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2020年1月23日 (木)

連載俳句と“からだ” 153

連載俳句と“からだ” 153
愛知 三島広志
牛後 純粋経験と描出
 鈴木牛後さんが2018年第64回角川俳句
賞を受賞された。北海道の広大な土地で
酪農を営む牛飼い俳人の活躍は俳壇を超
えて大きな反響を巻き起こした。大手全
国紙も一面のコラムで取り上げ牛後さん
の存在を広く知らしめた。タイミング良
くNHKの朝のドラマも北海道の酪農一家
が舞台で、その光景が映し出される度に
牛後さんを思い起こすのは筆者だけでは
あるまい。
かげろふに濡れて仔牛の生まれ来る
彼の俳句は上手いだけでなく読み手に
強く訴えてくる。北海道の大自然と牛、
一般に体験することのない酪農という生
業が、俳句として言語化され読み手の身
体に共鳴し、あたかも一緒に体験してい
るかのように感じられる。
 広大な土地で牛の世話をして暮らして
いる彼にすれば、遠景の陽炎と眼前の仔
牛は日常の一コマであろうが、距離的対
比として技巧的である。しかし、技巧を
超えて内在する詩的表現があればこそ、
読み手も共に「生まれ来る」仔牛を待ち
望み祝福することができる。
牛死せり片眼は蒲公英に触れて
 牛後俳句の魅力は彼と対象の関係が直
接であり、言葉が作為的でないことだろ
うか。「純粋経験」という概念がある。
西田幾多郎は『善の研究』において「純
粋経験は直接経験と同一である。自己の
意識状態を直下に経験した時、未だ主も
なく客もない、知識とその対象とが全く
合一している。これが経験の最醇なる者
である」としている。  
牛の死もまた彼には日常の一部であろ
う。その「見る主観もなければ見らるる
客観もない」純粋経験のありようが示さ
れ、詩は精巧な言葉として豊かに顕現す
る。事象の純粋経験を言語的に描出する
ことが、牛後俳句の本質と思われる。
歴史には空白のある根雪かな
無論彼を稀有な環境にある秀逸な才能
として只管称揚して私自身を満足させる
ことは戒めなければならない。「角川俳
句賞受賞のことば」において、北海道を
襲った大地震後の長い停電によって「頭
のなかのかなりの部分を占めていた俳句
がやすやすと追い出され」たと吐露し「

俳句と生活が私のなかで不可分に結びつ
いているなどとは軽々しく言えないとい
うことを、私に知らしめることとなった
」と述べている。  
彼は実に冷静に自身を俯瞰している。
自分と俳句の関係、同時に読者が彼に何
を期待しているのかをも。
満月を眼差し太き牛とゐる
(文中の句は全て鈴木牛後作)

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