俳句とからだ 120
連載俳句と“からだ” 120
愛知 三島広志
距離
鶺鴒の人を恐れぬ距離保ち
三島広志
人は他人との距離を学習することで人間として成長する。新生児は母子一体で母の存在即世界であるが、成長とともに幼子は対象を手や唇で触れることによって自分とは異なる世界の存在を確認する。さらに指さし言葉という動作を用いた言語以前の言語で世界を分節していく。
佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり
櫂 未知子
その後、育つ過程で次第に対象と自分との距離感を学んでいく。人と人との距離を上手く制御できることは大人の条件であり、そうして成長した人を「人間」と言う。人間は時間的(歴史)、空間的(社会)距離感を教育によって学んだ動物だ。時間、空間、世間、人間。それらの言葉にある「間」とはそうした関係性に他ならない。その関係性が理解できないのが子どもであり、年齢を重ねていてもそこが理解できない人は子どもじみていると評価されてしまう。
人と人との距離は相対的に決定されるものだ。絶対的に規定されるとしたらそれは封建時代のような自由のない社会である。本来関係性は自由なものだ。恋人達のように身体が触れ合う関係もあれば、握手程度の触れ合い、触れることのない間合い。激しく対立し相容れることのない距離。これらの距離感を理解し、受容すると同時に能動的に駆使することで人間関係は成立している。自然や環境、道具などとの関係も同様である。
薄氷や触れてあやふき人の距離
金子恵美
この句、距離感を誤り、うっかり触れるまで近づいてしまった思いを詠んでいる。その先は危うい関係となる。それは抜き差しならない親密な関係となるのか、あるいは敵対することになるのか。作者は具体的に述べてはいないが薄氷という儚い季語を上五におくことでその危うさが具体的な手応えをもって示唆されていると同時に、この先は鑑賞者が自由に想像できる余白が与えられている。
もう逢えぬ距離なり釣瓶落しかな
中村克子
こちらは親しい関係が疎遠になったことを示唆している。なぜ逢えなくなったのか理由は分からない。具体的なことは全く述べられていないからだ。しかし、その思いの切なさを釣瓶落としという季語に託して言外に表現している。井戸水を汲む釣瓶が一気に落ちていくように暮れていく秋の夕暮れの状況が作者の距離感を雄弁に語っているのだ。
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