東洋医療入門

2015年12月30日 (水)

身体から見える景色 何故身体を問うのか

身体から見える景色

何故身体を問うのか

 

愛知 三島広志

 

一 出会った書物を通して

ポスト印象派の画家ゴーガンの大作に「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という名画がある。このタイトルは極めて普遍的な疑問を呈しており誰もが若いとき、一度は思い詰めるものであろう。否、この自分探しを生涯追い求めながら迷いの人生を送る人も多いことだろう。

 

自分もまたそんな青年であった。ある時、偶然出会った書物からヒトは動物的ヒトとして生を受け、教育によって社会的・歴史的生物即ち人間になると学んだ。ヒトは教育によって人間になるのだ。人は霊長類の一種ヒトとして生まれ、成長過程で社会性と歴史性を学び人間になる。人間とは時間と空間、世間などを内包してそれらの関係性の中で生きていることを自覚した生物だ。こうして自然的ヒトが個としての人、そして環境に生きる人間となる。そこに動物や植物にはない人間独自の文化が創造される。同時に人は自分を教育する能力も持っていると考えた。そう、人は生まれてから死ぬまでヒトから人間になろうともがく過程的生物なのだ。刻々と変化しながら好きな方向を目指せば良い。それに気づいて以来生きることがとても楽になったのだった。

 

さらに畢竟身体という器が生の始まりから死の間際まで自分の存在の基本としてあり、精神はその器に乗ることで存在し、死とともに全ては消滅すると思い至った。むろんこれに反論する人も多いだろう。これらはあくまでも個人的見解だ。

 

 私自身、十代後半から二十代前半にかけて人並みに自分の存在の根底を求めて足掻いた時期があった。そして自分の人生は身体のある間のみ存在し、身体が極めて重要であると考え、何名かの同志を集め私塾のようなことを始めた。その時の趣意が以下である。今読めば若書きで気負いが溢れており些か気恥ずかしいが紹介しよう。

 

我々は生きていく限り<身体>の問題を通過する訳にはいかない。そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。

 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。

 否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。それに応えるべく、<身体>は完全なる世界を体現しているのだ。

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。

 

 何故か私は十代から柔道や少林寺拳法、合気道などの武術、さらに東洋医療の指圧や鍼に興味を抱き、学業とは別に施術の指導を受けに専門家の元へ通っていた。それは単に武術や健康法という意味だけではなく身体というものの摩訶不思議な魅力への関心だった。挙げ句、社会性や協調性の乏しい自分には会社勤めは無理と判断し、独立できる東洋医療の道へ進んだ。しかし、それは生業として口に糊するためだけとして選らんだのではなく、興味の対象の延長としての意味も大きかった。これは還暦を超えた今日でもさほど変わらず、結局生涯を書生として過程的に過渡期の存在として過ごしてきたことになる。

 

 およそ九年前、藍生俳句会の編集部から「俳句と健康について連載して欲しい」と手紙が届いた。それに対し「藍生俳句会には歴としたお医者さんが何人もおられるのでそれは私の任ではない、しかし、身体論ならある程度書けるかもしれない」と返答したところ、編集部から「それでいい」と言われ五里霧中の海に羅針盤も無いまま書き始めたのが「俳句とからだ」である。それがなんと百回を超えるまでの連載になった。これから書くことはおそらくそれらの総論となるだろう。そして当然それは編集部の目論見でもある。初めは若い頃出会った幾つかの書物を通して身体およびそれに纏わる事柄を書き綴ろう。

 

武道の理論

 十八歳の時、弁証法で武道を解くという大言壮語にも思える本に出会った。これが南鄕継正著『武道の理論』である。この書で興味深かったことは「技には創出と使用がある」という技の弁証法的解釈だった。現象の中に弁証法性(矛盾、運動性)を見いだすことの重要性は学生時代に学んだマルクス経済学の基礎、「商品には価値と使用価値がある」に通底する。南鄕の技の解析もまさにそれと同構造だろうと関心を抱いた。

 マルクスの説は「商品」、たとえば萬年筆としよう、これには字を書くという使用価値と同時に五万円という交換価値があるということだ。つまり商品に本来の使用価値のみならず金銭的交換価値があるという二面を見いだすこと、これが弁証法なのだ。

 南鄕の「技の創出と使用」も同じだ。たとえば柔道の技に有名な背負い投げがある。これはヒトが生得的に持っている訳では無い。歴史の中で多くの人たちが命懸けで発明し今日に遺した伝統文化だ。この文化を有するのが人類の特徴となる。柔道を学ぶ者は背負い投げという歴史的文化を何百何千何万回と打ち込む鍛錬をすることで身体的技として作り出す。これが技の創出だ。次いでこれを乱取りや試合の中で使用する。相手は防御しつつさらに攻めてくる。その攻めをかいくぐりながら背負い投げを仕掛ける。これが技の使用だ。

 さらに南鄕は剣について述べる。剣は素人が手にしても十分に武器たり得る。刃先が相手にそっと触れるだけでも致命的だ。柔道の背負い投げはそれを技化するために膨大な努力を必要とする。しかし剣(剣の創出者は刀鍛冶)は手にしたとき構造的には背負い投げをマスターしたことと同じ域にいることになる。柔道で背負い投げを身につけ相手を投げることは、剣術で刀をひょいと振って相手に切りつけることと構造的には同じなのだ。したがって剣術は技の創出の部分を端折り、いきなり使用から稽古を始めればいいのだ。 

この解析に私は大変興奮した。さらに以前から別の書で知っていたことだが中国では昔から「技術」という言葉が作られている。その解釈に諸説あるが、私は「技は創出、術は使用」と理解している。「技」の中にある弁証法性はすでに「技・術」として分かっていたことなのだが、それを南鄕は見事に理論化した。これは二十歳前の私をいたく刺激したのだった。

 

武道では分かり難い面もあろうから、俳句に置換してみよう。俳句の五七五という形式は初めから与えられている技としての器、つまり刀と同じだ。牽強付会に思えるだろうが、俳人は何も考えずともことばを五七五という形式に載せればその出来栄えは別にして、とりあえず俳句になる。これが自由詩なら詩人は初心者が背負い投げを身につけると同様に、ことばに適合した表現形式を苦闘しながら創出しなければならい。俳句が入門しやすい文芸である所以の一つがこれであろう。むろん困難なのはそこから先であることは言を待たない。短歌や俳句の形式は歴史的に創出された技という踏み台だ。詠み手は初めからその上に立って歌や句を創出できるという恵まれた立場にあるということだ。これは俳句が海外にも広がっていった理由でもある。

 

極意

 そのあと手にしたのは坪井繁幸(現、香譲)の『極意』とう本だった。これは各界の優れた人を取材して「意を極めるとは如何なることか、極められた意とはなにか」を追求した本だ。坪井は傑出した人たちとの出会いを通じて天才的な人たちに共通する法則性を見いだす。彼が出会った人たちとは著名なスポーツ選手や武道家、演奏家や舞踊家、教育家や宗教家、さらには無名だが優れた職人などだ。坪井は天才的な人は皆、身体に対する意識や感覚が突出しているというのだ。そうした身体の中の共通性を彼は「身体の文法」と名付けた。優れた人たちの身体運用や身体意識には現象面は異なっていても内面に共通した構造があると洞察したのだ。

例えば釣りとバイオリン演奏のように現象面は全く異なっていても、それぞれの身体の中の微妙な動きや意識操作、周囲から伝わる感覚に対して開かれた身体。そこに通底する本質的な何かがある。つまりものごとには普遍的本質があるということだ。しかし、その本質を見いだすことは簡単では無い。

 

坪井とは二十代の一時期かなり濃密に交流した。今思い返すと、坪井の著書と本人との出会いは私の人生に相当大きな影響を与えたと言わざるを得ない。

 

経絡と指圧

高校生の頃、テレビの影響で指圧ブームであった。浪越徳治郎というタレント性のある指圧師が巻き起こしたものだ。彼の弟子の一人に増永静人がいた。増永は旧帝大で心理学を修め、卒業後、浪越の日本指圧学校に入って指圧の勉強をした。浪越にその才能を見込まれた増永は卒後そのまま教師として十年ほど教壇に立った後、理想の指圧を目指すため独立して多くの本を著した。私は高校生の時その著書『家庭でできる指圧』を手にして驚嘆した。多くの健康法の本はこの症状にはこのツボを押さえると治る、あるいはこれを食べれば健康になるという一対一対応の教条的な素人向けの本が多い。

増永の本(代表として『経絡と指圧』)はそれらとは一線を画していた。概論として「命とは何か、生きるとはどういうことか」と問い、そこから健康や病気、医療、さらには如何に生きるかを考えようとしていたのだ。そして冒頭から身体が存在するために不可欠の環境と命の関係を強調した。これは彼が心理学を学んだことによるだろう。身体は身体としてのみ存在する訳ではない。身体は環境にある素材を元に形成され、環境から必要なものを取り込み、不要なものを排泄しながら維持されている。この関係性の瓦解が身体の存在を危うくするのだ。これは中国古来の哲学で漢方医療の基礎ともなる「天人合一」に酷似した考えだ。

