連載俳句と“からだ” 146
連載俳句と“からだ” 146
愛知 三島広志
菱の実
藍生編集部のF氏はひょんの実に詳し
い。採取して磨いては人に献上されてい
る。ひょんの実は蚊母樹(いすのき)に出
来るオカリナのような形をした虫癭(ち
ゅうえい)だ。虫の刺激で植物の組織が
異常な形になったものを虫癭という。虫
の出た後の穴に息を吹き込むとヒューと
いう音が鳴るのでひょんの笛とも呼ばれ
る。蚊母樹は自分の近隣にもあるだろう
と公園に尋ねると場所を教えてくれた。
確かにそれらしき物があった。秋になっ
て再訪すると小さなひょんの実を一つだ
け見つけることができた。洗って乾かし
ているうちにふとある記憶が甦った。そ
れはひょんの実ではなく菱の実だ。
ひよんの実は涙のかたち吹けば哭く
深津健司
子どもの頃、農村部の公団住宅に住
んでいた。無機質な公団住宅に比して
農村部は魅力的だった。ある日同級生
が「〇〇工場の池で菱の実を採ろう」
と誘ってくれた。菱の実が何かを知ら
ないままついていくと水面一杯に大き
な萍の様な植物が浮いていた。よく見
ると黒い物があちこちに浮いている。
この植物が菱でその黒いのが菱の実だ
という。確かに葉は菱形をしている。
池に落ちないように手を伸ばして実を
取ると堅くて黒い棘のある奇妙な形を
している。翼を広げたコウモリのよう
でもあるしサタンの顔とも思える。気
をつけないと棘が掌を刺す。同級生達
は持ち帰って茹でて食べるというが私
はその不気味な形態が気に入って幾つ
か持ち帰り干して保存した。
うごかざる水の月日の菱を採る
佐野良太
その後、菱のことは忘れていた。し
かし時折ふとこの菱採りを想い出すこ
とがある。三十歳の頃「菱の実や時を
豊かに少年期」という句を作ったりも
した。菱は少年時代を想起するトリガ
ーになっているのか。ひょんの実を手
にしながらどうしても菱の実が気にな
って先日採りに出かけた。インターネ
ットで郊外の大学病院近くの池にある
ことが分かった。片道数十分の距離で
ある。バスを降り、墓域を下ると直ぐ
に右手に池が見えた。水蓮が群れてい
た。五位鷺が舞った方を見ると菱形の
葉が無数に浮いている。池の端へいく
と小さな花が咲き、何かが浮いている
。手に採ると記憶のままの黒い悪魔が
刺さる。思っていたよりもかなり小さ
い。子どもの掌の中の記憶なのだから
当然だ。茎を手繰り寄せて三十も集め
たところで堪能し帰路についた。忘れ
物を手にしたような安堵感と共に。
菱の実よわが少年の日の我よ
三島広志
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