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2020年1月22日 (水)

連載俳句と“からだ” 135

連載俳句と“からだ” 135
愛知 三島広志
64歳
 年が明け気がつくと64歳になっていた
。元日の生まれなのだ。この年になって
も気持ちはまだまだ若いつもりだが身体
はそれなりに経年劣化し、外見も年相応
に輪郭が緩んできている。
60歳と言えば論語でいうところの耳順
である。
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四
十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、
七十而從心所欲、不踰矩
志學、而立、不惑、知名、耳順、従心と
それぞれの年齢に応じた人格を持てとい
う孔子の教えだ。耳順は人間60歳になれ
ば修養がすすみ、聞くところ、理にかな
えば何ら障害無く理解出来るという意味
だ。臍曲がりで理屈をあれこれ述べる自
分には遠い境地である。
64歳という年齢は嫌いではない。何故
ならThe Beatlesに「When I'm sixty-
four(64歳になっても)」という名曲が
あるからだ。
When I get older losing my hair
Many years from now
Will you still be sending me a
Valentine 
Birthday greeting, bottle of wine
妻(恋人?)に対して64歳になっても僕
を必要としてくれるかい(Will you
still need me When I'm sixty-four)
と問いかける。若者が遠い将来を思って
歌うLOVE SONGだ。そしてその時は当然
恋人も年老いている。
You'll be older too
なんとも微笑ましいではないか。
 ところが井上陽水に「人生が二度あれ
ば」という65歳と64歳の両親を思いやる
息子の歌がある。The Beatlesの歌と同
じ年齢だが全く異なる歌となっている。
父は今年二月で六十五/顔のシワはふえ
てゆくばかり/仕事に追われこのごろや
っとゆとりが出来た//父の湯飲み茶碗は
 欠けている/それにお茶を入れて飲ん
でいる/湯飲みに写る自分の顔をじっと
見ている/人生が二度あれば この人生
が二度あれば

 ここに詠まれているのは人生にくたび
れた老人の姿でしかない。自分がその年
齢になってみると決して人生は欠けた茶
碗とも思わない。だが若い世代から見る
と六十代は人生に疲れ、たんたんと日々
を費やしているように思えるのかも知れ
ない。確かに自分もそのように親や祖父
母を見ていたと記憶する。同じ年齢も見
方によってかくも異なるのは面白い。
 紫陽花の老残に雨降り止まず 広志

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