宮澤賢治

2015年12月30日 (水)

身体から見える景色 何故身体を問うのか

身体から見える景色

何故身体を問うのか

 

愛知 三島広志

 

一 出会った書物を通して

ポスト印象派の画家ゴーガンの大作に「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という名画がある。このタイトルは極めて普遍的な疑問を呈しており誰もが若いとき、一度は思い詰めるものであろう。否、この自分探しを生涯追い求めながら迷いの人生を送る人も多いことだろう。

 

自分もまたそんな青年であった。ある時、偶然出会った書物からヒトは動物的ヒトとして生を受け、教育によって社会的・歴史的生物即ち人間になると学んだ。ヒトは教育によって人間になるのだ。人は霊長類の一種ヒトとして生まれ、成長過程で社会性と歴史性を学び人間になる。人間とは時間と空間、世間などを内包してそれらの関係性の中で生きていることを自覚した生物だ。こうして自然的ヒトが個としての人、そして環境に生きる人間となる。そこに動物や植物にはない人間独自の文化が創造される。同時に人は自分を教育する能力も持っていると考えた。そう、人は生まれてから死ぬまでヒトから人間になろうともがく過程的生物なのだ。刻々と変化しながら好きな方向を目指せば良い。それに気づいて以来生きることがとても楽になったのだった。

 

さらに畢竟身体という器が生の始まりから死の間際まで自分の存在の基本としてあり、精神はその器に乗ることで存在し、死とともに全ては消滅すると思い至った。むろんこれに反論する人も多いだろう。これらはあくまでも個人的見解だ。

 

 私自身、十代後半から二十代前半にかけて人並みに自分の存在の根底を求めて足掻いた時期があった。そして自分の人生は身体のある間のみ存在し、身体が極めて重要であると考え、何名かの同志を集め私塾のようなことを始めた。その時の趣意が以下である。今読めば若書きで気負いが溢れており些か気恥ずかしいが紹介しよう。

 

我々は生きていく限り<身体>の問題を通過する訳にはいかない。そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。

 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。

 否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。それに応えるべく、<身体>は完全なる世界を体現しているのだ。

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。

 

 何故か私は十代から柔道や少林寺拳法、合気道などの武術、さらに東洋医療の指圧や鍼に興味を抱き、学業とは別に施術の指導を受けに専門家の元へ通っていた。それは単に武術や健康法という意味だけではなく身体というものの摩訶不思議な魅力への関心だった。挙げ句、社会性や協調性の乏しい自分には会社勤めは無理と判断し、独立できる東洋医療の道へ進んだ。しかし、それは生業として口に糊するためだけとして選らんだのではなく、興味の対象の延長としての意味も大きかった。これは還暦を超えた今日でもさほど変わらず、結局生涯を書生として過程的に過渡期の存在として過ごしてきたことになる。

 

 およそ九年前、藍生俳句会の編集部から「俳句と健康について連載して欲しい」と手紙が届いた。それに対し「藍生俳句会には歴としたお医者さんが何人もおられるのでそれは私の任ではない、しかし、身体論ならある程度書けるかもしれない」と返答したところ、編集部から「それでいい」と言われ五里霧中の海に羅針盤も無いまま書き始めたのが「俳句とからだ」である。それがなんと百回を超えるまでの連載になった。これから書くことはおそらくそれらの総論となるだろう。そして当然それは編集部の目論見でもある。初めは若い頃出会った幾つかの書物を通して身体およびそれに纏わる事柄を書き綴ろう。

 

武道の理論

 十八歳の時、弁証法で武道を解くという大言壮語にも思える本に出会った。これが南鄕継正著『武道の理論』である。この書で興味深かったことは「技には創出と使用がある」という技の弁証法的解釈だった。現象の中に弁証法性(矛盾、運動性)を見いだすことの重要性は学生時代に学んだマルクス経済学の基礎、「商品には価値と使用価値がある」に通底する。南鄕の技の解析もまさにそれと同構造だろうと関心を抱いた。

 マルクスの説は「商品」、たとえば萬年筆としよう、これには字を書くという使用価値と同時に五万円という交換価値があるということだ。つまり商品に本来の使用価値のみならず金銭的交換価値があるという二面を見いだすこと、これが弁証法なのだ。

 南鄕の「技の創出と使用」も同じだ。たとえば柔道の技に有名な背負い投げがある。これはヒトが生得的に持っている訳では無い。歴史の中で多くの人たちが命懸けで発明し今日に遺した伝統文化だ。この文化を有するのが人類の特徴となる。柔道を学ぶ者は背負い投げという歴史的文化を何百何千何万回と打ち込む鍛錬をすることで身体的技として作り出す。これが技の創出だ。次いでこれを乱取りや試合の中で使用する。相手は防御しつつさらに攻めてくる。その攻めをかいくぐりながら背負い投げを仕掛ける。これが技の使用だ。

 さらに南鄕は剣について述べる。剣は素人が手にしても十分に武器たり得る。刃先が相手にそっと触れるだけでも致命的だ。柔道の背負い投げはそれを技化するために膨大な努力を必要とする。しかし剣(剣の創出者は刀鍛冶)は手にしたとき構造的には背負い投げをマスターしたことと同じ域にいることになる。柔道で背負い投げを身につけ相手を投げることは、剣術で刀をひょいと振って相手に切りつけることと構造的には同じなのだ。したがって剣術は技の創出の部分を端折り、いきなり使用から稽古を始めればいいのだ。 

