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2020年1月22日 (水)

俳句と“からだ” 123 愛知 三島広志 百の蝶

連載俳句と“からだ” 123
愛知 三島広志
百の蝶
 藍生会員の高浦銘子さんが句集『百の
蝶』を上梓された。『水を利く』『水の
記憶』に続く第三句集である。一読、端
正で静謐ながら対象の内面に迫る上質な
感性を感じた。
星深く沈めてしづかなる泉
手袋の手が触れてゆく夜の窓
あをぞらの奥のあをぞら十二月
木のみどり風のまみどり端午なる
後半の二句には同じ言葉が繰り返されて
いるが実際には異質なものが表現されて
いる。あおぞらとその奥のあおぞらは質
的に同じではない。
 この庭のどこも日向や小鳥来る
 秋の蝶載せてしづかな石となり
 あたらしき月のぼりくる野分あと
いずれも穏やかな表現だが作者の思いが
対象を覆い尽くしている。
集中、三つの言葉に関心を抱いた。「
こころ」「百」「一」である。
一般に俳句はものを通してこころを詠
むがそこに「こころ」という言葉は出て
こない。しかし、この作者は生硬に「こ
ころ」と直接表現しこころを実態のある
もののように詠もうとしているようだ。
かきつばた人を離れてゆくこころ
鵙のこゑ何にこころの急かさるる
冬の蝶こころの庭に遊ばせて
白露とふことばこころにころがしぬ
このように表現されると「こころ」が手
で持てるように感じられるではないか。
作者はひろい世界全体を百と把握し、
中心を一と捉えているようだ。句集のタ
イトル『百の蝶』である。もちろん実際
に百頭の蝶がいたわけではない。
ひとつひとつ違ひて百の秋の蝶
蝶一般を百の秋の蝶と総体的に見ると同
時に一頭の存在にも思いを寄せている。
作者の知性の中で、ある現象に対して総
論的理解と個別的理解が即時に行われて
いるのだろう。掲句は一と百が同時に詠
まれているが、以下の句のように一方だ
けが詠まれていても双方が内在している

眼の中に百の椿のふぶきけり
秋の灯のひとつ祈りの灯となしぬ
霜夜なる一書に美しき蔵書印
以下の句からは時間の流れへの関心の
深さを読み取った。一刻の変化が悠久の
時の流れに繋がるようだ。
  角砂糖角より崩れ百千鳥
  息吸つて夜のゐもりとなりゆけり
 山の端の暮れかねてゐる螢かな

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