猥雑な手垢をそぎ落とそうとする動きも同時に発展させることになる。その方法として子規が絵画の技法から取り込んだのが写生である。 写生とは物事をことばでおさらいすることだ。極力主観を排して物事をことばに置き換えることで、結果として物事に新しい息吹を与え、読む人の心まで揺さぶる。そのための方法の一つが写生なのだ。

 しかし同時に、写生は具体的な物事に形を借りた心の表出に外ならない。物事になぞらえるという表現方法で湧き上がる思いの丈を俳句に委ねているのだ。ここに至れば写生は方法というより心構えということになる。

 かくして俳句は季語の歴史的集積で膨らもうとする力とそれを削ぎ落とそうとする写生という相い反する力の責めぎ合う器となる。わずか五七五という小さな器にとってそれが幸いなことかどうか判断がつかないが、その恩恵は誰もが無自覚に受け取っていることは間違いないだろう。

 ともあれ、俳句は一般通念上は、五七五ということば足らずの形式とそれを補う季語で事物の本意の顕在化を図り、それに加えて写生によるイメージの屹立化によって新たな世界を生む場であることは確かである。
 森羅万象の中からひとつの物事をことばとして独立させると、その瞬間、ことばは新しい宇宙や自然を生みだす。そのとき季語が大きな働きをすることになるのだ。ただし、季語に代わることばが同じ役割を担うことが可能なことはいうまでもない。

 その生み出された宇宙・自然は現実の森羅万象と微妙にずれながら重なる。さらにずれた宇宙・自然がまた新しい宇宙・自然をずれながら重なりつつ生み続ける。こうして循環する気流のような俳句の世界が成立し生成し続けるだろう。

 この運動性によって作者が思いもしなかった新たな世界が俳句によって創り出される。こうした俳句はいのちを注がれた作品として命脈を保ち続けることが可能だ。作品と人との間に螺旋状の発展的な運動が渋滞なく続けば俳句も詠まれた物事も喜ぶに違いない。

 俳句は物事の本意を把握し、記録し、一般化する一つの方法だ。そこに魅力的な共通認識としての季語があり、便利な写生という方法がある。

 今日、これらに支えられて俳句は安易に作られ過ぎてはいないかとも思う。けれども、反対にこれは大衆文芸として極めて優れた性質ではないかとも感じる。深くも浅くも、楽しくも苦しくも、自由自在にその人なりに俳句と交流することができる。ここに俳句の人気の秘密があるのではないだろうか。

 いつの時代でも、俳句の可能性を探ってさまざまな試行を行っている精鋭俳人が、俳句の陥りやすい閉塞性に風穴を明けてくれている。その潮流に乗って、多くの俳句愛好家もまた舳先をゆっくりと変えつつ俳句の歴史を刻んで行くことだろう。俳句はこうして多くの無名の作家によって累々と書き継がれてきたのだ。そして、これから
も泰然とうねり続けていくに違いない。

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現代の俳句9〈薔薇までの距離〉

現代の俳句9〈薔薇までの距離〉 

三島広志 

 馬場駿吉の第三句集「夢中夢」は刺激的である。俳句という短い定型詩の可能性を伝統を断ったところで見事に書き切ってあるという点で実に刺激的なのである。
 知り合いのN女史が、ある日、

 「俳句って短いのに、こんなにすごい世界が表現できるんですね。とても驚きました。ことばの持つイメージが精神の奥をありありと表現しているんですもの。」

と目をきらきらさせながら、一冊の句集を持参した。これが「夢中夢」との邂逅。
 N女史がその句集を購入したのはすでに十年も前。わたしが俳句をやっていると知って改めて本箱から捜し出して来たのだ。