 

私たちは誰でも健康が大切であると思っている。それは間違いではない。病気になったとき健康のありがたさを思い知る。しかし健康は目的ではない。冒頭に述べたように私たちは多かれ少なかれ否応なく自分が生まれてきた理由や生きていく意味を問い求めている。自分自身の価値を見いだし精一杯人生を送ろうと考える。そのとき人それぞれのレベルでの健康が必要となる。決して健康のために生きているわけではないのだ。生まれつき障碍のある人、何らかの持病がある人、ある日忽然と倒れ後遺症に苦しむ人。人には避けられない宿命のような有り様がある。それぞれの有り様の中で健康は有り難いのだ。健康を失ったとき人は自分の身体に思いを寄せざるを得ない。これは負の身体観だ。それぞれの人がそれぞれの有り様の中で前向きに生きようとする時、正の身体観が発生する。身体を問うと言うことは正負両方を包括して考えるということになる。

 

増永は指圧を現代医学的基礎と心理学的素養、そして漢方的哲学で追求しようとした。そのとき重要視したのが経絡という中国古来の身体観だ。全身を縦に貫く十二本のスジ。解剖学的には見いだすことが不可能だが機能的あるいは感覚的には存在を確信できる経絡を東西医療および精神と肉体との架け橋として生涯研究をした。志半ばで夭折したがその思想は今日も読み継がれている。

 

【経絡図】

 

ある講習のとき増永の言った言葉がとても印象的である。

「患者さんは私たち治療師が腰痛になったり病気を患うと不思議がる。先生でも腰が痛くなるのですか?病気をされるのですか?と。しかし考えて欲しい。痛みも病も知らない、死ぬことも無いロボットのような治療師に患者の苦しみや悲しみが共感できるだろうか。弱く儚い命を共有しているからこそ治療師は患者の苦しみに共感し治療に当たれる。死の恐ろしさに涙する。頑健で鈍感な人の痛みや苦しみ、死の恐怖が理解できないような治療師に治療されて患者は嬉しいだろうか」

同じようなことは著書にも書かれてあるが、このときの師の声や表情は四十年近く経た今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。

 

精神としての身体

 市川浩著『精神と身体』は「人間的現実を、心身合一においてはたらく具体的身体の基底から、一貫して理解することをめざす」という身体論の名著だ。中でも一番興味を引いたのは自己中心化と脱中心化だった。著書から引くと

「われわれは生きているかぎり多かれ少なかれ自己に中心化しているわけですが、その自己中心化と、他者の側に身をおいてみる脱中心化、そして脱中心化を経由した再中心化という形で自己意識と他者意識が次第にふかまってゆく」

となる。こうした身体は十九世紀以降復権したもので、それまでは身体は精神に隷属した存在とされていた。

 

 私たちは自分の身体を主体として理解すると同時に客体として対象化している。これは社会生活を送る大人にとって当たり前のことである。こうして人は身体を通して他社との関係性を学び、社会生活を送っているのである。

 

二 創造される身体

オフィスの近くにバレエスタジオがある。そこへ通う少女たちは一目で分かる。頭に独特のおだんごのシニヨンを作っているからだ。しかしそれだけではない。皆スレンダーで背筋が伸びセンターが天地を貫いている。バレエのように重力を超越したダンスを踊るため幼い時から激しい身体訓練を行い、そのための生活を送っているのでバレエ体が形成されるのだ。同じく近くにヒップポップのダンススタジオもある。ここに集う少女たちも独特の雰囲気を醸し出している。バレエは身体のセンターを見事に鍛え上げ垂直の美しい超日常的体躯を形成するが、ヒップホップは身体を日常の動作では有り得ない非日常的に操作する。あたかも日常に逆らう反権力のように。これはブレイクダンスと呼ばれるものである。実際そのダンスの発生は不良の暴力バトルの代替としてのダンスバトルが元になっている。これらは決して無関係では無いだろう。

 

このように身体は幼い少女でさえ目的的に創出される。その極限とも言える創出体が力士だろう。力士は行住坐臥全てを相撲のために費やす。眠ること、食べること、衣装、履物、もちろん稽古もそうだ。彼らは日常の全てを非日常的な相撲社会に置き、非日常の生活を彼らにとっての日常とすることで生活体を相撲体に作り上げる。意識も身体と直接して力士として成長する。これは能や歌舞伎の家に生まれた子が生活全体を芸のために捧げながら一流の役者として成長していくことと同じ構造である。

 

私たちは生物体として生まれ、日常社会に生きる生活体を創出する。これは日常的なことだ。それがバレエや相撲などの芸のための特殊体に創出される。スポーツ選手の身体が競技ごとに異なることはそのいい例だ。レスリングと水泳、短距離走と長距離走などあきらかにそれぞれの競技向きの身体に作り上げられている。バレーボールやバスケットボールのように初めから背が高い方が有利という競技は生得的身体そのものが武器になっている部分も多いが、体重性で生得的利点を平等に制限しているスポーツ、例えばボクシングでは明らかに創出された身体が平等な土俵の上で競う状況が見られる。これもまた立派な文化であり、ボクサーは自らを文化的身体として創出した結果をリングの上で表現しているのだ。

 

拡大縮小する身体

イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが筆名ルイス・キャロルとして著した『不思議の国のアリス』は作者の友人リデル氏の娘たち、とりわけお気に入りのアリスのために彼女を主人公として書いたファンタジーだ。作品の中でアリスは薬やケーキを食べるごとに身体が拡大したり縮小したりする。また、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』は小人国リリパットや巨人国ブロブディンナグに漂着する。アリスは自分が巨大化したり縮小したりするが、ガリヴァーは周囲が小人になったり巨人なったりすることで自分の身体が拡大したり縮小したりと錯覚する。いずれにしても自分の身体が規格外れになるという設定だ。

 

現実に身体がサイズを変えることはあり得ないが、測定値百七十センチの人が感覚的に大きくなったり小さくなったりする体験は誰にもあるだろう。ガリヴァーのように環境が変化する場合もあればアリスのように自分自身の思いが身体を拡大したり縮小したりする状況を生み出すこともある。そのときの身体感覚は非日常のものとして新鮮なものであろう。例えば広々とした高原で深呼吸する時、身体は向かいの山に対峙するほど大きいと感じたり、蟻の行動を観察する時は蟻のように小さくなったりする。皮膚に包まれた身体のサイズは同じだが感覚としての身体は自在に拡大縮小するのだ。

 

また感覚だけではない。以前、若者の間で花魁道中のような上げ底靴が流行ったことがある。社会の目は批判的だったがある板前さんは「調理場で高下駄を履いているが目線が高くなって気持ちが変わるよ、若者の気持ちも分かる」と教えてくれた。同様に駅のホームや電車内にしゃがみ込む迷惑な若者も多くいた。これも実際にやってみると「社会が違って見える」とある学者が体験を書いていた。身体状況が変われば見える世界も変わる。身体と環境は互いに影響し合う相対的関係だからだ。

 

延長と同化

 鍼師は患者に鍼を用いて治療行為を行う。だが鍼を刺す前の段階がある。患者を見て、気持ちで包み、近くに寄り添い、気持ちに即して患者の皮膚に手で触れる。実際に触れる前に気持ちで触れるのだ。そしてその後初めて手で押したり擦ったりしてツボと呼ばれるポイントを見つけ、やっとツボに鍼を刺入する。指で圧すれば指圧となる。鍼師にとって鍼は身体と同化し延長した道具だ。これは鍼師に限ったことではない。板前と包丁、理容師と鋏や髭剃り、事務員とキーボード、運転手とハンドル(自動車)。いずれも身体と道具が同化し、身体の延長としての道具と化している。

 

リアルな身体と観念としての身体

 ここに奇妙な解剖図がある。漢方医学の古典に書かれている図だ。

【漢方解剖図】

そこへオランダからターヘル・アナトミアという解剖書が入ってきた。ドイツで1722年に初版、日本へはオランダ語版(1734年出版)が1770年には入っている。

【ターヘル・アナトミア】

これらの図から何が分かるか。おそらく漢方は現象や機能を観察することを重要視し、実態はあまり気にしなかったということだ。つまり実際の身体では無く現象として顕れる観念としての身体を観ていたのだ。

 

季語と季題

 季語は季節を表す具体的な季物を示す。それに対して季題は歴史的美意識を纏っている季節の題目であるとされる。それはリアルな季物と季物が受け継いできた観念としての季節感の違いとなる。これは先ほどのリアルな身体と観念としての身体と相似すると考える。私たちは本当の物を観ることは実は大変難しく、リアルな物と観念とが重なり合ってしか現象を観ることが出来ないのだ。宮澤賢治の詩「春と修羅」には次の一節がある。

