連載俳句と“からだ” 150
連載俳句と“からだ” 150
愛知 三島広志
子どものまねく 高田正子集
作品と作者は不即不離であると同時に
相対的に独立もしている。作品は作者の
知識や経験、想像力から生み出される。
作者から絶対的に独立することはない。
作品は作者と直接して生まれ、その媒介
によって読者を作者の世界へ招き込む。
さらに作品と作者は相互浸透して作者自
身も自らの作品から影響を受けることと
なる。この構造は作者も読者も共に巻き
込みながら作品をより豊穣かつ重層的な
ものとして生成し続ける。
手元に『自註現代俳句シリーズ・高田
正子集』(俳人協会)がある。高田正子の
句は静謐で平明という印象が強い。
大寒の天の一角昏れあます
大学のゼミ演習で俳句と出会った作者
が演習ではなく「自発的に作った最初の
句」であると自註にある。古格を踏まえ
た堂々たる一句だ。
しかしそこに作者は留まらない。こう
した骨太の輪郭を消してみせるところに
彼女の句の魅力がある。一見平易な句の
中に読みを複雑にさせる構造があるのだ
。
蟬の殻うすうすと風抜けにけり
あをぞらのゆつくりうごく小春かな
蟬の殻の句、うすうすは蟬の殻か、風
か、抜け方か、否、それら全てか、さら
に作者や読者も含まれるのか。句の中に
こうしたさりげない謎が隠れている。あ
をぞらの句も同様にゆっくり動くのが青
空か小春かあるいは作者か、揺らぐ表現
の中で読者がゆっくり動かされる。
花の散るはじめのひとひらかもしれぬ
それぞれの灯にみんなゐる夜の秋
上記の句は虚子の「咲き満ちてこぼる
る花もなかりけり」や青邨の「人それぞ
れ書を読んでゐる良夜かな」に影響され
たものだ。彼女の句作りにはしっかりと
歴史を踏まえる内面の勁さがある。閑か
に燃える精神で俳句と対峙している。こ
れは俳人として俳句の歴史の中に立ちつ
つ作品世界を構築しようという俳人とし
ての矜恃だろう。これが作者の世界をよ
り重層的に見せている。
高田正子を語るときどうしても避けら
れないことがある。それは以下の句に読
み取れる。子を亡くすという悲痛な体験
が彼女の目差を常に重層化していると考
えられる。作者の意図を離れ表層の意味
と同時に別の世界を垣間見せてくるのだ
。冒頭に述べた作者と作品の直接がある
。
みのむしのごとく眠りぬ子の亡くて
しのびつつ子の来る音の落葉かな
灯せば人還りくる桜かな
向こうより子どものまねく茅の輪かな
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