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2021年5月21日 (金)

俳句とからだ 170号 俳句と原始感覚

連載俳句と“からだ” 170

 

愛知 三島広志

 

俳句と原始感覚

 新型コロナウイルスのため仕事が消滅した時期があった。読書でもしようと書物を渉猟していたとき宮坂静生(敬称略以下同)に『俳句原始感覚』(本阿弥書店)という著書があると知り取り寄せた。原始感覚という言葉に惹かれたのだ。何故ならそれは私の仕事である指圧の用語でもあるだからだ。恩師増永静人の著書『経絡と指圧』(医道の日本社)には原始感覚とは外部の対象を判別知覚する判別性感覚に対して「生体内部の状態を受容する運動・平衡(位置)・有機(深部覚)などの感覚、(中略)この感覚は生体の基本的生命活動と結びついていて(以下略))とある。眼や指先で感じ取る緻密な判別性感覚では無く、内臓感覚のように知的処理されない漠然とした感覚なのだ。

宮坂の著書では原始感覚を「宇宙的自然が開発という美名のもとに破壊され、人間精神のうちなる自然(原始感覚といいたい)が荒らされること、今日以上なるはないと思われる」(「山林的人間」・永田耕衣)と耕衣の言葉で説明している。また宮坂は同書のあとがきで「米を作り牛馬を飼育する定住生活者(弥生文化)の安定した論理や感覚では無く、もっと遡った狩猟採集時代の移住生活(縄文文化)がもっていた原始感覚を身につけなければいけない」と書いている。

原始感覚とは知的に明確に判別できるものではなくいのちを直観する感覚なのだ。私は増永静人にこれは西田幾多郎の純粋経験ではないかと尋ねたことがある。師の「自分の師匠の師匠は西田だよ」とニヤリとした笑顔を今でも覚えている。

編著『季題入門』(有斐閣新書)第七章「季題の歴史」に山下一海は季語・季題を「古くは季の詞、四季の詞、季の題あるいは単に季といった。『季題』の語は明治四十年ごろ河東碧梧桐らが用いだしたといわれ『季語』の語は明治四十一年に大須賀乙字が用いたのが最初」と記している。宮坂は『季語の誕生』(岩波新書)で「雪が冬の季題として決められていく。それは冬と季節を限定されることで安定したイメージを獲得すると同時に、失うものも多いことを思わせるのである。季題の成立は私的幻想を失い、新たに共同幻想を獲得することばの危うさに立っていたのである」と言葉の固定観念化や共同幻想化への危惧を述べている。

宮坂は同じ『季語の誕生』で江戸期は心が身体を縛る時代と書いている。芭蕉の敬慕した平安時代の西行が身と心の分裂を正直に告白した歌として「吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはず成にき」を上げ、芭蕉はそのため「日々旅にして、旅を栖とす」る旅寝を重ねることで心からからだを解放したのだと言う。解放された純粋な感覚こそが原始感覚であろう。

黒田杏子の説く「季語の現場」とは季語という言語と向き合うだけでなく、季物と無心に純粋に対峙した我が身中に湧き上がる縄文的血潮を原始感覚でそのまま感じ取ることだ。黒田はそれを地霊といい、宮坂は地貌と呼ぶ。それはその地に刻み込まれた景物と人とのカオスなのだ。

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