« 連載俳句と“からだ” 149 | トップページ | 連載俳句と“からだ” 151 »

2020年1月22日 (水)

連載俳句と“からだ” 150

連載俳句と“からだ” 150
愛知 三島広志
子どものまねく 高田正子集
 作品と作者は不即不離であると同時に
相対的に独立もしている。作品は作者の
知識や経験、想像力から生み出される。
作者から絶対的に独立することはない。
作品は作者と直接して生まれ、その媒介
によって読者を作者の世界へ招き込む。
さらに作品と作者は相互浸透して作者自
身も自らの作品から影響を受けることと
なる。この構造は作者も読者も共に巻き
込みながら作品をより豊穣かつ重層的な
ものとして生成し続ける。
 手元に『自註現代俳句シリーズ・高田
正子集』(俳人協会)がある。高田正子の
句は静謐で平明という印象が強い。
 大寒の天の一角昏れあます
大学のゼミ演習で俳句と出会った作者
が演習ではなく「自発的に作った最初の
句」であると自註にある。古格を踏まえ
た堂々たる一句だ。
しかしそこに作者は留まらない。こう
した骨太の輪郭を消してみせるところに
彼女の句の魅力がある。一見平易な句の
中に読みを複雑にさせる構造があるのだ
。  
蟬の殻うすうすと風抜けにけり
 あをぞらのゆつくりうごく小春かな
蟬の殻の句、うすうすは蟬の殻か、風
か、抜け方か、否、それら全てか、さら
に作者や読者も含まれるのか。句の中に
こうしたさりげない謎が隠れている。あ
をぞらの句も同様にゆっくり動くのが青
空か小春かあるいは作者か、揺らぐ表現
の中で読者がゆっくり動かされる。
花の散るはじめのひとひらかもしれぬ
それぞれの灯にみんなゐる夜の秋
 上記の句は虚子の「咲き満ちてこぼる
る花もなかりけり」や青邨の「人それぞ
れ書を読んでゐる良夜かな」に影響され
たものだ。彼女の句作りにはしっかりと
歴史を踏まえる内面の勁さがある。閑か
に燃える精神で俳句と対峙している。こ
れは俳人として俳句の歴史の中に立ちつ
つ作品世界を構築しようという俳人とし
ての矜恃だろう。これが作者の世界をよ
り重層的に見せている。

高田正子を語るときどうしても避けら
れないことがある。それは以下の句に読
み取れる。子を亡くすという悲痛な体験
が彼女の目差を常に重層化していると考
えられる。作者の意図を離れ表層の意味
と同時に別の世界を垣間見せてくるのだ
。冒頭に述べた作者と作品の直接がある

 
みのむしのごとく眠りぬ子の亡くて
しのびつつ子の来る音の落葉かな
 灯せば人還りくる桜かな
 向こうより子どものまねく茅の輪かな

|

« 連載俳句と“からだ” 149 | トップページ | 連載俳句と“からだ” 151 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 連載俳句と“からだ” 149 | トップページ | 連載俳句と“からだ” 151 »