« 連載俳句と“からだ” 150 | トップページ | 連載俳句と“からだ” 152 »

2020年1月23日 (木)

連載俳句と“からだ” 151

連載俳句と“からだ” 151
愛知 三島広志
春雨と春の雨
 夏井いつき女史による某テレビ番組の俳
句コーナーのファンが俳句に関心を抱き歳
時記を読み始めた。ある時、「春雨」と「
春の雨」は違うのだと驚いていた。その人
が手にしているのは平井照敏編『新歳時記
(春)』だ。不学な私は不覚にもその違いを
知らなかった。否、忘れていた。平井はそ
の歳時記で服部土芳の『三冊子』の一文を
紹介し、現代の気象学との兼ね合いも説明
していた。数年間、平井の門下にいた私と
してはいたく恥じ入ったのである。
 春雨のあがるともなき明るさに
星野立子
 そこで慌てて常用の『第四版合本俳句歳
時記』(角川書店)を調べたが「春雨は古く
からしっとりとした趣のあるもの」としか
書かれていない。「春の雨」は傍題だ。こ
れではいけないと講談社の『日本大歳時記
』を引っ張り出すと山本健吉が解説してい
る。現代気象学の説明の後「春に特有の艶
なる風趣を添えるもので、木の芽を張り、
草の芽をのばし、花を咲かせる雨とされる
。長雨となることが多いので春霖とも言う
」とあり、さらに服部土芳の『黒冊子』か
ら「春雨はをやみなく、いつまでもふりつ
ゞくやうにする。三月を言ふ。正月、二月
はじめを春の雨と也」を引用している。
山本は同様の解説を平凡社『俳句歳時記
』や『基本季語五〇〇選』(講談社学術文
庫)でも書いている。平凡社版では土芳の
説に対し「不性さや掻起こされし春の雨(
芭蕉)」の句を例に「春の雨」を「春雨」
の感じで詠んでいる場合も多いので土芳の
説をやや修正して、「春の雨」は三春にわ
たって総括的に言い、「春雨」は主として
春の下半期に降る特有の性格を持った雨と
すべきであるとしている。
 春の雨手足のばして我儘す 滝井孝作

 ここで気になるのは明治からの新暦によ
る季節感とそれ以前の旧暦との齟齬だ。陰
暦では一月から三月が春である。暦上は立
春から立夏の前日までが春だ。気象学では
三月から五月とされる。ちなみに今日三月
十日は旧暦では二月四日である。新暦、旧
暦、暦学、気象学で春の定義が異なるのは
混乱の元だ。服部土芳の説も今日的にはそ
ぐわない。そこで山本健吉が修正したよう
な柔軟さを必要とするのだろう。
飯田龍太は「日本大歳時記(前出)」で「
一般には、二月末、枯れ草にわずかな新芽
が萌はじめるころから、四月末ごろまでの
印象」と述べている。これが実感に近いも
のではないだろうか。
と言うことで冒頭に行きて帰るなら「春
雨」と「春の雨」の違いを亡失していた私
は現代に生きておればこそなのだと言い訳
できるのである。
 はるさめやぬけ出たまゝの夜着の穴
丈草

|

« 連載俳句と“からだ” 150 | トップページ | 連載俳句と“からだ” 152 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 連載俳句と“からだ” 150 | トップページ | 連載俳句と“からだ” 152 »