 

   (前略)

草地の黄金をすぎてくるもの

ことなくひとのかたちのもの

けらをまとひおれを見るその農夫

ほんたうにおれが見えるのか

まばゆい気圏の海のそこに

  (後略)

 

「ほんたうにおれが見えるのか」とは賢治の生涯に亘って抱えてきた疑問だがその軽重は別にして誰もが抱く問題でもある。観る側にしても観られる側にしても。

 

 私たちは身体を見ていて実は見ていない。これが様々な疑問の根底に通底している。人体そのものを精神から分離して客観的に、即物的に見ようとするデカルトの心身二元論が生まれてくる必然はそこにあったのだ。

 

冒頭のゴーガンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」この設問自体、本当のわれわれを見ようとしているのかは疑問であり、画家が画家の目で主観的に見ることに留まっていると思われる。むしろそれだからポスト印象派なのだ。

心身二元論は科学を科学たらしめるため登場したが、それとて決して人を幸せにするものではない。私たちは生物として客観的に見える身体と直接して創造的文化的身体を有し、その有り様に振り回されながら生きている。これは科学がどんなに正しいと言ってもそれのみを肯え無い人間の性なのだ。

宮澤賢治に『月天子』という詩がある。その一節を紹介してこの稿を終えよう。

 

  (前略)

もしそれ人とは人のからだのことであると

さういふならば誤りであるやうに

さりとて人は

からだと心であるといふならば

これも誤りであるやうに

さりとて人は心であるといふならば

また誤りであるやうに

(後略)

 

あとがき

 「健康は身体を意識しない状態だ」という意見がある。確かに私たちは普段は身体のことを忘れている。肩がこる、腰が痛い、膝が曲がらない、おなかが張る、頭が割れそうなどの症状が出てはじめて身体への意識が生じることが多い。つまり健康ではないときに身体の各部位や全体の重だるさなどを感じるのだ。

病気でなければ自発的にスポーツをするとき、心臓の動悸や激しい息づかい、軋む筋肉の悲鳴などで身体を意識することもあるだろう。スポーツと同様肉体労働に従事する人は常に身体と一緒に仕事をする意識を持っている。

 

現代の生活は様々な道具や機械によって環境を住みやすく安定させたため身体への意識は薄らいでいる。暑さや寒さからの影響も従来とは比較にならない。身体への意識が希薄になるとき、それを郷愁のように深奥から呼び覚ますのがセックスや酒、嗜好としての食や身を揺さぶる音楽だろう。ジョギングなどのスポーツも同様だ。

こちらから身体に働きかけずとも身体の側から意識させるのが病気や障碍なのだ。その時健康はありがたい、普通に生活できる身体は道具として実に有り難いものだと理解する。

 

 では冒頭に述べた「健康は身体を意識しない状態だ」は本当だろうか。この稿で貫いてきた考えはその小さな身体観からの脱出を意味している。身体は自己存在そのものなのだ。「身体は動物として存在すると同時に文化である」と書いた。私たちは生涯を通して自らの身体を文化的に創造する。文化が身体を通して育まれてきたように己の身体自体を文化として所有しているのだ。

 

 私はこの原稿である程度身体に対する思いを整理しようと考えた。九年に亘って書いてきたことを俯瞰してそれなりの道標が出来るのだろうと軽く思っていた。しかし、書けば書くほど迷宮に彷徨い、出口が見つからなくなってしまった。結局、若い時愛読し、実弟清六氏の家まで訪ねた宮澤賢治にすがることになってしまった。

 

 畢竟身体は蜃気楼のように追えば逃げてしまう存在なのだろう。浅学非才が追っても炎天の逃げ水さながら永遠に掴むことは困難なものだ。安直だが、だからこそ人生は豊かに楽しめるものとしてこの稿を閉じることにしよう。

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2011年9月 8日 (木)

游氣塾 身体調整セミナー試案

游氣塾 身体調整セミナー試案

 

游氣塾 主宰 三島広志


《 アウトライン》

A,環境と身体と皮膚 

B,生命と經絡 

C,經絡と情報の収集・整理・表現

D,經絡と発生学

E,皮膚と手当て

F,深奥と表層

G,氣

H,氣と言葉、氣とイマジネーション、氣の手当て(エクササイズ)

I,身体の使い方と意識化

  

《内容》 

A,環境と身体と皮膚

 環境はいのちを育むあらゆる条件を備えた場である。

 身体は皮膚によって区切られているが、区切った皮膚の中は環境にほかならない。

     皮膚の外 外部環境 陸      空      海

     皮膚の中 内部環境 腸(消化器) 肺(呼吸器) 血液(循環器)

 

 いのちは環境と交流することで初めて存在可能となる。

 

 外部環境 大宇宙・外的自然

      空間的・時間的変化 流れ リズム

 内部環境 小宇宙・内的自然

      生きるとは外部環境に調和し、委ね、任せ、待つこと。

 我    不調和、不自然、リズム(間)に乗らない(間抜け)

      我→手+戈(ほこ) 手に戈を持って我が身を守る。

 

B,生命と經絡

 

生命・・生命は個体保存と種族保存を行う。

 

 <生命の基本的な働き>

 

 情報の収集(吸息・食物・外敵不審者・交配相手・環境の変化を認知)

 情報の整理(内呼吸・消化・選択・交配相手選別・環境の変化を判断)

 情報の表現(呼息・吸収・逃避闘争・交配行為・環境への働きかけ・行動)

 

 いのちは本来アメーバのように“混沌たる単純”で環境としての海をそのまま膜でくるんでいた。しかし進化の過程で身体は活動しやすいように様々な器官を発達させ、より環境への適応を目指した。

 ところが身体が秩序ある器官の集合体であるためには、生命統括機構が必要であり、それは複雑化するほど重要になる。

 

 アメーバはあらゆる情報を原形質流動というコロイドのゾル-ゲル転換で行っている。

 ヒトのような多細胞生物においても1つの細胞内はアメーバと同様である。

 多くの細胞を貫く生命統制機構として原形質流動様の働きをするものとして經絡が仮定され、科学的に証明される事なく経験的に臨床応用されている。

 

 經絡は原初的生命活動を12にパターン化。

 經絡は発生学から見たほうが理解しやすい。

 

經絡

 生命の基礎的な動き、働き。生命の流動性を示す概念。

 全生命体普遍の機能。

 生命エネルギーが循環するルートで、肉体と精神を総括する生命統制機構。

 原初的生命活動を12にパターン化。

 身体調整のシステムとして応用する。

 

 

肺・大腸

 呼吸 魄 天の氣導入 無形のものを取り込む(雰囲気・精神的財産・人当

 たり・無形の影響力) 悲しみ

 

脾・胃

 食事 意 地の氣・水穀の氣導入 摂食行為 ものを取り込む(財産・知識・人脈・物質欲) 思い

 

心・小腸

 知覚 神 氣の統括 中心 感覚 知覚 取り込んだ種種の情報を整理・処理し同化する 喜び

 

腎・膀胱

 元気 志 生命素“精”を作る 先天的・親からもらった元気の座 丹田 生殖 驚き 恐れ

 

心包・三焦

 防衛 神 氣・血循環 環境から内部を守ると同時に環境と適応しようとする 喜び

 

肝・胆

 動作 魂 決断 実行 活動 迷い 攻撃 怒り

 

C,經絡と情報の収集・整理・表現

 

収集   肺・脾  捕食 呼吸(取り入れる) 知覚 交配相手発見

 

整理   心・心包  消化 呼吸(O・・CO・選別) 選択 判断 交配相手選別

 

表現   肝・腎  吸収 呼吸(吐き出す・活用する) 行動 排泄 交配  実施

 

 

D,經絡と発生学

 

<胚葉>

    經絡指圧の増永静人による分類

 外胚葉(外皮・伝導)  肺・大腸  心包・三焦

ヒフ・神経・脳

 

 中胚葉(支持・運動)  肝・胆  腎・膀胱(増永案では腎・膀胱の代わりに骨格・筋肉・血液 脾・胃が入る)  

 

 内胚葉(内臓器官)   心・小腸  脾・胃(増永では脾・胃の代わりに内臓諸器官 腎・膀胱が入る)

 

 經絡は未発達の生命体をモデルにしたほうが理解しやすい。そのために発生初期の胚葉 を經絡に置き換えてみる。この試みは細かな相違点は多く見られるものの日本でも中国でも行われている。

 

 増永静人の分類には大いに啓発される。しかし一部に疑問がある。確かめようにも本人が世を去っているので、ここには私案と増永の原案の両方を載せた。

これをもって増永静人を否定するものではない。

 

  腎・膀胱は支持器官の骨に関係があるとされており、しかも生命活動源の“精”を作り、また親からの“先天の元気”の宿るところであるから中胚葉に置いた。

 

