連載俳句と“からだ” 126
連載俳句と“からだ” 126
愛知 三島広志
原石鼎
高校生の頃、俳句に興味をもって山本
健吉の『現代俳句』を手にした。そこに
選出された作家とその俳句を読み進める
中で特に関心を抱いたのが原石鼎であっ
た。おそらく初学の者にとって石鼎の色
彩感覚や身体感覚は親しみやすかったの
だろう。ある意味素人っぽいのだ。
青天や白き五弁の梨の花
秋蝶のおどろきやすきつばさかな
まるで少年が詠んだかのような素直な
句である。梨の句の色彩感覚は石鼎の特
徴とされているが青空と白い五弁の花び
らのあまりに単純な対比。この児戯じみ
た詠み振りは潔い。同様に秋の蝶の儚さ
を驚きやすい翼と表現する感覚の繊細さ
。石鼎の身体感覚が言語化され、それに
読者の身体が反応するようだ。
山の色釣り上げし鮎に動くかな
蔓踏んで一山の露動きけり
釣り上げた鮎の激しい身震い。露を踏
んだ一歩。この僅かな動きが山全体を動
かすように感じる皮膚感覚は憧憬的であ
る。日々の仕事や生活に鈍磨した身体感
覚では詠めない句であろう。類想的にま
ねをすることは出来るかもしれないが、
身体の奥から湧き上がる言語とはならな
い。
風呂の戸にせまりて谷の朧かな
高々と蝶こゆる谷の深さかな
これらの句は自然の雄大な距離感を身
体で感じている。朧の句は風呂に迫り来
る朧を描くことで大いなる谷を想像させ
ることに成功している。同様に蝶の句で
は高く飛ぶ蝶に読み手の視点を上向けさ
せておいて真逆の視線で谷底を感じさせ
る。これらは決して構成を意図したもの
ではあるまい。石鼎が身体感覚のままに
捉え、表現したものである。
淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守
山国の闇恐ろしき追儺かな
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月
実体験の中で感じ取った世界は時空を
超えて感動を生み出し続ける。しかし真
の暗闇を知らぬ現代人には理解できない
深さがある。山に住む祖父を訪れたとき
提灯の灯りが却って闇を深めたという幼
いときの記憶がある。もはや闇を知らぬ
現代人には本当の月光も見えないだろう
。
「ホトトギス」大正三年一月号で石鼎
は虚子によって前田普羅と並び称された
。「大正二年の俳句界に二人の新人を得
た。曰、普羅。曰、石鼎」。以下は前田
普羅の代表句。
雪解川名山けづる響かな
奥白根かの世の雪をかがやかす
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