この解析に私は大変興奮した。さらに以前から別の書で知っていたことだが中国では昔から「技術」という言葉が作られている。その解釈に諸説あるが、私は「技は創出、術は使用」と理解している。「技」の中にある弁証法性はすでに「技・術」として分かっていたことなのだが、それを南鄕は見事に理論化した。これは二十歳前の私をいたく刺激したのだった。

 

武道では分かり難い面もあろうから、俳句に置換してみよう。俳句の五七五という形式は初めから与えられている技としての器、つまり刀と同じだ。牽強付会に思えるだろうが、俳人は何も考えずともことばを五七五という形式に載せればその出来栄えは別にして、とりあえず俳句になる。これが自由詩なら詩人は初心者が背負い投げを身につけると同様に、ことばに適合した表現形式を苦闘しながら創出しなければならい。俳句が入門しやすい文芸である所以の一つがこれであろう。むろん困難なのはそこから先であることは言を待たない。短歌や俳句の形式は歴史的に創出された技という踏み台だ。詠み手は初めからその上に立って歌や句を創出できるという恵まれた立場にあるということだ。これは俳句が海外にも広がっていった理由でもある。

 

極意

 そのあと手にしたのは坪井繁幸(現、香譲)の『極意』とう本だった。これは各界の優れた人を取材して「意を極めるとは如何なることか、極められた意とはなにか」を追求した本だ。坪井は傑出した人たちとの出会いを通じて天才的な人たちに共通する法則性を見いだす。彼が出会った人たちとは著名なスポーツ選手や武道家、演奏家や舞踊家、教育家や宗教家、さらには無名だが優れた職人などだ。坪井は天才的な人は皆、身体に対する意識や感覚が突出しているというのだ。そうした身体の中の共通性を彼は「身体の文法」と名付けた。優れた人たちの身体運用や身体意識には現象面は異なっていても内面に共通した構造があると洞察したのだ。

例えば釣りとバイオリン演奏のように現象面は全く異なっていても、それぞれの身体の中の微妙な動きや意識操作、周囲から伝わる感覚に対して開かれた身体。そこに通底する本質的な何かがある。つまりものごとには普遍的本質があるということだ。しかし、その本質を見いだすことは簡単では無い。

 

坪井とは二十代の一時期かなり濃密に交流した。今思い返すと、坪井の著書と本人との出会いは私の人生に相当大きな影響を与えたと言わざるを得ない。

 

経絡と指圧

高校生の頃、テレビの影響で指圧ブームであった。浪越徳治郎というタレント性のある指圧師が巻き起こしたものだ。彼の弟子の一人に増永静人がいた。増永は旧帝大で心理学を修め、卒業後、浪越の日本指圧学校に入って指圧の勉強をした。浪越にその才能を見込まれた増永は卒後そのまま教師として十年ほど教壇に立った後、理想の指圧を目指すため独立して多くの本を著した。私は高校生の時その著書『家庭でできる指圧』を手にして驚嘆した。多くの健康法の本はこの症状にはこのツボを押さえると治る、あるいはこれを食べれば健康になるという一対一対応の教条的な素人向けの本が多い。

増永の本(代表として『経絡と指圧』)はそれらとは一線を画していた。概論として「命とは何か、生きるとはどういうことか」と問い、そこから健康や病気、医療、さらには如何に生きるかを考えようとしていたのだ。そして冒頭から身体が存在するために不可欠の環境と命の関係を強調した。これは彼が心理学を学んだことによるだろう。身体は身体としてのみ存在する訳ではない。身体は環境にある素材を元に形成され、環境から必要なものを取り込み、不要なものを排泄しながら維持されている。この関係性の瓦解が身体の存在を危うくするのだ。これは中国古来の哲学で漢方医療の基礎ともなる「天人合一」に酷似した考えだ。

 

私たちは誰でも健康が大切であると思っている。それは間違いではない。病気になったとき健康のありがたさを思い知る。しかし健康は目的ではない。冒頭に述べたように私たちは多かれ少なかれ否応なく自分が生まれてきた理由や生きていく意味を問い求めている。自分自身の価値を見いだし精一杯人生を送ろうと考える。そのとき人それぞれのレベルでの健康が必要となる。決して健康のために生きているわけではないのだ。生まれつき障碍のある人、何らかの持病がある人、ある日忽然と倒れ後遺症に苦しむ人。人には避けられない宿命のような有り様がある。それぞれの有り様の中で健康は有り難いのだ。健康を失ったとき人は自分の身体に思いを寄せざるを得ない。これは負の身体観だ。それぞれの人がそれぞれの有り様の中で前向きに生きようとする時、正の身体観が発生する。身体を問うと言うことは正負両方を包括して考えるということになる。

 

増永は指圧を現代医学的基礎と心理学的素養、そして漢方的哲学で追求しようとした。そのとき重要視したのが経絡という中国古来の身体観だ。全身を縦に貫く十二本のスジ。解剖学的には見いだすことが不可能だが機能的あるいは感覚的には存在を確信できる経絡を東西医療および精神と肉体との架け橋として生涯研究をした。志半ばで夭折したがその思想は今日も読み継がれている。

 

【経絡図】

 

ある講習のとき増永の言った言葉がとても印象的である。

「患者さんは私たち治療師が腰痛になったり病気を患うと不思議がる。先生でも腰が痛くなるのですか?病気をされるのですか?と。しかし考えて欲しい。痛みも病も知らない、死ぬことも無いロボットのような治療師に患者の苦しみや悲しみが共感できるだろうか。弱く儚い命を共有しているからこそ治療師は患者の苦しみに共感し治療に当たれる。死の恐ろしさに涙する。頑健で鈍感な人の痛みや苦しみ、死の恐怖が理解できないような治療師に治療されて患者は嬉しいだろうか」