 脾・胃は地の氣・水穀の氣を取り込み、エネルギーに変えるところであり、内臓の中心的存在であるから内胚葉に加える。

 

 

胚葉と經絡・姿勢との関係

(by増永静人、一部三島改変)

 

外胚葉(皮膚・脳神経系)

呼吸系

 交換・排出<外気導入・欠伸・深呼吸の姿勢>

   肺        相傅(ソウフ:総理大臣)の官、治節出ず

  大腸        伝導(官房長官)の官、変化出ず

 

循環系

 循環・保護<表裏営衛・寒さから身を守る姿勢>

  心包        臣使(家来)の官、喜楽出ず

  三焦        決涜(ケットク:溝を開いて水を流す)の官、水道出ず

 

中胚葉(筋肉・骨格・血液)

運動系

 貯蔵・配分<右顧左眄・右か左か迷う、決断がつかない姿勢・動作>   

   肝        将軍の官、謀慮出ず

   胆        中正の官、決断出ず

 

ホルモン・自律神経系

 精気・清浄<発進態勢・準備完了の姿勢>

   腎        作強の官、伎巧(優れた技)

  膀胱        州都(地方長官で末端の需給調節)の官、津液出ず

 

内胚葉(内臓諸器官)

こころ・感覚系 

 転換・統制<沈思黙考・座禅の姿勢>

   心        君主(全体を見て外の刺激、変化に機敏に反応)の官、神明(全てを見通す全能の力)出ず

  小腸        受盛(エネルギーを受け、盛んに身体に取り入れる)の官、化物(ケブツ・ものを変化する)出ず

消化系

 摂食・消化<獣が餌を抱きかかえる姿勢・食物獲得>

   脾        倉稟(ソーリン・米蔵)の官、五味出ず

   胃                同  上    

 

[補]

『臓腑名の由来』

肺・・双葉がパッと開くように動く

腸・・長いはらわた

焦・・焼く、熱エネルギーを生じる

肝・・干=幹、中心

胆・・日が地平線に沈む、ずっしり落ち着かせる

脾・・薄く平らなもの

胃・・食べ物が袋にたまっている

心・・心臓の象形、心身の相関を実感しやすい内臓

腎・・がっちり堅い、全身をがっちり堅くする

膀・・旁は張って膨れた様子

胱・・光は広と同じで、広がりを示す、袋の意

 

E,皮膚と手当

 皮膚

 区切り(情報遮断・防衛・異化・交感)と交流(情報入力・同化・排泄・副交感) 

 <生体膜> 環境と個体を区切る。

       環境と個体を交流する。

 <感覚器> 外部からの刺激を受け止め、表層(後述)に伝える。

       ストレートに深奥(後述)に届くこともある(心に響く)。

       内部の刺激も同時に受け止めているが認識しにくい。

       物を持った時、物の重さを感じると同時に、筋肉感覚(身体感覚)も感じている(内観)。

       

手当て

 古来より医療のことを“手当て”という行為が象徴し、その呼称にもなってきた。

環境の変化に身体の恒常性がうまく保たれなかったり、怪我をした時などのような肉体 的精神的苦痛に対し、手を当てるという行為で苦しみに共感し、治療しようとした。

 

 皮膚は[交流]と[区切り]という相反した働きをしている。

 しかし、生命は個体保存という本質的に防衛重視なので、区切りに比重が傾きやすい。

 [区切り]は、自律神経の交感神経、[交流]は副交感神経が主として司る。

 

 交感神経支配の強い皮膚に対し、副交感神経優位にした術者の手を当てることで、皮膚を副交感神経的リラクセーションに導き、生命力の喚起を待つ。

 

 「手当て」とは弱いところをかばい補うこと。

 ボーナスも家計を補う意味で夏期手当て、歳末手当てと呼ぶ。

 医療の原点を「手当て」(弱いところをかばい、エネルギーを補う)と言い、看病のことを「介抱」と言う。

 これらは触れ合うことが医療の根底にあることを示している。そもそも基本的な人間関係を「触れ合い」と呼ぶのはその名残りである。

 

 皮膚は防衛のため常に交感神経優位の緊張状態。そこに優しく暖かい手による副交感神経優位の「手当て」が良い影響を与え、身体をリラックスさせる。

 これによって身体活動に好ましい状況が生まれる。これが身体調整の根本である。

 

F,深奥と表層

 身体を深奥と表層に単純化してみる。

 

深奥

 無意識的 過去的(未来も?) 生育史 本能的 イメージの海

 生まれて以来の体験・体感した経験や無自覚の記憶、雰囲気、自己の感情等あらゆるものがイメージとしてプールされている。

 母に優しく抱かれた喜び、泣き叫んでも誰も来てくれなかった淋しさ(抱かれた喜びを知る人は手当てで喜びを感じる・・・紙おむつはこの機会を奪う)。

 

 体験を集積した好ましい人の顔付きのイメージ、反対に好ましくない人のイメージから人を第一印象で判断する。

 思わぬ判断・行為をするのは多分に深奥の影響から。

 瞑想などの訓練はこのイメージをプラスに働かせるため。

 

 生物の歴史そのものも遺伝子情報として溜めている。

  爬虫類が怖い・・恐竜の記憶

  朝がだめ・・夜行性動物の記憶

  冬がだめ・・冬眠性動物の記憶

  奇形は多く、爬虫類・魚類・鳥類の形態がそのまま発生してしまうこと。

 

表層

 意識的 現在的 大脳皮質的 孤立的

 意識的に生きていると実感する層。

 外界と深奥の間で揺れる自我。深奥は自己。(宗教的分類)

 自分が自分であると思っている部分。

 常に外界に刺激され、深奥に揺さぶられながら健気に生きて行こうとしている。

 

G,氣

 氣とは森羅万象の奥に潜む実在の力。

 身体に影響する内(生命力)、外(環境)の根源的なエネルギー。

 不可視でも感応し、強力なパワーとして現象。

 理論的に説明不可能な場合に多用する便利用語。

 

[語源からのアプローチ]

 既・・座って食事をする様子 食によって氣が満ちた勢力を表す

 氣・・米と湯気 米によって得た生気から、米の意味が薄れたもの したがって食そのものの実体は食+氣で表す

 云・・雲(自然の氣)、転(動き)、魂(人体に出入りするもの)

 鬼・・キ・ケ→怪 物の怪(もののけ)、気配

 機・・タイミング(機会)、時間的氣

   

H,氣と言葉、氣とイマジネーション、気の手当て(エクササイズ)

 

重心変化  上・下 過去・未来 前・後ろ等の言葉掛けで重心が移動する。

身体変化  雲 鉄 岩等のイマジネーションで身体が変化する。

掌熱感   合掌で行う氣の体感。深い呼吸が大切。

腹熱感   腹への手当てで氣の体感。深い呼吸が大切。

經絡体験  AKの技術から筋肉の反射で經絡を実感。重心変化、身体変化も可能。

氣で触れる 掌熱感の手で人に触れる。人の手による腹熱感を味わう。

經絡実感  經絡の流れを体感する(自分のからだと相手のからだで)。

その他   勁力 伝達 

 

I,身体の使い方と意識化

 身体の各部位を意識化、自覚化することで技の高度化を図る。

 身体の中に垂直軸(腰の意識)と中心(腹の意識・丹田)を育てる。

 垂直軸は常に保ち、中心は身体の内外を問わず自由に移動出来るように訓練

する。

 訓練は日常化しなければ身につかない。

 常に身体は垂直軸と中心を保ちつつ、脱落(脱力ではない)しなければならない。

 

 掌  触れ方(触れられ方)、柔らかく暖かく、働きかけと情報収集

 手首  活かす(豆状骨を起こす)、肘に伝える、肘から伝わる

 肘  締める(豆状骨を起こす) 垂らす(肩の脱落)

 肩  落とす 沈める 沈肩墜肘

 腋  丸く緩める ゆとり

 頭・首・背中  天に伸びる 天からぶら下がる 吊るす

 背骨  腰から立つ

 腰  構える きめる 立てる 動きの意識の中心

 はら  落とす 氣を満たす こころの意識の中心

 胸  くつろぐ 開く 空を仰ぐ

 股関節  ゆったり締める 丸く緩める

 膝  バネのようなゆとりを持たせる

 足首  解放して床のエネルギーを伝える

 足底  床との触れ合い 大地に委ねる エネルギーの入力 力の源泉

 

 動きは動こうとする心が氣を動かし、僊(仙)骨から動き始め足底が床に働きかけることから発生する。その流れを身体が伝導し、掌から相手に働きかける。

 骨盤と手掌は連動する。手掌を立てると腰が決まる。

  背屈・・仙骨前屈(腰が決まる、腹が開く パワーが出やすい)

  掌屈・・仙骨後屈(腰が曲がる、腹が閉じる パワーが出にくい)

 

