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2020年7月

2020年7月 2日 (木)

俳舞 金利惠、名古屋に降臨

金利惠、名古屋に降臨

愛知 三島広志

 

二つの国を、二つの言葉を自在に行き来する舞姫。彼女がひとたび身を翻せば舞となり、地を這う風が空へと駆け巡る。思慮深く声を発すれば口唇から言葉が俳句となって零れ散る。彼女の身体は二つの国の歴史を個人史として受け止めつつ未来へと開く。舞と言葉は彼女の魂の、そしてもっと大きな何かの化身なのである。

(「俳舞」パンフレットより 三島広志)

 

プロローグ

二〇二〇年一月十六日。ついにこの日が来た。

金利惠さんの「俳舞」の名古屋での公演を支えるため、前年十月、名古屋在住で金利惠さん旧知の張・李夫妻、韓国古典芸能団主宰の蔡さんと酒向さん、韓国語学校経営の韓さんにより「ゆるやかな応援団」が結成され、俳句仲間として著者も加わった。月に一度集まり集客や当日の運営手伝いの相談をしてきた。

 

『俳舞』、それは俳句と韓国伝統舞踊のコラボレーションという雲を掴むような企画だった。人に紹介するにも難渋した。金利惠さんも一度話合いに参加し、その構想を語ってくれたが、具体的なものが想像できず、拝聴していたメンバーも些か困惑した表情だった。いたずらに日々が過ぎていく。うまくいくのか、開催できるのか。日韓の関係も戦後最悪と言われている。

そんな心配をよそに民族の団結や民族を超えた友情が作用した。チケットの売れ行きが上々であることが分かった時は全員ほっと胸をなで下ろした。最終的にチケットはほぼ完売。あとは当日混乱無く運営できれば大成功。

 

当日午後、無事この日を迎え心からの安寧を得た。開場前、期待と安堵の混じった気持ちで、会場のロビーから外を眺める。ホールのある九階の窓からは寒晴れの空のかなたに雪の御嶽山が輝いている。少し東に木曽の山脈。こちらも真っ白だ。普段はビルに埋もれてこうした山々を見ることはできない。

本番前、最後の打ち合わせで各自の役割などを確認しているうちに、寒晴れの空は徐々に暮れ、淡い闇が名古屋市千種区今池を包み始めた。ここ今池は戦後、焼け跡に闇市が立ち、民族が入り乱れるというカオスの中から出立した町だ。東西の交通の拠点として昼は会社や商店で賑わい、夜はやや癖のある飲み屋やライブハウスが林立する。この地で金利惠さんが舞うことの意味は、偶然の経緯ではあるが意味深い。いつしか窓外の白い山脈は漆黒の闇に沈み、ビルの灯りやネオンが瞬き始めた。

ロビーに溢れる開場を待つ人々を見ながら気を引き締める。人生初めてのチケットもぎりを担当することとなる。

 

開演

観客全員が席に着いたあと、密やかにロビーに現れた金利惠さん。客席後方のドアから入場するサプライズ演出のようだ。暗い会場に一条の光が舞手を射すと、会場には動揺と響めきが起こった。

 

杖鼓 (チャンゴ)は金利惠さんのご主人金德洙氏。韓国を代表するアーティストで、彼のことを知らない人は韓国にはいないという。時に優しく、時に激しく、舞に合わせ、舞を支え、舞と一体になって世界を構築していく。眼差しは慈愛一杯に舞手を見つめつつも厳しい。

「ぽんっ!」と空気を柔らかく切り裂く鼓の音。歌舞伎の囃子方仙波清彦氏の変幻自在な鼓が会場の空気をどんどん耕していく。太鼓の音が会場を一気に晴れの舞台に一変させる。金氏と仙波氏が互いの出方を見つつ緊迫感のあるジャズセッションを奏で舞台を盛り上げる。

