俳句とからだ 122
連載俳句と“からだ” 122
愛知 三島広志
シン・ゴジラと狂言
初代ゴジラへのオマージュとして創られた庵野秀明監督による映画「シン・ゴジラ」が話題になっている。第一作は戦後間もない昭和29年に公開されている。観客はゴジラの来襲を米軍による空襲の印象を抱いて観たという。確かに戦後9年しか経っていない。更にその少し前にビキニ環礁で第五福竜丸が核実験に遭遇し犠牲者が出た。ゴジラはそれらを踏まえて制作されたので単なる娯楽作品の域を出て世相や人心に深い思いを抱かせた。本多猪四郎監督も「戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる映画を作りたかった。原爆というものに対する憎しみ、恐怖心を忘れないように作ろう」としたと述べている。シン・ゴジラも同様に東北の大震災や原発事故をモチーフに創られている。その結果、怪獣映画の範疇を逸脱し、超絶的な困難に対応する政府へのアイロニーとして興味深い作品となっている。
はこべらや焦土のいろの雀ども
石田波郷
この映画で興味を抱いたのは内容だけではない。ゴジラはずっと着ぐるみで演じられたが今回は初めてCGで制作された。その動きのモデルとなったのが狂言師野村萬斎だったのだ。彼の幼少から鍛えられた動きの美しさは誰もが認めるところだろう。ゴジラの動きも彼が演じることでゴジラの存在の根幹が表現されている。シン・ゴジラのシンは新、真、神などが想像できる。英語表記のGodzillaにGodが含まれていることは以前から言われていたことだが、今回の映画のゴジラにはとりわけ神性が感じられた。ただ歩く姿にある種の神々しさを感じたのだ。これは野村萬斎と彼を育んだ能や狂言の伝統的な歩行技能が関与しているに違いない。野村萬斎自身、マスコミでゴジラの神性をどう表現するか、悩んだことを告白している。単なる恐竜になってはつまらない。そこで彼の提案で掌を上に向けたそうだ。それは玉を抱く龍や仏の手の有り様に似てくる。そして摺り足で重厚に歩む。その結果、古典的な歩みの「型」の存在感が際立つことになった。野村萬斎は自身の著書『狂言サイボーグ』で「人体は一種のハードウエアのようなものだ。知識ではなく身体で『型』や『カマエ』といったソフトウエアを体得させた精巧なコンピュータを持っていれば、実はそれだけ個性を発揮する力にもなる」「自由を求める自我と伝統という強大な枠組みの葛藤。しかし囲いがあるからこそそこに遊戯の精神が生まれ、逆に自由に表現できることを修行が終わる頃になってやっと知る」と記している。これは伝統的な形式をもつ俳句にもそのまま当てはまることだと驚嘆した。
稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一 千利休
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