《游氣法》

   常に深い呼吸を忘れないこと。

触当て

 掌熱感の手で触れ熱を伝える。自分と相手の間に皮膚の感覚は無い。触れる以前にすでに氣で触れることが大切。

浸透

 触れた状態で自分の中の原形質が流れ込むイメージ。

融合

 相手からも原形質が流れ込む。呼吸が合うと深い一体感(生命共感)。

 

 あらゆる技術はすべてここから始まる。

 

揺動

 相手の身体を深奥から揺り動かす。骨格の歪みを調整して行うか、揺りながら骨格の調整をする。

 

切圧

 漢方四診の切脉のように、指圧する。切經。

 

流動

 切圧の状態から、ゆっくり体液を流すように手を移動する。マッサージ的方法。

 

伸展

 ストレッチ。融合の無いストレッチは表面が突っ張るだけ。芯まで伸ばすことが大切。まず自分が十分に伸び、その伸びやかさを相手に伝える。

 

放落

 関節の角度を調節してストンと落とす。操体の瞬間脱力の他力。

 

 ここからさらにモーションパルペーション、モビリゼーション、アジャスト等の技術に発展する。ヨガ、太極拳、スポーツ、武道も同様である。

 

 テーピングでも、自分の身体を同じイメージに保ちながら施すことが肝心である。同じようにテープを張ってもあの先生なら効くが、自分では効かないというのはこの当たりにヒントがある。

 

 

 

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《游氣塾》 [生きる場の解放・生きる方向の発見・生きる活力の養成]を求めて

《游氣塾》

[生きる場の解放・生きる方向の発見・生きる活力の養成]を求めて

 

三島広志 

我々は生きていく限り<身体>の問題を看過する訳にはいかない。そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。

 即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。

 否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。

 それに応えるべく、<身体>こそは完全なる世界を体現しているのだ。

 

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。

 

◎身体とは

 ここで言う<身体>とは以下を統合した概念としての身体である。

 

<肉体> 解剖学的=骨格・筋肉・皮膚・神経・内臓等(構造)

      生理学的=消化・循環・呼吸・運動・感覚等(機能)

 

<精神> 心理学的=本能・感情・葛藤・知性・欲求・学習等(ヒトとは?)

       哲学的 =意志・目的・欲望・認識・創造・内省等(人間とは?)

 

<經絡> 身体における氣の循環路といわれるもので、肉体と精神を総括する存在

       生命の流動性を示す概念

      生命を12のパターンで認識し、身体調整のシステムとして応用

 

<氣>  森羅万象の深奥に潜む実在の力

      身体に影響する内(生命力)、外(環境)の根源的なエネルギー

      不可視でも感応し、強力なパワーとして現象する

      理論的に説明不可能な場合に多用する便利用語

     氣といわれると、なんとなく解った氣がする曖昧なコトバ

 

◎解放された身体とは

 脱力性=リラックス、放下、可能性、ゆとり、重力に委ねる、安定性、中心が定まり強さが生じる、バランス 

       「をりとりてはらりとおもきすゝきかな」飯田蛇笏

 柔軟性=やわらかさ、しなやかさ、適応性、多様性、広い視野、自由、自在「をみなごしめやかに語らひあゆみ」三好達治

 感受性=認識、感動、みずみずしい感性、創造のモチーフ、センス

       「蔓踏んで一山の露動きけり」原石鼎

 流動性=うねり、波動、リズム、エネルギー、カオス(混沌)、スパイラル、体液循環、呼吸、經絡

       「筋肉は隆起し消滅する」坪井香譲

 方向性=目的意識、自律性、自立性、勢い、パワー、全身がまるごと一体となって向かう(動く)、表現、集中、志向、思考、コトバ、希望、コスモス(秩序)

       「はまなすや今も沖には未来あり」中村草田男

 共感性=人の痛みを自分の痛みとして感じる、人との調和、自己との調和、宇宙・自然との調和、生命共同体の礎、アガペ 

       「世界がぜんたいに幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」宮沢賢治

 

◎身体調整について

 身体調整はコミュニケーション(触れ合い)の一形態である。その根底にあるのは苦しみ、悩み、疲れている人に対する理解と共感であり、その行為は思わず手が出て、触れ、さすり(手当て)、じっと抱きしめる(介抱)などの形で表現される。

 ここで忘れてはならないことは、それらの行為が決して一方的でなく、同時にこちらの手も触れられ、さすられ、じっと抱かれ、そこでさまざまな情報の交換がなされていることである。

 本来、医療とはそうした対等の関係であったはずだが、今日では権威主義と経済関係にとって替わられてしまった。しかし一部で本能的な手当ての歴史が受け継がれ発展してきた。

 それは、患者と治療者との関係性を考慮した身体観に立脚する、おおらかで風通しのよい、解放された対等関係に基づく触れ合いの手作り医療である。

 

◎身体調整の技術について

 調整手技は武道、スポーツ、ダンス等と同じく身体で表現する体技である。したがって指一本使う時でさえ、全身の協調と意識の統一が必要となる。

 <技>を学ぶためには、手、指はもちろん肘、肩、腰、膝、足、腹の隅々まで神経をいき渡らせて、身体を意識すること(内感)と平行しながら<技>を修得しなければ上達は望めないであろう。

 さらにこの<技>を何の目的で、どんな場合に、どういう人に、どのように使用するのかを前提にした<術>の稽古も必要である。

 そのためには、身体と意識を十分に練って心技体を統一させていくことが極めて重要になる。

 

◎手技の内容

 1 基本(全ての手技に共通する原理)

  姿勢、手の当て方、手首・肘・肩・腰・足の構えと意識、足底と床との感覚

  床からのエネルギーを相手の体まで伝える流動的な身体作り

  呼吸と動き、呼吸と意識

  意識と技の関係、重心を活かす法、勁力の養成、腹(丹田)と腰の意識

  氣の体感と伝え方、一体感(生命共感)

  正中線 中心軸 骨軸 左右軸 正中面 体側面などの身体意識

  経絡の体感

  寝る 寝返る 座る 立つ 歩く などの基本動作の再認識  

 

  上記をさまざまな形でトレーニングする。それによって技を使いこなせる身体を作り、さらなる上達を目指す。

  トレーニングは簡単で、それ自体健康法になる。

 

 2 検査法(民間療法的手探り療法からの脱却)

  生体反射検査法(BRT)、生体脉反射検査法(BPRT)、經絡診断、操体的動診、モーションパルペーション(可動性検査)、整形外科的検査

  身体調整は、まず相手からの情報収集から始まる。収集した情報を整理し

  現状把握の後、調整法を決定し、実行する。

  現状把握は予後の判定の判断基準になる。

 

  以上の情報収集と予後判定の方法が検査法である。同時に自らの限界を知る方法でもある。

 

 3 各種手技(直接的手段)

  カイロプラクティック、モビリゼーション、經絡指圧、操体、ストレッチング、リンパ流動法、生体反射療法等を各人の適性に応じて深める。

  上記の技術を用いて全身の筋肉、骨格(頭蓋・脊椎・骨盤・股関節・四肢)の調整、内臓の活性、リラクセーション、生体エネルギー(氣)の調整と養成を目指す。 

 

以上の技術はばらばらに存在する訳ではなく、互いに関係しあっているので、相乗的に上達していくであろう。 

経絡調整塾「増永静人を読み解く会」

「増永静人」を読み解く会の発足について

先日、必要があって私の指圧の恩師であり指圧界の至宝でもあった増永静人生の本の在庫をインターネットで確認しました。すると多くの著作が絶版もしくは入手困難になっています。師の没後20年以上になりますから次第にその思想や技法が指圧界から消滅していくのは仕方のないことかもしれません。

世の変化の速さは東洋手技療法の世界においてもその流れを圧し留めることは不可能です。

しかし、増永静人の思想は単に病気治療や指圧技法に留まるものではなく、「いのちとは何か。生きるとは何か」という医療の原点から成り立っています。よってその思想の根幹は指圧を超える力を保有しているのです。増永
静人が大学で哲学を学んだ経験が指圧理論の普遍化に関与している理由でしょう。

今日、増永静人の理論や技法は本人によって設立された医王会において継承されていますし、直接の弟子や受講生、あるいは没後その著書に私淑した熱心な人たちによって命脈が保たれています。しかしどうしても年月が経つにつれ、その理論は弟子の個性によって希釈・変形されていきます。

あるいは明らかな誤解や意図的な歪曲も見受けられます。

そこで游氣塾では原典を忠実に読み解くことで改めて増永静人の業績を明らかにし、継承の礎になれたらと考えました。

当座は入門書として版を重ねている『スジとツボの健康法』(潮文社)を読み解くことにします。この本は思想と技法が最もうまくまとまっているからです。

本に書かれている内容を吟味しつつ、実技を重点的に検討していく予定です。

 

游氣塾 

〒464-0850 名古屋市千種区今池5-3-6-303

電話:052-733-2253

h-mishima@nifty.com

 