柔和で上品な顔立ちの笛方、若い福原寛氏の澄んだ音色が会場に響き、その息吹が場内隅々まで染み通ってゆく。笛は呼吸そのものだ。聴く者の身体にイキを吹き込んでくる。

正歌(チョンガ)の女性は姜権洵さん。初めて聴く唱法だ。鈴を転がすソプラノのように美しい発声からさりげなくタンゴのカンテの嗚咽へシフト、一転してモンゴルのホーミーのような高声と低声を自在に操る力強く野太い声。実に不思議な発声であり、場内を感嘆させていた。

 

ユネスコ・アジア文化センター (ACCU)によると、韓国伝統舞踊サルプリチュムの動きには、オルヌムヒョン(控え目に緊張を解くこと)、メズムヒョン(感情を放出する前に一時的に呼吸を停止すること)、そしてプヌムヒョン(感情を放出して完全に緊張を解くこと)という三つの基本要素がある。また静中動(チョンジュンドン)すなわち静の全体環境の中に動がある。抑制された動作は、内なる感情や強い意志を反映し、その起源は古代に遡るとされる。

 

金利惠さんの舞。その身体は広く長い袂を広げると立方体(四角)、両手を天に伸ばすと円錐(三角)、回転すると球()になる。四角の安定、三角の方向、球の運動。視覚を通して観衆の気持ちを変転させる。音楽と伴に幾何学模様が会場を引き締め、観衆の感情を鼓舞する。美、哀切、喜び。間、静謐、豊穣。一挙手一投足が観客の身体に投影され細胞に漣が立つ。

 

 語るとき語らぬときも花の下

 ひらひらと夢に火照りぬ酔芙蓉

 鷄頭花胸の高さに佇ち炎ゆる

 旅人に風の峠の飛花落花

 

これら自作の俳句を朗詠し舞で表現する。言葉で世界を招聘し舞で世界を構築していく。

 

当夜の舞台で金利惠さんは胸の高さに抱いた深紅の鶏頭花を槌に持ち替えて砧を打った。砧は本来楽器ではない。洗濯物を鎚や棒で打って乾かしたり伸ばしたりする道具だ。衣板(きぬいた)が砧(きぬた)となったもので、鎚ではなく板のことである。

 

声澄みて北斗に響く砧かな 芭蕉

 

砧は秋の季語。古く前漢の蘇武の故事に繋がる。匈奴に捕われの身となった前漢(紀元前一〇〇年頃)の蘇武を心配する妻が夫の身の上を思いやり、砧を打って慰めたところ、その音が蘇武に届いたという中国の故事である。この故事は有名なもので、蘇武が雁の脚に手紙をつけて漢帝に送ったところから雁書の由来ともなっている。

 

 この故事に影響を受けたかどうか明確ではないが、藤原公任編集の「和漢朗詠集(一〇一三年頃)」に白居易の詩「聞夜砧」が掲載されている。

 

誰家思婦秋擣帛 月苦風凄砧杵悲

八月九月正長夜 千聲萬聲無了時

應到天明頭盡白 一聲添得一莖絲

 

秋の夜に女性が戦争に行った夫を思って砧を打つという漢詩である。この詩が蘇武の故事と結びつき、それを世阿弥が「砧」という能に仕立て上げたと言われている。

 

西より来る秋の風の吹き送れと間遠の衣打たうよ

夜嵐 悲しみの声、蟲の音、まじりておつる露涙、ほろほろはらはらはらといづれ砧の音やらん

 

 砧は韓国では一九七〇年代まで利用されていたようだ。中国、朝鮮半島、日本を繋ぐこの道具とそれに込められた思い。このテーマは金利惠さんの長年の課題だ。彼女の中には韓国と日本の歴史、社会、文化が混在している。さらにそれらを包摂するアジア文化圏。これらの象徴として砧は今後も表現されることだろう。

 

「俳舞」

「俳舞」は俳句の韻律や内容と舞や音楽とのコラボレーションという全く新しい試みだ。俳句は歌の一種である。歌は「(神に)訴う」が語源という説がある。感情や意思を言語にして訴えた。同様に、喜び、悲しみ、愛憎、祈りなどから自ずと身が動き出す。これが洗練され宗教儀式や芸術となったものがである。俳句も舞も、内面の感情や意思を言語あるいは身体動作として表現する。