 作者の馬場駿吉は名古屋在住の医師で耳鼻科の権威。大学教育者として名高く、美術評論家としても一家を成している。

 「夢中夢」は「断面」「薔薇色地獄」に続く、彼の第三句集であり、近々第四句集が出る。また、「夢中夢」とほぼ同時に美術評論「液晶の虹彩」も出版された。

 句集を紹介してくれたN女史はフリーの編集者兼舞台芸術評論家で、以前、朝日新聞東海版に演劇や舞踊の月評を受け持っていたこともある。
 彼女は私が三月号のこの欄に書いた「鶴を抱へて・長谷川櫂」の下書稿に目を通して、俳句論に〈場〉という言葉が使われていることにとても関心を抱いた。
 舞台芸術は演技者と観客が同時空間体験を持つ〈場〉を形成することで成立する芸術だと理解しやすいが、俳句は詠み手と読み手が異時空間で結ばれているのだから、そこに〈場〉は見えにくいと言うのだ。しかし、俳句の前身である連句の〈座〉を考えればそこには〈場〉が極めて明瞭に姿を表している。

 俳人にとって〈場〉こそが極めて短い文芸を成立させている重要な要素であることは自明のことに過ぎない。
 彼女は舞台芸術と俳句という一見全く異なったジャンルを〈場〉という共通言語が結び付けることにとても興味を抱いていたようだ。 さて、俳句にあまり関心のなかったN女史を感動させた俳句とはいかなるものだろう。 まず冒頭の句を示そう。

 舌面に白き地獄繪桃を食ふ 駿吉

 通常の俳句に親しんだ読者にとってこういう句には違和感を持つだろう。「桃を食ふ」と一応季語はある。しかし、この俳句は私の頭脳に季語が伝統的に受け持ってきた像を描いてはくれない。作者は舌苔を白い地獄絵と見たのだろうけれども、いわゆる写生でないことは明らかである。

 ところが、こうした難解な俳句も以下の句を読んでいけば作者の意図が見えてくる。

 薔薇を剪る夢にて人を殺めし手 駿吉
 わがサドの復活祭の冬木伐る 同
 今宵わが地獄の磁針薔薇を指す 同

 これらの句は、現実を描写したものではない。むしろ作者の精神の深奥を何とか具体的な〈もの〉を通して普遍化しようという外科医の冷徹な目が、自らの心をメスで
捌いているようだ。そこに示された薔薇も冬木も景物としてのそれらではなく、心の中の風景なのであろう。

 作者は自らの精神の奥底が人々の精神と通底していると確信しているのではないか。
そしてそこにしか芸術の立つ瀬はないと考えているのかもしれない。

 手に提げて紫陽花はわが鬱の腦 駿吉
 薔薇までの距離ふとわが死までの距離 同
 わが射手座墜ちゆく海に水母殖ゆ 同
 星座涼し滅びし神の名をとどめ 同
 血を盗む春蚊をゆるし從妹の忌 同

 これらの比較的読みやすい作品もその上辺に止まることは許されない。読者はこれらの俳句を一度自分の精神の底まで沈めて、湧き上がる共感に身を委ねるという快感、あるいは拒絶をもって鑑賞することが要求されるのだ。

  俳壇という一種の結界をとりはらった開かれた地平で、自己の自由を思うままに主張しつつ、創作活動をつづけたいという願望を実行してきたまでのことである。

 駿吉は後書にこう書いている。これは俳人としてではなく、一人の創作者の決意に外ならない。奇しくもこの句集を私に紹介してくれた女性が、俳壇という結界の外で創作活動を自由に眺めている人であった点は、まさに駿吉の意に即したものであったと言えよう。

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現代の俳句8 〈「書き」つつ「見る」〉

現代の俳句8 〈「書き」つつ「見る」〉 

三島広志

 「現代の俳句」を自分なりに眺めてきた。しかしそれらはいずれも俳句に切り込んで断面を白日にさらすという取り組み方ではなかった。そう、上っ面を眺めてきただけなのだ。
 ここに至って自分自身に対して「俳句を書く」という根本的な問いかけを全くして来なかったことに気がついた。
 「藍生」九四年十一月号の「俳句と志ー遊びと人格をからめてー」という拙文のまとめとして次のように書いた。