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触れる心   「接触」から「触れ合い」へ

触れる心   「接触」から「触れ合い」へ  

三島広志

 治療行為は、患者と治療家の出会いの場、いわば一つのコミュニケーションの場であって、それはあくまでも対等な人間関係の場であるべきである。

 

 ともすれば治療家は、治療する側が優位に立っているという誤解から、患者より上に位置しているものと勘違いする傾向がある。患者もまた、治療される側として自らを下に位置してしまいがちである。しかし、それでは正しい人間関係を形成することは不可能である。

 

 治療家と患者が対等になって初めて本当の人間像を掴むことができるであろう。病気は人間像の一部に外ならないのであるから、人間像を明確に理解しない限りその人の病気を明らかにすることは困難である。

 

 そもそも、患者が治療家を訪れたということは、それに先立って患者が、チラシ、評判等から決断を下している。即ち、治療家は患者に選ばれているわけで、治療家が優位に立っているわけではない。

 

 実際の治療でも、治療家の行為に対して患者が反応し、その反応に合わせて治療家が新たな働きかけをするという、二人の呼吸があってこそ納得のいく治療が可能となる。

 

 こうした治療において「触れる」という行為が大変重要な意味をもってくる。昔から人間関係を「触れ合い」と言い、治療を「手当て」、看護を「介抱」と言うのも、皮膚の接触が人間社会に占める価値の大きさ故であろう。

 

 患者からの情報を得る方法として、漢方には「望・聞・問・切」の四診があり、西洋医学には視診・聴診・問診・触診・打診等と、機器による物理的、化学的な方法がある。

 

 西洋医学は極力主観を排し、客観性を高めることに努めているため、診察は機器に頼る傾向が強いが、漢方では五感による体験的、直感的で主観性の強い診察が主流である。

 

 四診の中で最終的に最も信頼すべき方法が切診つまり接触による診察である。鍼灸治療家は患者の体に触れることで診察を行い、綜合的判断のもとに診断をし、治療点を体表に決定する。

 

 冒頭、治療家と患者は対等の位置にいなければならないと述べた。それは患者を診断する時の最も基本的な在り方でもあるからだ。

 

 人と自分が対等の立場にいるためには、まず互いに認め合わなければならない。治療家は患者が病気である現在そのものを受け入れなければならない。腕が挙がらないのは異常であると思うことはすでに患者を受け入れていないことになる。腕が挙がるのが正常で挙がらないのは異常とみるのは一種の差別である。腕が挙がらないことを含めてそっくりそのまま患者を受け入れることが認めるということである。

 

 すると、患者の肌に触れる時、治療家と患者は同化することができる。二人の人間が一つに融合するような感覚になるのである。

 

 筆者が今まで、触れるということについて書かれ、ショックを受けた本が二冊ある。それらを紹介しながら触れるということについて考えてみたい。

 

 「大事に触れるということは、自分の中身全体が変化し外側の壁がなくなって、中身そのものが対象の中に入り込もうとすることである。そのことによって対象の中にも新しく変化が起こり、外側の壁がなくなり、中身そのものが自分に向かって入ってくる感じになるのである。そして自分と対象という対立するものはなくなり、あるのはただ文字どおり一体一如となり、新しい何ものかを生みだす実感がある。(中略)皮膚は原初生命体の界面の膜である。すべての感覚受容器(視・聴・嗅・味・触)をふくむ総合的感覚受容器なのである、と同時に、脳、神経の原初的形態なのである。(中略)皮膚は脳がからだの表面に、薄く伸び展がったものである、といったらどうであろうか。原初形態の脳(原初生命体の膜)は、受容、伝送、処理、反応のすべての働きをしていたと考えられる。(中略)皮膚は[もの]としてここにある心である、というべきであろう。(中略)人間の触れるという働きの中で、最も強く『体気』が出入りする所のひとつが手・掌・指である。本気で触れた時、どんな驚くべきことが起こるか、体験しないとまったく想像もつかないようなことが起こるのである。本気とは『本当の気』である。協力の在り方の中でぜひ体験してほしいと願っている。」
(野口三千三『原初生命体としての人間』三笠書房・岩波書店より再刊)

 

 野口体操で知られる野口氏の体操は、芸術、特に演劇や、教育の関係で地味ながら大きな影響を与えている。野口氏は独特のくねくねした体操を通じて人間を探求してこられた方で、筆者もその著書から人生観を変える程の影響を受けた。

 当時、経絡指圧の増永静人氏の勉強会に参加していた筆者は、両氏の到達した地点の共通性にも驚いた。片や指圧、片や体操で、触れるということの捕らえ方が大変似ているのである。共に人間とは何かといつ命題を求める方向が同じで、たまたま方法が異なっていただけということであろう。

 

 「経絡が生命に固有のものと考えるならば、それは細胞にみられる原形質流動の発展したものと考えるのが適当だろう。細胞が分化するとき外胚葉は皮膚・神経系となって外と内を連絡した。内胚葉の内臓もやはり外界との適応・交流のために原形質流動を経絡系統として連絡に当てたとみるのである、この交流、適応ののぞき穴が、皮膚の感覚器のように経穴として開孔していると考えてよかろう。(中略)生体の歪みに対して、経穴は内臓へ向かって液性伝導を行うのであるが、これを人為的に代行した時、経絡のヒビキがおこると考えるのが妥当であろう。(中略)ツボをとるときには探ってはいけない。その疑いの心から科学は発達し得ても、生命を掴むことはできない。生命には生命でもって対しなければならないのであって、ツボを知るのは原始感覚によって感じとるのである。(中略)スキンタッチは皮膚接触と訳されるが、生命共感のタッチとは深く挿入される接合である。(中略)皮膚接合によって生命共感は得られ、その原始感覚を通してツボは実感される。指はツボを押さえるのでなく、ツボに受け取られて自ずとツボにはまるのである。」
(増永静人『経絡と指圧』医道の日本社)

 

 増永氏の言う生命共感とは、指圧を施している時、自分の体と患者の体が全く一体になったように感じ、患者の違和感、苦痛を我が身の苦痛と同様に感じるものである。それはまさに野口氏の自分と対象との中身がお互いに交じり合い溶け合うことと同じである。

 

 治療という場において、治療家と患者が本当に一つに溶け合った時、「気」が最高に発揮されるのではないか。この状態は自然との同化と同じで、太極拳に代表される気功やヨガ、自律訓練法等、皆これを目指したものである。

 

 その最もスケールの大きなものが古来から行われてきたハレの日の祭ではなかったかと筆者は思っている。祭はケの日の(普段の日常的な日)の束縛から解放されるハレの日(非日常の日)である(今日でもハレてご成婚とか晴れ着というのはその名残)。祭の日は、上下の身分を超え、男女を忘れ、唄と踊りと酒と御馳走を心行くまで堪能する。そこに存在するのはあらゆるものからの解放である。

 

 治療は治療家と患者の合一によって病気からの解放を目指すが、祭は自然と人とカミの合一によって存在からの解放を目指す。治療において触れることは、祭の酒と同じ作用をする。

 

 今日では、祭のようなハレの日を失い、ケの日も曖昧になってしまい、自らが束縛されていることに気づきにくくなってしまっている。そんな現代人を確実に束縛するのが病気である。病気は、われわれが実は束縛されている存在であることに改めて気づかせてくれる一つの現象である。

 

 治療家はそれに気づいた患者に何を与えることが可能だろうか。症状を除去することだろうか。症状を除去しても、患者は一応満足こそすれ、すでに束縛された存在であることに気づいた彼らは、一抹の不安を常に抱き続けなければならいだろう。患者に与えるべきものが見つからない時は、治療家は己れ自信に対しても与えるべきものを持っていないということでもある。この点においても、治療家と患者が全く対等の関係にあることが明瞭に見えてくる。

 

 この根源的な触れ合いの場を、もっと大きな「気」の渦巻く場として、太古の祭のような場として活かせないものだろうか。

 

 そこを素通りして小手先の指頭感覚のみを鍛えても無意味であろう。名人とされる人の評伝は皆、彼らが「気」を根底から転換させる力を持っていた事実を伝えている。患者の病気や人生がその「気」との出会いの中で治り、変化していくのである。

 

 我々治療家はそうした可能性を持っていることを絶えず自覚して、逆に患者から学ぶ心で治療に当たり、まず自分自身を啓発していかなければならないだろう。

 

 触れる、その一瞬に治療家の人生の総てが表現され、患者の人生の総てとの出会いがあり、そこから二人の新たな人生が始まるのである。

 

             所収

医道の日本1986年(昭和61年)4月号

創刊500号記念特集

圧痛点による診断と治療及び指頭感覚

 

 

 

 

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身体調整について   ・・・心臓発作を通じて・・・

身体調整について

  ・・・心臓発作を通じて・・・

 