金利惠さんは上演後のアフタートークで興味深いことを語っていた。「ひらひらと」は三拍子なのだという。あえて記述すれば「ひらひら○○」というリズムだろうか。それは韓国のリズムであり、伝統舞踊のリズムでもあるという。なるほど、言葉(俳句)も動作(舞)も彼女の内なるリズムから湧き上がってくるのか。だとすれば、言葉と動作を改めて融合させて「俳舞」としたのではなく、そもそも彼女の中で両者は本来一つのものなのかもしれない。

 

金利惠さんの企図はいったい何だったのだろうか、そしてそれはどこまで観衆に伝わっただろうか。俳句、舞、音楽全て完成されたレベルの高いものであったことは言うまでもない。洗練された舞や音楽が表現する美しさや切々たる思いは存分に伝わった。しかし、俳句朗詠と舞が生み出す重奏は内面世界の深みを十分表現しえただろうかと些かの疑問は残った。今回の目的はまさにここにあったはずだ。詩と異なり一瞬で終わる俳句朗詠。その言語世界と舞の綾なす世界、展開する美があるはずだ。そこが私には十分に見えなかった。しかし「俳舞」は端緒についたばかりの試みである。この新たな表現形態はさらに熟成していくことだろう。

 

エピローグ

慰労会はサービス精神旺盛で闊達なオモニの店で盛り上がった。

当夜を楽しみにしていた高校の後輩である観世流能楽師は最近俳句を始めたという。彼は賢治や中也をテーマにした新作能も創る精鋭である。賢治の「ひかりの素足」は死の世界と現世が交錯するまさに能の世界観に繋がる。彼は自らの世界を深め開拓しようという思いが金利惠さんと相通じたのだろう、すっかり俳舞の醸し出す世界と酒興に浸っていた。近い将来「俳能」などという試みも生まれるかもしれない。ここにもまた大きな世界が待ち受けている予感がある。私も酒杯を傾けながら様々な熾火の仄めきを確信して長い一日を終えた。

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俳句とからだ 165 K高校文芸部へ

連載俳句と“からだ” 165

 

愛知 三島広志

 

 句集『天職』を上梓した。K高校文芸部の生徒さん達が感想文を送って下さったのでその礼状を書いた。以下に紹介する。

 

K高校文芸部へ

世界中を新型コロナウイルスの猛威が席巻し、安穏とした日常生活を営むことが出来ません。高校も進級、新学期という時期なのに学校へ通うことが出来ず残念でしょう。しかも俳句甲子園も地区大会は中止だそうです。予選大会中止は2011年の東北大地震に続いて二度目のことでしょうか。私はおよそ十年間、俳句甲子園の審査員をさせて戴きました。K高校文芸部の皆様は愛知県の牽引者であり、全国でも一目置かれる存在です。準優勝が三回でしたか? 最優秀作品も二名輩出しています。今年もしっかり勉強され、大会に向けて良い句を作り、解釈と鑑賞のディベートを磨いてください。

相手の句を素直に読み、理解し、映像化する。これが解釈です。次に自分の知識や経験、想像力で鑑賞して世界を広げる、これを鑑賞といいます。いずれも相手へのリスペクト、俳句へのリスペクトが基本になります。良い句に出会えた感謝、さらに良い句にする鑑賞。想像と創造。これらを言語化するのがディベートです。おおいに楽しんでください。

 

拙句集から以下の句を選んで下さいました。ありがとうございます。

黒南風やいつも自分にせかされて

 手袋がそつと迷子の頬を撫で

 三日月や家路に崩れ雪だるま

 地下鉄の冬あたたかき木霊かな

 この国のこの町のこの櫻かな

 初夢のはじめ分からぬ旅衣

 木の実降る村に一戸の何でも屋

 

