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2017年1月14日 (土)

俳句とからだ 121

連載俳句と“からだ” 121

 

 

愛知 三島広志

 

オリンピック

 リオデジャネイロで開催されたオリンピックは成功裡に終わった。この稿を書いている現在はパラリンピックで盛り上がっている。現地の治安の悪さや不況、テロの問題が懸念されたが今のところ順調に運営されている。既に終わったオリンピックで日本はメダル獲得数が過去最高となり、次回東京では更に上を目指そうと盛り上がっている。しかし元来オリンピックの目的はそうした国威発揚の場ではあるまい。

 

 オリンピックは古代と近代に分かれ、近代は古代の理念に感銘したクーベルタン男爵の提唱から始まる。第一回は1896年のギリシャ、アテネで開催された。そもそも古代オリンピックはギリシャで四年に一回行われ、その期間及び前後を含めて三ヶ月休戦するというものであった。それは戦争や伝染病の蔓延に困窮した王が神託によって「休戦せよ、競技会を行え」と言う啓示に従ったものとされる。まさに「聖なる休戦」と呼ばれるにふさわしい平和の祭典である。

 

マラソン一群英霊の来る如く

今坂柳二

 

 「オリンピックは、勝つことでではなく参加することにこそ意義がある」という知られた言葉がある。これはイギリスのタルボット大主教の説教で当時イギリスと関係の悪かったアメリカ選手へ贈られたものである。それに感銘したクーベルタン男爵が演説で語ったところ彼の言葉として広く喧伝されたという。古代オリンピックの理念と照らし合わせれば誠に的を射る言葉であろう。

古代オリンピックが戦争の代替であることは競技から想像できる。何故ならその種目は多くが戦いであるからだ。砲丸投げ、槍投げ、円盤投げ、ハンマー投げは全て武器の投擲だ。ボクシングやレスリングも格闘である。パンクラチオンという何でもありの格闘技もあった。現代でも射撃や弓がある。

 

つなげ来し燃ゆる聖火や原爆忌 

山本正晴

 

 現在のオリンピックは拝金主義に陥り本来の世界平和の祭典という目的を失しているという指摘がある。実は古代オリンピックも同様に様々な問題を派生し、次第に娯楽化、宗教的意義を見失うと同時にローマ帝国となりキリスト教の繁栄によりオリンピア信仰は消滅する。再びオリンピックが日の目を見るのはクーベルタン男爵登場まで1000年以上の空白を要したのだ。

 

「自己を知る、自己を律する、自己に打ち克つ、これこそがアスリートの義務であり、最も大切なことである」これがクーベルタン男爵の言葉、至言である。

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