三島広志
 

 一般に治療と表現する行為及び理念を、私自身は「身体調整」と呼んでいる。

なぜなら人のいのちの状態の過渡的一断面を見て、それを病気とか異常と決めつけることに一種のためらいがあるからである。

 したがってそれに対するアプローチを治療とか医療と呼ばず身体調整と呼んでいる。

 

 敬愛する福岡の鍼灸師 筑紫城治氏は

 

 医術は人の病いをヒトの<病気>として

 療術は人の病いを生活者の<病い>として見る所に、

 双方の欠点と長所があるようですね

 

と分類、定義する。けだし卓見である。

 

 その言に沿えば、私の目指す行為および理念は療術である。しかし別の観点から身体調整にこだわっている。

 

 それは<病い>と<非病い>の間にボーダーラインがあると仮定し、マイナス状態をゼロラインに引き上げるのが<療術>、ゼロラインからプラス状態に高めることを<鍛練>とし、それらを一貫するものを<養生>とする。その<養生>に対するアプローチを<身体調整>とするのである。そしてもとより仮定されたボーダーラインなどは無いのである。

 

 今その人が示している状態は、その人の生育の結果である。すなわちその人の人生史のヒトコマである。そのヒトコマである今がいかなる苦しい状況であろうともまず懸命に生きている人生の一瞬として「いとおしみ」、かつ冷静に「評価」したのち、然るべき対処をすべきであろう。

 

 なぜなら今こそが未来の礎であり、苦しい今から素晴らしい未来に転換するには、相当の認識の転換を必要とするからである。

 「苦は楽の種」という有名な諺は体験を経験に変える認識の産物に外ならないのだ。その認識に癒しの術をもって働きかけるのが身体調整なのである。

 先の筑紫氏の「病い」とはこの辺りをも視座に入れたものに違いない。

 

 医大、病医院、保健所、保険制度など厚生省の管轄による体制規定の、いわゆる正当医療(もしくは体制医療)ではなく、非正当的で辺縁的立場にある手技療術関係者はこの体制からある程度の(法律限度内の、あるいは道徳的容認の)自由な立場にある。

 我々はその立場をこそ逆に利用すべきである。

 

 苦しむ人、悩める人の生育史及び環境をも包括した<癒しのまなざし(中川米造)>を伝家の宝刀として、病める人の苦しみの深奥に共感すべき<手>と<術>を磨き上げて「生活者の病い」を癒す道を尋ねて行くべきであろう。

 

癒しとは

 

 身体調整はコミュニケーション(触れ合い)の一形態である。その根底にあるのは苦しみ悩み、疲れている人に対する理解と共感であり、その行為は思わず手が出て、触れ、さすり(手当て)、励まし、慰め、じっと抱きしめる(介抱)などの行為で表現される。

 

 そしてそれらの行為は一方通行ではなく、同時にこちらの手も触れられ、さすられ、じっと抱かれ、両者間に種々の情報の交換がなされているのである。
 本来、医療とはそうした対等の関係であったはずだが、今日では医師対患者という権威主義とお客対サービス業という経済関係にとって替わられてしまった。

 

 しかし、一部で本能的な手当ての歴史が受け継がれ、危険を廃し、有効性を高めながら発展してきた。

 それは施す側と施される側との関係性を考慮した身体観に立脚する、おおらかで風通しの良い、解放された対等関係に基づく触れ合いの手作り医療である。

 

 

 私達の目指す手技療術とはこの生命観と歴史性の上に立つ、素晴らしいものであることを認識し、こころして日々の施術に当たるべきものである。

 

症例 心臓発作

 

 この症例は既に10有余年前のものであり、私の極めて初学時代の事例であるが、いろいろ考えさせられた経験であるから紹介したい。

 ただし、細かな事実を現在明らかにするべき資料が無いため、事実に基づいたエッセイのような感覚で読んでいただきたい。

 

 慢性関節リウマチで身体調整に通って来ていた婦人が、ある時妹もお願いしたいと言われたので、次回に予定していた。ところがみえたのは姉の方だけであった。

 姉によると
「妹は昨夜急に心臓発作が起きてしまい、近所の医者に往診してもらった。今は症状は治まっているが、動けないでいるので往診してほしい。」
とのことである。

 心臓ではちょっと手が出せないと断ったが、「診るだけでいいから」と懇願されるので仕方なく姉の運転する車で家まで乗せて行ってもらった。

 

 妹は布団に横たわっていたが思ったより元気そうであった。力は無いながらも笑顔で挨拶をされた。

 「昨夜は初めての発作であり怖かったから医者を呼んだ。医者の話では心臓自体は悪くないので心配はないが、安心のため薬を置いていくという。明日にでも心電図をとってもらう予定。」

 以上の話から多分心臓神経症であろうと推定し、それならば手を出してもよかろうと決意した。

 

診察・診断

 

 当時、私は經絡指圧の増永静人に師事していたので、まず腹を診た。

 心下部にひどいしこり(痞硬)があり、何か小さな袋でも詰まっているようであった。さらに右季肋部が堅く、季肋下には全く指が入らない。そして少し熱くなっていた。

 

 下肢の内側、肝経に強いつっぱりがあり、押さえると痛いと声をあげた。

 その後方にある増永心経は、表面的には力がなく芯に堅い平板なものを感じた。芯に圧を加えるとじんじんした感じが足先まで響くと言う。

 

 

 腹の鳩尾のつかえと右季肋部の固さ・熱感、足の経絡の状態と症状から「心虚肝実の証」とした。証とはさまざまな症状の集合をパターンとしてとらえる方法であり、そのまま調整の方法も示す。

 漢方薬なら証即処方である。

 

調整

 

 左手四指を心下部に軽く置き、右手拇指で左脚の増永心経に深く、静かな沈みこむような持続圧を加えていたら、1分ほどして心下部のしこりがググッという音と共に緩んできた。

 すると妹はフウーとため息をつき、何か胸のつっかえが除れたようだと言った。さらに持続しながら鳩尾を撫ぜ降ろして、しこりの完全な緩解を促して調整を終了した。

 肝の反応部も緩んだ。しかし熱は変化なし。

 左脚を選んだ理由は、左右の心経を深く指圧した時、左の方が右より鳩尾の心の部に響きが伝わり易かったからである。

 

 脚の肝経は先程のつっぱりは消え、押さえても痛くなくなり、心経の重苦しさも消失した。

 妹は嘘のように晴れ晴れした顔で横たえていた体を起こし、床のうえに座って「とても楽になりました。」と礼を言った。

 

考察

 

 何故こんなカビの生えたような古い症例を持ち出したかというと、一つには私としてうまくいき過ぎた例だからである。

 

 似たような症例で中年女性のケースもある。その女性は発作の最中に呼ばれた。行くと家族で手足を押さえ付けている。

 「いつもそうしないと体が宙に浮いてしまう」と本人が言うからと説明を受けた。

 

 急いで鳩尾(みぞおち)に手を当て、その時は何も考えず速やかに脚三里を強く指圧した。これは気を下げる効果があったらしく、1分もしないうちにゴボッと音がして落ち着いてきた。

 

 その後医師にかかり、心臓神経症と診断されて、ニトログリセリンの錠剤を常備するようになった。

 

 以上の2例はとても印象に残るほど鮮やかな効果をみた。むろん全てがこのようにうまくいくはずがない。

 

 もう一つの理由は、証の解釈について学ぶところがあったからである。

 心虚の場合、精神的な問題を強く表現していることが多い。増永静人は

「心経は心そのものだ」

と言っていた。

 

 増永静人の「切診の手引き」(医王会刊)によると心虚の症状は

 

 「気疲れ、ショック。不安感、神経緊張がある。舌がつれ、あれる。気力がない」

 

精神面として

 「精神的な疲れ、ショック、神経緊張、ストレスなどでノイローゼ、神経症ぎみ、心配による食欲不振、気ぜわしく落ち着きがない。物忘れしやすい。不安があり心労ぎみ、気が小さい」

 

身体面として

 「上腹に力がない。鳩尾が固くつかえる。心臓症状、動悸がしやすい。腹壁の緊張が強い。舌がひきつれ、のどがつかえる。手が固く汗ばんでいる。心身症、疲れやすい、狭心症、心筋梗塞、目尻がきれやすい」

 

とある。

 

 私は症例の妹は、何か精神的な疲れが体の状態や顔付きから感じられて、診察・調整中さりげなく聞こうとしたが、彼女は何も無いと言い張った。

 私もあえてしつこく聞くのは得策ではないと、その件には深入りせず、体の不安の方に比重を移した。

 しかし、先に引用した増永静人の説にあるように、鳩尾が固かったり、ペコンとへこんでいたり、芯に凝りや袋のようなものがある時は心身に重大なショックがあることが多い。たとえば交通事故の時などもそうである。

 