私も高校生から俳句をぽつぽつと始め、かれこれ五十年経ってしまいました。感性はすっかり錆びついています。ただ日々折々、ふっと胸中や脳裏を掠める感興を捕まえて句にすることで人生を豊にしています。

 

今のような非常時、命を支える食料、医療、交通、流通、介護、水道、電気、ガスなどをEssential business(必須事業)といいます。これは生物としてのヒトの棲息を維持するものです。しかしヒトは社会的人間となります。この人間にとって必要なもの、それが文化です。文学や美術、音楽などの芸術もそこに入ります。

 

私達は生物としてのヒトとして産まれ、社会的歴史的生物のとなります。そして皆と共存する人間となります。これは教育のお陰です。時間と空間つまり歴史と社会を認識した生物を人間というのです。人間の住むところが世間ですね。皆、という字がつくのは関係性の中に生きているということなのです。文学を通して過去の人たち、未来の人々、そして今を生きている仲間と交流し、一度しかない人生を深く、楽しく築いて下さい。その一つの手段が俳句です。     (冒頭末尾の挨拶省略)

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俳句とからだ 164 千秋楽

連載俳句と“からだ” 164

 

愛知 三島広志

 

千秋楽

2019年末、世界は新型コロナウイルスに襲われた。

社会の基盤をなすessential business(必須業務)である交通・流通、医療機関、食料品店、薬局などと、それ以外のnonessentialな業務が峻別された。たとえば飲食業、芸術・芸能の公演、スポーツ大会、遊園地などは業務を停止した。

私が参加を予定していた勉強会や会合なども全て取り止めとなった。私自身も仕事を完全に休むことにした。鍼や指圧などの施術は長時間密接することとなる上、自分も含めて対象には高齢者や疾患のある方が多い。このような非常時、医業類似行為とはいえ救命に直結しない分野なのだからessentialではなかろう。他国もほぼ同様の見解である。

ヒトという生物を生息させるために最低限必要な業務がessential businessである。対してヒトを人たらしめるのが不要不急の文化的業務だろうか。

 

生物内でしか棲息できないウイルスの感染を防止するには、人との接触を避けざるを得ないが、それは不可能だ。そこで感染予防措置としてマスク、手洗いやうがいが重要となる。そのため世の中からあっという間にマスクや消毒液が消えていった。

暗い世相を元気づけようと、歌手や俳優などが手洗いの啓蒙のためインターネット上に動画を盛んに流し始めた。

高校の後輩で観世流能楽師の中所宣夫氏。この連載の第53回に彼の創作能『光の素足』について書いた。金利恵さんの俳舞の鑑賞にも来ていた。そんな彼がSNSに愉快な動画を上げていた。

「娘から来たネタ。手洗い20秒の目安に『高砂』の「千秋楽」が良いというのでやってみました。悪魔を祓い寿福を招きます。皆さんも是非やってください。」というコメントがある。

 

千秋楽は民を撫で 万歳楽には命を延ぶ 相生の松風 颯々の声ぞ楽しむ 颯々の声ぞ楽しむ

 

ほぼ30秒、石鹸で手を洗いながら謡っている。動画を観ながら「誰が謡えるかい!」と爆笑した。

 

 時代劇の祝言で必ず謡われる『高砂』は、「高砂や この浦舟に帆を上げて 月もろともに出潮の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はや住吉に着きにけり」が有名だが、これは五つの小謡の四番目だ。そして五番目がこの「千秋楽」である。付祝言として用いられることも多く、相撲や演劇の「千秋楽」の由来とされる。

 

この「千秋楽」を謡いながら手を洗う映像は文化のもつessentialな何かを届けてくれた。逃れるべくもない世界的な艱難の中にありながら、彼は自身を以て、ヒトを人となす文化の底力を示していた。

 

蟻地獄ただ松風を聞くばかり

 高野素十

 

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俳句とからだ 163 The War of the Worlds

連載俳句と“からだ” 163

 

愛知 三島広志

 