同じようなことは著書にも書かれてあるが、このときの師の声や表情は四十年近く経た今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

 

精神としての身体

 市川浩著『精神と身体』は「人間的現実を、心身合一においてはたらく具体的身体の基底から、一貫して理解することをめざす」という身体論の名著だ。中でも一番興味を引いたのは自己中心化と脱中心化だった。著書から引くと

「われわれは生きているかぎり多かれ少なかれ自己に中心化しているわけですが、その自己中心化と、他者の側に身をおいてみる脱中心化、そして脱中心化を経由した再中心化という形で自己意識と他者意識が次第にふかまってゆく」

となる。こうした身体は十九世紀以降復権したもので、それまでは身体は精神に隷属した存在とされていた。

 

 私たちは自分の身体を主体として理解すると同時に客体として対象化している。これは社会生活を送る大人にとって当たり前のことである。こうして人は身体を通して他社との関係性を学び、社会生活を送っているのである。

 

二 創造される身体

オフィスの近くにバレエスタジオがある。そこへ通う少女たちは一目で分かる。頭に独特のおだんごのシニヨンを作っているからだ。しかしそれだけではない。皆スレンダーで背筋が伸びセンターが天地を貫いている。バレエのように重力を超越したダンスを踊るため幼い時から激しい身体訓練を行い、そのための生活を送っているのでバレエ体が形成されるのだ。同じく近くにヒップポップのダンススタジオもある。ここに集う少女たちも独特の雰囲気を醸し出している。バレエは身体のセンターを見事に鍛え上げ垂直の美しい超日常的体躯を形成するが、ヒップホップは身体を日常の動作では有り得ない非日常的に操作する。あたかも日常に逆らう反権力のように。これはブレイクダンスと呼ばれるものである。実際そのダンスの発生は不良の暴力バトルの代替としてのダンスバトルが元になっている。これらは決して無関係では無いだろう。

 

このように身体は幼い少女でさえ目的的に創出される。その極限とも言える創出体が力士だろう。力士は行住坐臥全てを相撲のために費やす。眠ること、食べること、衣装、履物、もちろん稽古もそうだ。彼らは日常の全てを非日常的な相撲社会に置き、非日常の生活を彼らにとっての日常とすることで生活体を相撲体に作り上げる。意識も身体と直接して力士として成長する。これは能や歌舞伎の家に生まれた子が生活全体を芸のために捧げながら一流の役者として成長していくことと同じ構造である。

 

私たちは生物体として生まれ、日常社会に生きる生活体を創出する。これは日常的なことだ。それがバレエや相撲などの芸のための特殊体に創出される。スポーツ選手の身体が競技ごとに異なることはそのいい例だ。レスリングと水泳、短距離走と長距離走などあきらかにそれぞれの競技向きの身体に作り上げられている。バレーボールやバスケットボールのように初めから背が高い方が有利という競技は生得的身体そのものが武器になっている部分も多いが、体重性で生得的利点を平等に制限しているスポーツ、例えばボクシングでは明らかに創出された身体が平等な土俵の上で競う状況が見られる。これもまた立派な文化であり、ボクサーは自らを文化的身体として創出した結果をリングの上で表現しているのだ。

 

拡大縮小する身体

イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが筆名ルイス・キャロルとして著した『不思議の国のアリス』は作者の友人リデル氏の娘たち、とりわけお気に入りのアリスのために彼女を主人公として書いたファンタジーだ。作品の中でアリスは薬やケーキを食べるごとに身体が拡大したり縮小したりする。また、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』は小人国リリパットや巨人国ブロブディンナグに漂着する。アリスは自分が巨大化したり縮小したりするが、ガリヴァーは周囲が小人になったり巨人なったりすることで自分の身体が拡大したり縮小したりと錯覚する。いずれにしても自分の身体が規格外れになるという設定だ。

 

現実に身体がサイズを変えることはあり得ないが、測定値百七十センチの人が感覚的に大きくなったり小さくなったりする体験は誰にもあるだろう。ガリヴァーのように環境が変化する場合もあればアリスのように自分自身の思いが身体を拡大したり縮小したりする状況を生み出すこともある。そのときの身体感覚は非日常のものとして新鮮なものであろう。例えば広々とした高原で深呼吸する時、身体は向かいの山に対峙するほど大きいと感じたり、蟻の行動を観察する時は蟻のように小さくなったりする。皮膚に包まれた身体のサイズは同じだが感覚としての身体は自在に拡大縮小するのだ。

 

また感覚だけではない。以前、若者の間で花魁道中のような上げ底靴が流行ったことがある。社会の目は批判的だったがある板前さんは「調理場で高下駄を履いているが目線が高くなって気持ちが変わるよ、若者の気持ちも分かる」と教えてくれた。同様に駅のホームや電車内にしゃがみ込む迷惑な若者も多くいた。これも実際にやってみると「社会が違って見える」とある学者が体験を書いていた。身体状況が変われば見える世界も変わる。身体と環境は互いに影響し合う相対的関係だからだ。

 

