連載俳句と“からだ” 135
連載俳句と“からだ” 135
愛知 三島広志
64歳
年が明け気がつくと64歳になっていた
。元日の生まれなのだ。この年になって
も気持ちはまだまだ若いつもりだが身体
はそれなりに経年劣化し、外見も年相応
に輪郭が緩んできている。
60歳と言えば論語でいうところの耳順
である。
子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四
十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、
七十而從心所欲、不踰矩
志學、而立、不惑、知名、耳順、従心と
それぞれの年齢に応じた人格を持てとい
う孔子の教えだ。耳順は人間60歳になれ
ば修養がすすみ、聞くところ、理にかな
えば何ら障害無く理解出来るという意味
だ。臍曲がりで理屈をあれこれ述べる自
分には遠い境地である。
64歳という年齢は嫌いではない。何故
ならThe Beatlesに「When I'm sixty-
four(64歳になっても)」という名曲が
あるからだ。
When I get older losing my hair
Many years from now
Will you still be sending me a
Valentine
Birthday greeting, bottle of wine
妻(恋人?)に対して64歳になっても僕
を必要としてくれるかい(Will you
still need me When I'm sixty-four)
と問いかける。若者が遠い将来を思って
歌うLOVE SONGだ。そしてその時は当然
恋人も年老いている。
You'll be older too
なんとも微笑ましいではないか。
ところが井上陽水に「人生が二度あれ
ば」という65歳と64歳の両親を思いやる
息子の歌がある。The Beatlesの歌と同
じ年齢だが全く異なる歌となっている。
父は今年二月で六十五/顔のシワはふえ
てゆくばかり/仕事に追われこのごろや
っとゆとりが出来た//父の湯飲み茶碗は
欠けている/それにお茶を入れて飲ん
でいる/湯飲みに写る自分の顔をじっと
見ている/人生が二度あれば この人生
が二度あれば
ここに詠まれているのは人生にくたび
れた老人の姿でしかない。自分がその年
齢になってみると決して人生は欠けた茶
碗とも思わない。だが若い世代から見る
と六十代は人生に疲れ、たんたんと日々
を費やしているように思えるのかも知れ
ない。確かに自分もそのように親や祖父
母を見ていたと記憶する。同じ年齢も見
方によってかくも異なるのは面白い。
紫陽花の老残に雨降り止まず 広志
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