The War of the Worlds

 「The War of the Worlds」(1898)は英国人作家HG・ウェルズ(1866-1946)の名作。邦題は『宇宙戦争』である。何度も映画化されており誰もが知っている作品だろう。何よりタコの姿をした火星人のイメージを定着させたのがこの作品だ。ウェルズはフランスの小説家ジュール・ベルヌ(1828-1905)と比肩されるSF作家である。ベルヌは『月世界旅行』『海底二万里』「八十日間世界一周』などで知られる。対してウェルズは『タイム・マシン』や『透明人間』が有名である。ベルヌは科学に忠実であり、ウェルズは思想を述べるために科学的誤謬を恐れなかったとされている。

 

 邦題『宇宙戦争』の原題は「The War of the Worlds」であり、直訳すると世界と世界の間の戦争となる。宇宙は出てこない。これは地球人類世界と火星人類世界の戦争ということで、このタイトルにもウェルズの思想が感じ取れる。

 

秋刀魚焼く真上あかるき火星かな

仙田洋子

 

今、何故にこの作品を取り上げたのか。それは新型コロナウイルスで騒然とし、また規制により深閑とした社会状況に由来する。この作品の結末をご記憶だろうか。移動手段はまだ馬車が主流という地球へロケットで征服に来る火星人。遙かに進んだ科学技術を駆使する獰猛な火星人から人類を護ったのは意外な事実だった。暴れ回っていた火星人が卒然と死に絶える。

 

「腐敗菌と、バクテリヤによる病のために、 生命を失っていた。かれらの肉体は、これらの細菌にたいして、抗性をそなえていなかった。(H・G・ウェルズ/宇野利泰訳)」

 

 『宇宙戦争』が発表されたのは1898年。細菌は1676年、オランダ人レーウェンフックによって顕微鏡で発見。微生物の存在が明らかにされた。さらに細菌感染により病気に罹患することが分かり細菌学が生まれたのは1876年、ドイツ人学者コッホの炭疽菌発見による。『宇宙戦争』が世に出る22年前のことだ。ウェルズは当時の最新の医学を用いてこのストーリーを展開し、どんでん返し的結末を描いたのだ。

今回の新型コロナウイルス騒動で中学時代に読んだSF小説が急に想い出され読み返した。かなりリアルに記憶しており驚いた次第。しかし専門家の意見では異星人の体内で地球のバクテリアなどが簡単に増殖はできないようである。

 

ウイルスは細菌とは異なり1935年、電子顕微鏡で可視化された。ウイルスは細菌と異なり組織内に器官を持たず自己増殖が出来ないため、他の生物に入り遺伝子を複製する。そこで非細胞性生物とか非生物と呼ばれる。当然、HG・ウェルズはウイルスの存在を知らない。

 

月明や沖にかゝれるコレラ船 

日野草城

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俳句とからだ 162 四季と漢方

連載俳句と“からだ” 162

 

愛知 三島広志

 

四季と漢方

 本日は立春を数日過ぎた二月十日である。皮肉なことに名古屋は今日がこの冬で最も寒く、午前中初雪がちらついた。暦では立春・立夏・立秋・立冬をまとめて四立という。これらは四季の始まりを表す。さらにその中間点が冬至・夏至・春分・秋分で、それらをまとめて二至二分と呼ぶ。四立と二至二分を合わせると八節となり、さらに細分化されて二十四節気七十二候となる。太陽太陰暦では暦と季節に齟齬が生じないよう二十四節気を定めておりその基点となるのが冬至である。地球の地軸は23.4度傾いたまま太陽を回っている。地軸の傾きによる太陽光入射角の差が四季を生む。地軸が太陽方向に傾いている(北極が太陽を向く)と夏至、その逆が冬至となる。

 

立春の星の出揃ふ海の上   岡本眸

 