延長と同化

 鍼師は患者に鍼を用いて治療行為を行う。だが鍼を刺す前の段階がある。患者を見て、気持ちで包み、近くに寄り添い、気持ちに即して患者の皮膚に手で触れる。実際に触れる前に気持ちで触れるのだ。そしてその後初めて手で押したり擦ったりしてツボと呼ばれるポイントを見つけ、やっとツボに鍼を刺入する。指で圧すれば指圧となる。鍼師にとって鍼は身体と同化し延長した道具だ。これは鍼師に限ったことではない。板前と包丁、理容師と鋏や髭剃り、事務員とキーボード、運転手とハンドル(自動車)。いずれも身体と道具が同化し、身体の延長としての道具と化している。

 

リアルな身体と観念としての身体

 ここに奇妙な解剖図がある。漢方医学の古典に書かれている図だ。

【漢方解剖図】

そこへオランダからターヘル・アナトミアという解剖書が入ってきた。ドイツで1722年に初版、日本へはオランダ語版(1734年出版)が1770年には入っている。

【ターヘル・アナトミア】

これらの図から何が分かるか。おそらく漢方は現象や機能を観察することを重要視し、実態はあまり気にしなかったということだ。つまり実際の身体では無く現象として顕れる観念としての身体を観ていたのだ。

 

季語と季題

 季語は季節を表す具体的な季物を示す。それに対して季題は歴史的美意識を纏っている季節の題目であるとされる。それはリアルな季物と季物が受け継いできた観念としての季節感の違いとなる。これは先ほどのリアルな身体と観念としての身体と相似すると考える。私たちは本当の物を観ることは実は大変難しく、リアルな物と観念とが重なり合ってしか現象を観ることが出来ないのだ。宮澤賢治の詩「春と修羅」には次の一節がある。

 

   (前略)

草地の黄金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい気圏の海のそこに

  (後略)

 

「ほんたうにおれが見えるのか」とは賢治の生涯に亘って抱えてきた疑問だがその軽重は別にして誰もが抱く問題でもある。観る側にしても観られる側にしても。

 

 私たちは身体を見ていて実は見ていない。これが様々な疑問の根底に通底している。人体そのものを精神から分離して客観的に、即物的に見ようとするデカルトの心身二元論が生まれてくる必然はそこにあったのだ。

 

冒頭のゴーガンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」この設問自体、本当のわれわれを見ようとしているのかは疑問であり、画家が画家の目で主観的に見ることに留まっていると思われる。むしろそれだからポスト印象派なのだ。

心身二元論は科学を科学たらしめるため登場したが、それとて決して人を幸せにするものではない。私たちは生物として客観的に見える身体と直接して創造的文化的身体を有し、その有り様に振り回されながら生きている。これは科学がどんなに正しいと言ってもそれのみを肯え無い人間の性なのだ。

宮澤賢治に『月天子』という詩がある。その一節を紹介してこの稿を終えよう。

 

  (前略)

もしそれ人とは人のからだのことであると

さういふならば誤りであるやうに

さりとて人は

からだと心であるといふならば

これも誤りであるやうに

さりとて人は心であるといふならば

また誤りであるやうに

(後略)

 

あとがき

 「健康は身体を意識しない状態だ」という意見がある。確かに私たちは普段は身体のことを忘れている。肩がこる、腰が痛い、膝が曲がらない、おなかが張る、頭が割れそうなどの症状が出てはじめて身体への意識が生じることが多い。つまり健康ではないときに身体の各部位や全体の重だるさなどを感じるのだ。

病気でなければ自発的にスポーツをするとき、心臓の動悸や激しい息づかい、軋む筋肉の悲鳴などで身体を意識することもあるだろう。スポーツと同様肉体労働に従事する人は常に身体と一緒に仕事をする意識を持っている。

 

現代の生活は様々な道具や機械によって環境を住みやすく安定させたため身体への意識は薄らいでいる。暑さや寒さからの影響も従来とは比較にならない。身体への意識が希薄になるとき、それを郷愁のように深奥から呼び覚ますのがセックスや酒、嗜好としての食や身を揺さぶる音楽だろう。ジョギングなどのスポーツも同様だ。

こちらから身体に働きかけずとも身体の側から意識させるのが病気や障碍なのだ。その時健康はありがたい、普通に生活できる身体は道具として実に有り難いものだと理解する。

 

 では冒頭に述べた「健康は身体を意識しない状態だ」は本当だろうか。この稿で貫いてきた考えはその小さな身体観からの脱出を意味している。身体は自己存在そのものなのだ。「身体は動物として存在すると同時に文化である」と書いた。私たちは生涯を通して自らの身体を文化的に創造する。文化が身体を通して育まれてきたように己の身体自体を文化として所有しているのだ。

 

 私はこの原稿である程度身体に対する思いを整理しようと考えた。九年に亘って書いてきたことを俯瞰してそれなりの道標が出来るのだろうと軽く思っていた。しかし、書けば書くほど迷宮に彷徨い、出口が見つからなくなってしまった。結局、若い時愛読し、実弟清六氏の家まで訪ねた宮澤賢治にすがることになってしまった。

 

 畢竟身体は蜃気楼のように追えば逃げてしまう存在なのだろう。浅学非才が追っても炎天の逃げ水さながら永遠に掴むことは困難なものだ。安直だが、だからこそ人生は豊かに楽しめるものとしてこの稿を閉じることにしよう。

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2011年9月 8日 (木)

宮沢賢治とおきなぐさ

宮沢賢治とおきなぐさ

 

三島広志

 うずのしゅげを知っていますか。

 うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやささいい若い花をあらわさないようにおもいます。

 