  俳句を作り続けることは我が生において自分の「志」を見失わないための「意志」の確認とも思える。

 この一見「書くこと」に触れたような文章で実は私が俳句を意志確認の〈道具〉として考えていたことが露呈してしまった。
 拙文には私と俳句の関係が述べられているだけで書く行為自体を問う姿勢は見受けられない。俳句に真剣で対峙しようという姿勢を放棄し、自分にとって都合のよい〈道具〉と見てしまっているのだ。そこから脱出するためには、種々の表現形態の中からどうして敢えて俳句という表現形式を選ばなければならなかったのかと問い続け
ることだろう。

 ところが俳書を参考にしても多くはそこを割愛していきなり「俳句の作り方」と「素材」を述べてある。
 「五七五に収め、季語を用い、写生を基礎とし切れ字と省略が大切。題材は自然・人生・社会など」と。

 また俳論には人生に引き付けて書かれたものも多い。芭蕉の求道的な生き方に影響されたものだろう。例えば森澄雄の発言はそのまま優れた人生論あるいは宗教談ととらえてもあながち間違いではない。

  みなさんの句を見ていると、いつでもそのものがあるように安心して句をつくっている。ものは絶えず動いて、変化しているんです。動いているというよりも死に近づいていっているかもしれない。
「俳意と写生」澄雄俳話百題より

 見事なものであるが、ここにはすぐれた俳人の自然観と心が書かれているだけで、俳句を書く行為自体を追及するものではない。

 このように「方法」や「素材」や「心」については書かれていても根幹をなす問題である「何故俳句を選び、書き続けなければならないのか」という点についてはあまり書かれていないのである。
 以上のことを踏まえて「現代俳句集成別巻二(河出書房新社)」の中の高柳重信「『書き』つつ『見る』行為」という文章を紹介しよう。そこには戦争と結核という厳しい現実に直面した時代に青春を過ごした彼(彼の世代)と俳句との切実な出会いが書いてある。

  何も始まらないうちに、何もかもが終わってしまいそうな環境のなかで、僕たちの世代が、ようやく掴み取った唯一のものが、この俳句だったのである。したがって、その頃の僕たちにとって、俳句というものは、非常に切実な何かであった。

 彼は俳句との出会いがかくも切実だったためか、自らの作品を厳しく批評する。

  そこに生まれてくるのは、書かれるに先立って、もう大部分が決定済みの世界である。言葉に書かれることによって、ただ一度だけ、はじめて出現する世界ではなかった。

 こうした自らの容赦ない批評が向けられたのが処女句集「蕗子」である。

 身をそらす虹の    
 絶巓         
     処刑台


 船焼き捨てし
 船長は

 泳ぐかな

 とそれらの効果を上げるための多行形式を一句ごとに試みるという厳密で血を吐くほどの困難な過程を経て成立した作品群。しかし、なお重信は「決定済みの世界」に過ぎないと言う。

 私が初めて「船長」の句と出会ったときの、一行の空白の衝撃は今でもまだ新鮮に響く。これが「切れ」か!と、身を貫いたのだ。

 秋の田やむかし似合ひし紺絣 山川蝉夫
 亡き友といふ言葉ある柚子湯かな 同

 困難な作業の合間にこうした句も作っていた。これらの俳句は従来の方法に乗って発想と同時に瞬間的に書ききってしまう試みでそのときは山川蝉夫という別号を用いたと言う。

 自らが書く行為自体を厳しく相対化すること、それが俳句を衰退させない唯一の方法なのかもしれない。

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現代の俳句7〈海を知らぬ〉

現代の俳句7〈海を知らぬ〉 

三島広志

 俳句と平行して短歌を作っていた。三十歳の頃だ。切っ掛けは木枯が山を吹き抜ける句がどうしてもまとまらなかったのでいっそ短歌にしたらどうだろうと考えたのだ。

 枯山を木枯し空へ抜けし音幾度聞かば父に近づく 広志

 この歌をおもしろ半分に角川「短歌」の公募短歌館へ送ったら島田修二特選に入り「枯山を吹き抜けるこがらしに、作者はこの世の果てを感じている」などと身にあまる解釈までしていただいた。いわゆるビギナーズラックというやつである。