 日本は緯度により四季がほぼ四等分となる。夏と冬では気温に大差があるため古来生活様式を順応させてきた。四季と調和を取ることで健康に暮らす思想と実践が漢方医療である。人類が火を得た時から寒さを凌ぐ術は身につけた。しかし暑さを調整する冷房の一般化はここ半世紀のことだ。そこで日本の伝統家屋は夏向きに出来ている。床を高くして風を通し、天井も空気の循環をよくして夏の暑さや湿気対策とした。打水や簾、風鈴などの工夫もした。しかし今日の冷房のように自然に対抗して室温を下げることは不可能だった。自然の前に無力な人々は四季に身体を和することで生き抜いてきた。その思想のひとつが前述した中国発祥の漢方医療だ。祖先はこの思想を日本風にアレンジしながら養生のための生活様式を考えてきたのだ。

 

 漢方とはその名の通り漢(中国)から朝鮮半島を経由して伝来した医療だ。仏教とほぼ同じ頃日本に伝わり、平城京(701)では医、鍼、按摩、薬等が役職として大宝律令(養老令)の医疾令に記されている。その思想の根本は天人合一であり、治未病である。天人合一は天(環境)と人(身体)を調和させるという意味だ。古典には治未病(予防)するための四季折々の過ごし方も書かれている。「春 万物発生、遅寝早起早朝散歩、意欲発揚。 繁栄華美、万物花咲実、早起、愉快不怒気。 成熟結実、早寝早起、平静保持。 陽気潜伏、結氷凍裂、早寝遅起 日照起床、意思潜隠、不汗守陽。」 

『黄帝内経』「素問:四気調神大論篇」

 

古典には四季により天地の気の巡りが変化するので、それに合わせて生活様式や感情を制御するように示されている。自然の道を外れると病気になるというのだ。自然随順の思想こそが漢方の根本であり、今日のように文明の利器による環境への働きかけは不可能だった時代の知恵だ。そしてその神髄は今日でも活用可能だろう。

 

立秋の紺落ち付くや伊予絣  夏目漱石

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俳句とからだ 161 銀輪随想

連載俳句と“からだ” 161

 

愛知 三島広志

 

銀輪随想

 自転車を籠や泥よけの無いものに換えた。速度は出るが路面が汚れていると泥が背中に降りかかるし、リュックを背負わないと荷物が運べない。しかし、自転車にはそうした不便さを超える楽しさがある。そもそも自転車は筋力を最も有効利用する移動手段だ。速度も運搬力も歩行より遙かに優れている。自動車など動力を用いる移動体と比較すれば劣るがそれとは異なる魅力がある。まず筋力を使う。自分の脚を軋ませ、腕でハンドルを引き寄せながら移動する身体的快感がある。また身体が剥き出しなので常に季節を感じることが可能だ。春風を喜び、夏の熱気に生命を感じる。秋風が身体を通り抜け、凩に闘志を燃やす。

 さらに自転車は曲がるとき車体と身体を傾ける。その時、重力を味わうことが出来る。コーナーリングで傾く(Lean)乗り物は二輪車と飛行機だけだ。自転車は季節と重力を感じながら町を移動できる実に楽しい乗り物なのだ。

 

 自転車は銀輪ともいう。この輪を外して転がす遊びを輪回しと呼ぶ。私が子どもの頃、安全な道で輪回しをして遊んだことがある。タイヤを外した金属の輪(Rim)に棒を当てて転がして走るのだ。この遊びの原点は知らないがイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコの有名な『通りの神秘と憂愁』という絵画の中で少女のシルエットが輪回しをしている。左半分は明るいギリシャ的建物、右側は暗い影の建物と空の運搬車。その間の明るい道の果てに待ち受ける怪しい人と棒の影。光と影からなる印象的な抽象画だ。鑑賞者には輪回しをしている少女の未来に対する不安が伝わってくる。

 また小川未明に『金の輪』という小品がある。太郎という病弱な子が道ばたに立っていると見知らぬ少年が輪回しをしながら走って行く。輪は光を受けて金色に輝き触れ合うとき良い音を立てる。太郎は少年から輪を一つ貰って一緒に走る夢を見るが程なく死んでしまうという暗い物語だ。