 こんな書き出しで始まる宮沢賢治の「おきなぐさ」という童話があります。

八月号の佐藤潤四郎氏の「植物誌」を読んでふと思い出しました。

 賢治はおきなぐさを 

 まっ赤なアネモネの花の従兄、きみかげさう(スズラン・・筆者)やかたくりの花のともだち 

と述べています。アネモネはおきなぐさと同じキンポウゲ科ですので従兄としたのでしょう。

 おきなぐさは暗紫色の花で、年を経ると、まっ白いタンポポの種のようになるので、その姿が白髪の翁に似ているのです。

 うずのしゅげというのは岩手県の方の呼び方で、「おじいさんのひげ」という意味だそうです。

 

 おきなぐさの種は、まっ白になると風に乗ってどこか旅立ちます。賢治の世界をもう一度訪れてみましょう。ひばりと種の対話です。

 

 「どうです。飛んでいくのはいやですか」

 「なんともありません。僕たちの仕事はもう済んだんです」

 「こわかありませんか」

 「いいえ、飛んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりでいっぱいですよ。僕たちはばらばらになろうたって、お日さんちゃんと見てらっしゃるんですよ」

 

 おきなぐさのこの諦観はみごとです。このあとにおきなぐさの種は飛び散り、その魂は天に昇って星になったのです。自然を深く愛した賢治は、ちっぽけな種にも同じ慈愛をもって交流します。

 

 数年前、私が東北を旅し、賢治の世界を訪問した時の印象は、さわやかですきとおった冷たい風とゆうゆうと雲を浮かべた大空とどこまでも続く一本道でした。

 

 賢治の実弟清六氏にお会いした時、賢治はどういう人かと質問したら
「兄は、嬉しい時は笑い、腹が立ったら怒る普通の人でした」
とおっしゃいました。

 

 しかし、私は思います。賢治はおきなぐさのような人ではなかったかと。風が吹けばいつでもゆうゆうと飛んでいける人ではなかったかと。

 

 皆さんも一度ぜひ、宮沢賢治の世界を旅してみませんか。

 熊や星や山男や狼が、あるがままに、素直に、友達として接してくれることでしょう。

 日頃の捩曲がった卑屈な精神や、怒りと憎しみと欲でパンクしそうな心が、きっとすっきりすることでしょう。さわやかにせいせいして生きるとはこういうことかと実感できるでしょう。

 

 賢治のドリームランド=イーハトーヴは本を開けばすぐそこです。

 なお、佐藤氏が、おきなぐさの学名Cernuaの点頭の意味がわからないと書かれていますが、それは「まえかがみの」「うつむきかげんの」意で、pulsatillaは「小さな鐘」の意だからおきなぐさの姿勢が前かがみの小さな鐘に似ているという発想だそうです。

 

※参考「宮沢賢治と植物の世界」(築地書館)

 

(初出:柏樹社「まみず」)

 

 

 

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宮沢賢治は何故舞ったか

宮沢賢治は何故舞ったか

 三島広志


 宮沢賢治の聖人君子像は広く世間に喧伝されているが、その奇人ぶりは余り知られていない。しかし、農学校の生徒達や同僚達の聞き書き等から推察すると世の天才と同様、かなりの奇行の持ち主であったことは確かである。

 もし私が生前の賢治と知り合っていたなら、彼の本質を見抜くことができないまま、その奇行に眉をひそめて絶縁したであろう。多分に脚色された聖人君子的賢治像であったからこそ賢治に魅力を感じたのかもしれない。

 

 ところが、今回私が問題にしたいのは、賢治の奇行である。そしてその内でも自然との交流という形で表された奇行である。農学校の教師時代、教室に窓から出入りしたとか、土足で廊下を歩いた、あるいは女性に好意を持たれたとき、顔に炭を塗って嫌われようとしたなどというのはここでは取り上げない。

 

 農学校の同僚、故白藤慈秀氏の著書「こぼれ話宮沢賢治」に月夜の麦畑での賢治の奇行が書かれている。

 

 ・・・麦の穂はよく実って、そよ吹く風に手招きするかのように柔らかにゆれている。

 皓々たる月は大空にかかっている。

 この風景を見た宮沢さんは、何を思い出したのか、突然両手を高くあげ、脱兎の勢いで麦畑の中に入っていった。手を左右にふり、手を高くまた低く、向こうに行ったと思うと、すぐ引き返してきた。こうしたことを数回くり返してもとの場所に戻って路上の草の上に腰をおろし、大きなため息をしていた。

私は奇異に思い「いま何をしたのですか」と聞きただすと、宮沢さんは平気で、「銀の波を泳いで来ました」といった。・・・

 

 また、同書に次の話も書かれている。

 

 

その晩は樹にも石にも黒い影をおとしているほど月の光は皓々としてかがやいていた。宮沢さんは、レコードの音律と月の光に誘われて全身躍動し、大空にむかって両手をはばたき躍動し、狂踊、乱舞、ただ踊り四肢高く舞うなど、寄宿舎の生徒がこの状を見て全く不思議であったと私に話してくれた。

 後日、宮沢さんに、宿直の晩のできごとについて糺すと、あれはあまりに月がよかったので、その光に誘われ無茶苦茶におどったのです。それは踊りの練習でもなく、ただ詩を作るときはどうしても身体にリズムの感覚が必要なので、身体にその訓練をつけるためであった

 

と語ったとある。

 

 賢治は自然の中にいて風や月や木霊などと共感する精神の持ち主だったので、自然に誘発されて舞い叫び出したのだろう。そして、次には内なる自然が目覚め、身体を激しく動かし、それは賢治の意識ではなく無意識の力で全身の筋肉が躍動したに違いない。そういった無意識的な運動を賢治自らが経験していることは、中学時代、父に宛てた手紙に書き残している。