 調整後、彼女の姉が家まで送ってくれたが、その時、
 「実は妹の夫の勤務先が半年前倒産して、妹はその間必死で働いて家計をやり繰りした。そして最近夫の再就職先が決まったとたんにこうなった。先生の言うように彼女には相当な精神的重圧があったはずだ」
と教えてくれた。

 私はやはりと自分の想像が当たっていたことを喜ぶと共に、彼女がそのところまで心を開いてくれなかったことについて考えざるをえなかった。

 

 証は調整の方針、いわば治療の世界に関係するのみでなく、その人をより深く理解しようとするものである。人間理解の一手段なのである。

 

 証を診るとは調整法(治療法)の選定だけでなく、人間が人間に対してどこまで働きかけることができるかという大変な問題を含んでいる。

 彼女は私に心の世界まで入られることを拒否した。私は拒絶されたのである。

体のことだけを何とかして欲しいというのが彼女の要求であり、その場での私と彼女との関係における身体調整の限界を示すものなのだ。

 

 これは悲観しているのではない。人間と人間との関係性の中にしか身体調整は成立しないことを示しているということだ。

 私自身がさらに成長をしていたら、また別の展開も考えられうる。

 

 この経験から得たものは、もっともっと心の奥まで受け入れてもらえるような人間になれということであった。

 この体験を彼女からの無言のエールとしてとらえたわけである。

 

 むろんそれによって、身体調整家の責任は相当に重大になることは当然である。

 

増永経絡について

 

 古典では手に肺、心包、心、大腸、三焦、小腸、脚に肝、脾、腎、胃、胆、膀胱とそれぞれ6経絡ずつ示されているが、増永静人は手脚それぞれに12経絡を直観と経験から認め、さらに手と脚を繋ぐ経絡を書籍やチャートで発表している。多くの場合古典の経絡の隙間を通っている。これに疑義をもたれる方も多いと思うが、ここでは一つのシステムとして理解して戴きたい。

 

 増永の本に関しては医王会指圧センター(電話:03-3832-2983)まで。

 推薦図書としては「経絡と指圧」(医道の日本社刊)。

 身体調整に関して「身体調整の人間学」(高岡英夫著 恵雅堂)を勧める。

 

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2009年6月 9日 (火)

梅雨の養生(再録)

梅雨が近づきました。
以前、このブログに書いたものの再録です。一部変更してあります。

梅雨とは梅の実が熟す頃の雨という意。また、黴が生えるので黴雨(ばいう)という説もあります。俳句の季語には雨に打たれた青葉が美しい青梅雨、雨が降らない空梅雨、激しく降る荒梅雨、さっと降ってさっと止む走梅雨、梅雨の晴れ間を輝く梅雨の星や梅雨の月など色々な言葉があって季節を彩っています。

五月雨(さみだれ)も本来は梅雨のことを表していますが、新暦が基本になった現代では五月に降る雨として用いられます。芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」「五月雨の降り残してや光堂」、蕪村の「さみだれや大河を前に家二軒」などの句は旧暦の五月であり、丁度田植えの頃に降る雨、まさに梅雨を指します。

さて、梅雨時は寒かったり暑かったりと気温が定まらない上に、湿気が厳しく過ごし難い時期です。特に病気の方やお年寄には辛いものです。関節が痛んだり、呼吸が苦しくなるのが通常ですが、これは湿気と低気圧によるものと考えられます。

漢方では湿気は湿邪として身体に影響を及ぼし、それは特に消化吸収の要である「胃」と「脾」に影響を与えるとされています。「脾」は現代医学の脾臓との関連は薄く、むしろすい臓に近いと言われています。つまり「湿邪」は食べ物を摂取、消化して吸収する能力を損なうのです。それに加えて蒸し暑いとついつい冷たいものを口に入れてしまいますからますます消化器が弱ってしまいます。

さらに困ったことに、先ほど述べた梅雨の別称である黴雨。梅雨には食べ物がいたみやすいという厄介な問題があります。いかに冷蔵庫があるといっても油断は大敵。食品に繁殖するのは黴だけではありません。食中毒を起こしやすい黴菌だって元気に活動することでしょう。

湿気と冷たい食物で弱った胃腸に黴や黴菌でいたんだ食べ物。このダブルパンチがますます胃腸を痛めつけてしまいます。

この時期の養生として、まず湿邪を避けること。それには冷たい食べ物や飲み物を極力避け、胃腸を労わります。
その季節、その土地で収穫できるものは季節のリズムと生体のリズムの調和という点で参考になる意見でしょう。
つぎに汗を速やかに拭き取って身体の冷えを防ぎます。エアコンは十分注意して使用してください。
汗をかくことは体温を下げること、余分な水分を排泄して腎臓の負担を軽減することなど有用です。散歩などで筋肉を適度に使って汗を出すことは最適です。その後しっかり汗を拭きとることです。

寝る前にはじっくりと身体を芯から温める半身浴がお勧めです。じくじく出てくる汗から粘り気がなくなればしめたもの。風呂の後は汗をよく拭いて身体の冷えの予防です。腰湯が暑いなら膝から下を温める脚湯でもかまいません。

湿邪にやられると脳の思考も鈍ると言われます。ぼんやりして交通事故にあってもつまらないので十分な睡眠も必須でしょう。経絡という身体にあるスジを伸ばして「胃」や「脾」を活性化することも有効です。それらの経絡は身体の前面を走っています。指を組んで万歳をしながら深呼吸をすると経絡がよく伸びて、その影響で疲れて下垂した内臓が上がってきます。身体の柔らかい人は正座をしてそのまま後に倒れるストレッチをしてください。

梅雨は鬱陶しい季節です。「鬱陶しい」という漢字まで鬱陶しいですね。しかし最初に書いたように緑の最も美しい青梅雨の候でもあります。青時雨という言葉もあります。洗濯物が乾かないとか、食べ物がすぐ腐るとか、関節が痛いとかと悪い側面ばかり見ないで、慈雨の美しさを眺める(長雨る)余裕も欲しいものです。

日本の水は三分の一が普段の雨から、三分の一が梅雨、残りの三分の一が台風でもたらされるそうです。
そう考えると梅雨もありがたいもの。

上手にやり過ごしてください。

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2009年4月10日 (金)

愛知大学「東洋医療と経絡エクササイズ」開講

昨日から愛知大学オープンカレッジ「東洋医療と経絡エクササイズ」が開講しました。

第五期、三年目に入ります。

今回の参加者は16名、内男性2名。1名欠席でした。

第4期からの継続は1名だけで、あとは全て新規の方。

初回ということで東洋医療の概論的な話と触れることの話。

仙骨呼吸による丹田の実感、触診と切診の違いを体験していただきました。

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2009年3月12日 (木)

ツボに触れる

以下のサイトで増永静人先生の本を詳細に引用して
ツボの取り方を解説しています。
大変手間暇のかかる作業でしょう。
参考になりますからリンクさせていただきます。

春風堂日記
http://ekimochi.exblog.jp/

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2009年1月24日 (土)

高年大学

昨日、名古屋市高年大学鯱城学園で講義をしてきました。

そこは中区の消防署の上にある立派な施設です。

今年で講義すること8年目。

当初は受講者がおじいさんやおばあさんばかりだと思っていましたが、いつしか自分も入学資格に近付いてきたことを実感しています。入学資格は60歳です。

演目は「からだで学ぶ東洋医療」。

医学と医療の違いや、中国の古い考え方である陰陽五行を説明しました。

漢方医学の根本は「天人合一」。

外部環境である大宇宙と内部環境である小宇宙(人体)との調和が大事だということです。

講義の中で、身体は外部環境である空、陸、海を体内に取り込むことでいのちを保持しているという話をしました。

空とは呼吸で吸い込む空気。東洋医療では天の気といいます。これは肺として存在します。

陸は腸を中心とした消化器。地の気をいのちに変える器官です。面白いことに畑の土に有用菌がいるのと同じように腸内細菌がいます。

海は血液。いのちは海に産まれ陸に上がりました。その時、体内に海を維持することでそれが可能になったのです。血液とはまさに体内にある海。血潮とはうまく言ったものと感心しています。

これら陸海空を体内に持つことでいのちを保っているのです。

という話をすると以前の学生さんは「まるで軍隊みたいだ」と反応しました。

多くの方が軍隊経験者だったのです。

ところが今の学生さんは軍隊経験はありません。

8年という年月の重さに気づかされました。

同じ内容の講義を今度は別のクラスで2月6日に行います。

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2009年1月21日 (水)

経絡導引教室

毎週土曜日午前中は春岡コミュニケーションセンターでのクラス。

治療の隙間に行うのでちょっと忙しいです。

今月のテーマは肺経と丹田。そして中心軸。

といっても一か月でどうこうできるものではありませんから、復習の繰り返しになることでしょう。

経絡は二月には大腸経に移ります。

まだ手探りですが、簡単な理論を織り込んで経絡の理解を知識と実感の両面から取り上げていこうと考えています。

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