 

キリコも未明も何故輪回しなのか。キリコの絵は未来に暗い影が待ち受け、太郎はあっさりと死んでしまう。しかし輪は転がる。転がるとは死と再生の象徴でもある。釈迦の教えは法輪と呼ばれ後世に伝えられ、チベットでは経典の書かれたマニ車(転経器)を回転させ釈迦の教えに迫ろうとする。寺や墓地などには車卒婆や地蔵車と呼ばれる回転体があり、これを回すことで祈り、祖先を偲ぶ。回転とは永遠に対する畏敬なのだ。古代エジプトの人々が神聖視したスカラベ(フンコロガシ)もまた糞を丸めて転がす様が生成や再生のシンポルとされた。

 自転車を漕ぐ行為にそのような意味付けは無用だが、車輪を回転することで移動し、常に生成、創造、再生の輪の中にあるという深層的な感覚はあるのだ。

 

 銀輪を駆るや耳介の虎落笛 広志

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俳句とからだ 160 羅須地人協会

連載俳句と“からだ” 160

 

愛知 三島広志

 

羅須地人協会

NHKの人気番組「ブラタモリ」でタモリさん達が岩手県花巻市をブラブラしていた。花巻農業高校で微笑んでいる。黒板には「下ノ畑ニ居リマス 賢治」と書かれている。

 

45年ほど前になるだろうか、二度その地を訪れたことがある。一度目は電車で訪ねた。その黒板と対峙し静かで豊穣な時間を過ごした。  

その建物は元々宮澤家の別宅で、宮沢家から2キロほど離れた地にあった。花巻農学校の教師を辞した賢治は、農村の若者を対象に科学や芸術などを指導する私塾として、そこで羅須地人協会を開始した。30歳の時である。1926(大正15)8月から翌年3月という予想外に短い期間だったのは、時局柄活動が社会主義ではないかと警察が入ったからだ。1928年に賢治が病に倒れ実家で療養に入ったため、以後活動は途絶した。

賢治の父は、賢治没後この別宅を売却した。早世した賢治や「永訣の朝」の詩で知られる妹トシの思い出が辛かったのかも知れない。その建物は移築されたが、後に花巻農学校は花巻農業高校となり、その新設時に偶然にも、その敷地内となった。少なからず因縁話めいている。

 

元々この別宅のあった場所には、高村光太郎揮毫による「雨ニモマケズ」詩碑が建立されている。私はこの詩碑の辺りを散策した後、花巻農業高校へ移動し、黒板に書かれた賢治の実弟清六氏が書いた「下ノ畑ニ居リマス 賢治」という字を眺めていた。風の透明感と緑が印象的だった。そこで以下の句を詠んだ。19歳の夏。

 

蝉時雨詩の碑の冷たさよ

岩手には岩手の言葉閑古鳥

 

 二度目は3年後、単車で向かった。交通の便が余りにも悪く行動が制約されたからだ。かつて別宅のあった近くに「民宿わらべ」という宿が出来ていた。宿泊を乞うと満室だと言う。するとその宿の子どもが終業式を終えて帰宅した。「あのバイク、お兄ちゃんの?泊まる部屋が無いなら僕の部屋に泊まれば」。人懐こい少年の機転で宿を得ることができた。「何しに来たの?賢治先生の勉強?だったら清六さんに会えばいいよ。仲良しだよ」何たる幸運。宿の主から清六氏を紹介されて賢治の実家を訪問し、仏壇へ参り、胡桃の化石など貴重な資料を見せて頂いた。

出立の朝、色紙を書いたから取りに来いとのこと。色紙には「原体剣舞連」とあった。出会いの妙とはこういうことなのだろう。先の因縁話を引き継ぐならまさに賢治の導きとも思える。清六氏とは、それから亡くなられるまで年賀状や手紙のやり取りをしていただいた。

 

 花はみな四方に贈りて菊日和 風耿

(風耿は賢治の俳号)

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