 

 明治45年11月3日、賢治16歳の時、父政治郎に出した手紙に、佐々木電眼と称する人物から正坐法の指導を受けるとあり(校本宮沢賢治全集第13巻12ページ 筑摩書房)、翌日の葉書には「本日電眼氏の下に正坐仕り候ところ40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」とある
(同書13ページ)。

 

 賢治はその後、冬休みに同人物を自宅に呼び、家族が正坐法を試みている。妹トシは自動的活動が発現したが、父政治郎は笑っているだけでなんら効果はなかったと弟清六氏が記憶しているそうである(校本14巻452ページ)。

 

 ところが、この正坐法による自動的活動は今日でも色々流派が存在し、それぞれ信望者を集めている。故野口晴哉氏はこの運動を活元運動と名付け、無意識的な錐体外路系の運動と説明し、そのグループ「整体協会」には同氏亡き後も多くの病める人や芸術家や知識人が集まって盛んに活動している。 健康法としての人気もさることながら、その運動を行うと芸術的勘や学問的直感力が増すからである。

 

 坪井香譲氏のグループ「メビウス気流法の会」でも、独特の運動瞑想法があり、古来からの集団的解放(祭り)を現代に掘り起こし、整体協会と同様の理由で芸術家や武道家、東洋的治療に携わる人々が集まって来ている。

 

 賢治の行った正坐法はおそらく活元運動と同じで、全身をリラックスさせポカーンと正坐をしていると身体が勝手にユラユラと動いてくるものであろう。動きは人によって全く異なり、同じ人でも身体の状態で全く違った動きが出てくる。

 ひとしきり身体の動きに任せていると全身の歪みが矯正され、身体の感覚が甦り、滑らかな身体の動きと新鮮な感性が得られるのである。だからこそ、芸術家が多く集まっているのだ。しかしその動きを始めて見ると何かに憑かれているようでとても気味が悪い。

 理性の勝ちすぎる人はなかなかこの自然な動きが出てこない。導き方にもよるが、賢治が40分で自動運動を得たと言うのはかなり早いほうである。

 

 賢治のこの佐々木電眼の指導による正坐法の体験が、先に引用した月夜の乱舞、狂舞にどこかで係わっているような気がしてならない。しか

も賢治は白藤氏に対して、あの踊りは詩作のリズム感覚を身体につける訓練だと言っている。これは今日の芸術家達が同種の運動を行うことと軌を一にしているではないか。

 

 

 そもそも人は何故舞うのだろうか。

 形式化した舞踏ではなく、賢治の乱舞のように人が内面から揺すられ弾まされる舞いには、単に楽しむだけではなく自然への接近もしくは同化の願望が込められているという。

 多くの原始的な宗教には舞いが不可欠であるし、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れたとき、神々は光を求めて天鈿女命(アメノウズメノミコト)に舞いを舞わせた有名な神話もある。

 

 人は舞うとき、日常を離れて非日常の世界に漂う。日常の中で形式化、形骸化した心身を何かの機会に日常の枠を破って内なるエネルギーを爆発させるのだ。

 群衆の乱舞はそれ自体が大きなエネルギー体となって集団を包み、自然と深く呼応する。ついには宇宙との一体感に浸り出す、すなわち神の世界と同化するのである。

 そういったハレの日(春、秋の祭りなど、あるいは秘められた行事)を我々はついこの前までもっていた。有名な江戸時代の「えじゃないか」や、熱狂的な一揆になだれ込んだりもした。為政者はそのエネルギーを恐れ、ガス抜きの場を設けた。岐阜の郡上踊りや四国の阿波踊りはその名残である。

 

 今日でも多くの宗教ではこれに近いハレの場を秘密裏にあるいは公然と持ち、信者に至福感と同時に束縛感を植え付けている。それを企業化した「人格改造」会社も近年乱立している。

 

 

 賢治のような型破りな個性が社会という鋳型の中で生存することは非常に困難であったろう。社会から見て賢治や山頭火のような自らが自らの個性を持て余すような天才は受け入れ難い。彼らが自ら崩壊に至らないためには芸術に拠るしか方法はないであろう。

 

 しかも賢治は己の生き方を宗教的善意と天性の他人に対する優しさで厳しく律した。恵まれた出生をさえも社会的犯罪者として罪の意識で自責することもあった。さらに山頭火のように酒や女で紛らわすことは決してなかったのである(山頭火はその愛すべき堕落性が逆に彼の魅力となっている)。

 

 そんな賢治の内向するエネルギーが突如として外に向かったとき「ホーホー」という奇声や奇妙な舞踊が生まれたのではないだろうか。そのきっかけを与えたのが月の光であり、実った麦の銀の波であったのだ。

 

 手足を自由に、身体の命ずるままに動かして奇声をあげるとき、その動きは岩手に伝わる鬼剣舞(おにけんばい)の手つきに似てくる。わたし自身が自動的活動を試みた経験ではそうなる。その動きはゆっくりなら盆踊りの手つき、腰を落とせばどじょう掬いにも似ている。バリ島の踊りやトルコの円舞にも共通するところがある。

 そしてその動きは一見何かに憑かれて支配されているトランス状態のようで、実は反対に理性や感性はより一層研ぎ澄まされているのである。

 

 

これらの自然との原初的交流に対して精神分析の立場から福島章氏は、

 

  女性を愛することよりも「自然」を愛し、風や雨雲と「結婚」することを考え、台地を「恋し」、青い山河を自分と<同一視>したのは、おそらく躁状態にあって自然の生命性に対する感受性が高揚していた時代の賢治であったろう。そのような状態において、彼は自然と合体、融合してなお自分を保つことができたにちがいない。