 俳句と短歌は兄弟のようによく似た形式なのに両方作る人は少ない。大家と呼ばれる人にはまずいないだろう。わたしの経験からすると、両方を作っているとついにはどちらも出来なくなってしまうのである。
 五七五七七の七七があることで、俳句を作るための緊張が緩み、逆に五七五と言い切る癖で短歌の調べがぎこちなくなる。つまるところ、両者は全く異なった文芸なのだ。

 俳句と短歌の両方に名を残した人に寺山修司(昭和十年生)がいるが、彼も時期を同じくして創作してはいない。中学から十八歳まで主として俳句を作ることで自己形成したと本人は述べている。「チエホフ祭」で短歌研究新人賞を得た十八歳以後は俳句を止め、短歌にその活躍の場を移したのである。

 修司と中学と高校を同じくし、十代俳句雑誌「牧羊神」の編集もした京武久美によれば、修司は当時から他人の作品から言葉やフレーズを借りたり盗んで自分の言葉とイメージに磨き上げる才に長けていたそうである。

 これは後に戯曲に進んだとき彼を大きく助ける才能となったろうが、「俳人格」などという言葉があるほどの厳格な俳句の世界からはあまり快く思われてはいない。今日でも俳句雑誌で修司を取り上げる機会が少ないのは次に紹介する短歌のせいであることは想像に難くない。

 莨火を床に踏み消して立ちあがるチエホフ祭の若き俳優 修司
 燭の火を莨火としつチエホフ忌 草田男
 一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき 修司
 種蒔ける者の足あと洽しや 草田男

 同じことは自分の作品でも試みられている。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 修司
 夏井戸や故郷の少女は海知らず 修司
 わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 修司
 父と呼びたき番人が棲む林檎園 修司

 これらの短歌は修司の短歌中とりわけ有名な作品であり、わたしの愛誦歌でもあるが、それらの作品が他人や本人の俳句に題材を得ていたところに一抹の割り切れなさを感じる。

 確かに和歌の歴史には本歌取りという技法があって、むしろ本歌を知っている学識を高く評価されてきたが、俳諧連句はそうした伝統をばっさり切り捨てることで庶民一般の文芸として連歌から独立したのだ。
 修司自身も本歌取りとは考えていなかったろう。だからと言って修司の作品を剽窃とも思わない。むしろわたしは二つの形式の間を修司がどんな気持ちで行き来したかにとても関心が湧くのである。

 俳句は短いために無限の想像を許す。しかしそれは想像力のある読み手にのみ許される。短歌はその許容を少し限定してくれる。その分かえってイメージを形成しやすいのではないか。読み手に優しいのである。

 「海を知らない少女」の前に「両手を広げるわれ」を置くことで実に初々しい光景が描けるだろう。限定のないモノの世界を剥き出しで提出するだけでは修司は物足りなかった、あるいは怖かったのではないだろうか。そこまで読者を信頼出来なかったのかもしれない。終には彼は短歌も捨てて劇や映画という視聴覚を用いる発表の場に
移ることになる。

 しかし彼の芝居は観客に強いイメージの喚起力を要求する。決して受け手に優しくはないのである。その点では実に俳句的である。

 歯冠まだ馴染まざりせば舌で嘗め寺山修司のあをき劇観る 広志

 修司亡き後、劇「新・病草子(寺山修司作)」を観る機会があって、帰り道に作った短歌である。その折り、彼が晩年俳句に戻ろうとした気持ちがなんとなく分かったような気がしたのである。

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