(「愛の幻想」中公新書)

 

と述べている。

 

 賢治はまさに自然と合体、融合していながらなお感性、理性はより明確に保たれていたに違いない。

 

 賢治が舞うとき、自然も舞い、自然が舞うとき、賢治が舞う。そのエネルギーは賢治の作品に触れた我々一人一人の内に通じ、我々も舞っているのだ。賢治の作品を読むときすでに我々は熊や鹿や山男たちと柏林の中で月光を浴びながら舞っている。

 この大きな自然や人との交流を、賢治は「すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから」と表現したのだろう。

 

 賢治の内から発せられた「ホーホー」という奇声に伝達の意志が加わったとき、詩や童話、短歌や絵に姿を変えたのである。自然に触発され賢治の内なる自然からほとばしりでた舞いこそ賢治文学の原点であるとひとまず考えられる。さらに考察を続けたい。

 

 

 一般に踊りのことを「舞踊」というが、「舞」と「踊」の2字は、本来意味が違うそうである。現在では明解な区別はしていないが、「舞」はスリ足で舞台を回ることで、「踊」はリズムに乗った手足の躍動であると広辞苑に書いてある。

 さらに藤堂漢和大辞典によれば、

 「舞の字の上半分」→人が両手に鳥の羽飾りを持って舞う様

 「舞の字の下半分」→人が左足と右足を開いた様

 「舞」→人が両手に飾りを持って左足と右足を開いて舞う様

とある。

 

 そこから、手足を動かして神の恵みを求める(舞踏)、心を弾ませる(鼓舞)、むやみにデタラメなことをする(舞文・舞幣)などの意味が派生したそうである。

 

 賢治の月夜の狂気とも思える奇行は、自然=神への接近、同化及びどうしようもない内面からの躍動がでたらめな動きや奇声となって現れたもので、まさに原初的、自然発生的ないわばシャーマンの舞の原型ではなかったろうか。

 

 秋の風から聞いた「鹿踊りのはじまり」という童話には、鹿の素朴な行為が人間の側から鹿の世界に同化する形で書かれている。彼の最も有名な作品「風の又三郎」は全編これ風の世界という不可思議な透明感で貫かれている。その他多くの作品でも賢治の常套手段として一陣の「風」が舞台を急展開させたり、道案内したりする。

 

 「風」に代表される天の気象が人間の心身に大きく係わっているのは、生命体の存在そのものが環境と分離・交流という矛盾の中にのみ確立できることを示唆している。

 

 学問的には生態学が生命体と環境の関係を明らかにしつつあり、人は環境と支え合い、影響し合うことで人間存続の道を歩むしかないことが広く知られるようになった。そこから環境破壊に対する反省、未来に対する不安、それ自体が商品価値を生むなどと複雑に入り交じって今日のエコロジーブームを生み、支えている。 

また、経験的にも湿気と神経痛、低気圧と喘息のように気象と病気の関係は昔から「年寄りの痛みは天気予報より正確」だなどとため息交じりの冗談として言い伝えられている。

 

 しかしそうした具体例を出すまでもなく、「もののけ」とか「気」ということばで示すようなメンタルな自然との交流に日本人は特に敏感なようである。

 俳句の季題、季語はその集大成であり、次に上げるような人口に膾炙した短歌も日本人なら誰もが心を動かされるものである。

 

  秋きぬとめにはさやかに見えねども風の音にぞおどれかれぬる  敏行

  わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも 家持 

 これら古歌にも自然と人間との交流がみずみずしい感性で歌われている。無気質な都市空間に囲まれて閉塞感に窮している現代人が失いつつある新鮮な感覚であろう。

 

 賢治文学は短歌に始まったが、賢治に内在するイマジネーションは31文字にはとうてい収まり切らなくなって詩や童話に移行した。それは賢治が「めにはさやかに」とか「かそけき」のようなさらっとした日本的情緒を逸脱していたからであり、人間の存在の根源を示すような土着的怨念性と宇宙的透明感という一つの肉体に収めきるには不可能な巨大なエネルギーを持て余していたからだろう。

 賢治はその持て余したエネルギーを舞として昇華することで辛うじて自らを保つことができたに違いない。

 

 では、賢治は自然に触発され詩や童話を書き、それだけでは発散しきれない身を焦がすようなエネルギーを舞や叫びに表現したのだろうか。

 それとも、月や雲や風から透明なエネルギーを得た賢治は、舞い叫ぶことでエネルギーを昇華し、その残滓を作品にすることでかろうじて狂気から脱出、日常性を回復していたのだろうか。

 

 いや、そうではない。舞いこそ全てなのだ。

 鬼剣舞のあの地中から天に向かってドロドロしたものが噴出したような激しいほとばしり、人間の怒りの根源から、自分を押さえるものを打ち破るような動きは「つばきしはぎしりゆききする」一人の修羅を引き付けて止まなかったろう。

 

 また、世界を循環する季節風から透明な安らぎの力が農作業の汗に濡れた賢治の心身を満たし、喜びは溢れ、人々に対してほほ笑まずにはおれなかったろう。

 

 そして、一人の修羅は月夜の麦畑の銀の波の中を舞い出したのだ。もはや他人の眼などどうでもよかった。賢治の全存在を賭けての最高の交響詩、メンタルスケッチ・モディファイドがそこで演じられたに違いない。

 

 残された膨大な量の原稿は、その断面に過ぎないのだ。

 

(初出 盛岡タイムス を少し修正)

 

 

 

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賢者から見者へ    ──栗谷川虹「宮沢賢治 見者(ヴォワイアン)の文学」(洋々社)を読んで──

賢者から見者へ

   ──栗谷川虹「宮沢賢治 見者(ヴォワイアン)の文学」(洋々社)を読んで──

 

三島広志

 一つの時代を代表する賢治論がある。それらは賢治論という体裁をとりながら、実はその時代を反映している。

 国家への忠誠が最善とされた戦前には、賢治を賢者とした谷川徹三説を歪めて戦争に利用した過去がある。

 敗戦後、全ての価値観が根底から覆された時、賢治は現実認識の甘さ、国家に利用され易さを批判された。

 国民全体が余裕を得た頃、天沢退二郎は作品に付着する一切の背景を排除し、純粋に作品を読む行為に没頭、賢治の彼方を求めた。

 

 時代によって作品の評価、読み方が変わるなら、栗谷川虹の「宮沢賢治 見者の文学」は、賢治の思想が再評価さあれつつある今日を驚愕させ、かつ将来に問題を残す代表的な書となるだろう。

 

 栗谷川は、今まで誰もが感じながら避けてきた賢治のオカルティックな面を白日にさらした。

 天沢は聖なる賢治像に対し、デモーニッシュな面を強調し、賢治作品にいつも異空間を垣間見ただけで踏み込むことなく引き返して来る傾向があることを発見している。

 ところが栗谷川はいとも簡単に賢治を異空間へ行かせている。否、同居させている。賢治の作品は霊的直感(霊視・霊聴)によって受容したものを単純にスケッチしたに過ぎないと言うのだ。

 

 栗谷川は賢治の心象スケッチの難解性は、表現や用語にあるのではなく、作品に展開されている賢治の体験そのものの難解性にあると指摘する。難解なのは我々の全く感知できない世界を余りにあっさり見せつけられるからだ。 

 

 賢治は、自分には幾つかの意識が存在し、それら「透明な幽霊の複合体(『春と修羅』序)」としての自分を認識していた。現実に重なって種々の異なった次元の世界が同時に、明晰に感知出来たようだ。

 賢治は見える苦労を乗り越え、作品を通してそれらの世界を皆に知らせようと決意した。栗谷川は書簡や作品を分析してそこまで至る過程を再現している。

それによって「春と修羅」の序詩の<記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのけしきで>という賢治の発言を、今日まで多くの評者は看過したか、敢て避けたか、信用していなかったことが暴露される。

 

 賢治は自分だけに認識される非現実の世界(地獄、極楽なども)を強烈な理性で己を失うことなく見続け、ついに、それらを人々に伝えることによって皆と一緒に無上道へ行こうと決意した。自らを求道者と位置付けて、見え過ぎる苦悩を超克したのだ。だからこそ、狂気にも自殺にも至らずに済んだのだろう。

 

 

 また、栗谷川は賢治とランボオを対比してみせる。冒頭に

 

「俺は架空のオペラとなった──ランボオ」

「わたしは気圏オペラの役者です──宮沢賢治」

 

を並列して読者を驚かす。そして、「人間の意識の深奥は、(中略)神秘的な、混沌たる暗雲の中に消え去るのではなく、その暗雲を突き抜けた虚空で、もう一つの明晰な世界を持っているのではなかろうか。ランボオと賢治は、そこまで昇りつめて、そこで架空の、気圏のオペラを演じた(後略)」と両者の共通性を認める。

 

 さらに、賢治は文学史を素通りしただけだが(惜しくも中原中也と擦れ違う)、ランボオは奇跡的にマラルメと出会う幸運を得たとする。

 ならば、宮沢賢治は没後五十年にしてようやく、栗谷川虹という気圏オペラの観客と出会うことができたと言っても過言ではあるまい。 

 

 

(初出 俳句結社誌「槙」:主宰平井照敏)

 

 

 

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2009年4月22日 (水)

佐藤勝治さんのこと

宮澤賢治関連のメールマガジンからあるブログへ飛んで行ったら、佐藤勝治さんのことが書かれていました。

壺中の天地

佐藤さんのことは以前HPに追悼文を書きました。

游氣風信 34号

そのことをコメントに残したところ、ご丁寧にお返事をいただきました。

思えば人生、色々と不思議な出会いをしているものです。
やはり人は人間としてさまざまな関わりの中でしか生きていけないのですね。

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2009年4月 9日 (木)

宮澤賢治 作品発見

宮澤家の蔵から地図の裏にメモされた賢治の作品が発見されたそうです。

岩手の猊鼻渓の辺りの作品と考えられます。

作品としての完結はしていません。

以後、いずれかの作品に取り込まれた形跡もないようです。

出先でふと思いついたことを手近の地図にメモし、そのまま忘れてしまったのではないかというのが研究者の見解です。

停車場の向ふに河原があって

  水がちよろちよろ流れてゐると

 わたしもおもひきみも云ふ

  ところがどうだあの水なのだ

 上流でげい美の巨きな岩を

  碑のやうにめぐったり

 滝にかかって佐藤猊岩先生を

  幾たびあったがせたりする水が

 停車場の前にがたびしの自働車が三台も居て

  運転手たちは日に照らされて

 ものぐささうにしてゐるのだが

  ところがどうだあの自働車が

 ここから横沢へかけて

  傾配つきの九十度近いカーブも切り

 径一尺の赤い巨礫の道路も飛ぶ

  そのすさまじい自働車なのだ

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