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2017年1月14日 (土)

俳句とからだ 119

連載俳句と“からだ” 119

 

 

愛知 三島広志

 

時代の俳句

 201675日発刊『俳句文学館』の「的」というコーナーに中山奈々という若手俳人が興味深い文章を寄せている。「突然だが質問である。俳人協会の皆さんは、若手俳人の名を一人でも挙げることが出来るだろうか?出来なかった方は残念だが、この世に若手俳人は居ないものと思って貰いたい(後略)」。過激な冒頭だが若手もベテランも互いに歩み寄り吸収しあって俳句の世界を築いていこうというものだ。

この著者中山さんは五月に愛知県の明治村で行われた俳句対局で活躍された。その対局相手が同じく若手の工藤恵さん。俳句対局は松山市とその観光大使夏井いつきさんが各地で試みているイベントである。囲碁の対局のように大衆の前で次々に即吟するという過酷なものだ。発想がすぐに俳句化しなければならない上にややこしいルールもある。お二人は見事に対局され観客の度肝を抜いた。その数日後、工藤恵さんから産まれたての『雲ぷかり』(本阿弥書店)という句集が届いた。跋は彼女の師である坪内稔典氏。

  一読して気づくこと、それはカタカナ語の食品が多く登場することだ。アンティパスト、カレーのルー、チャーハン、ツナ缶、キャベツ、ブロッコリー、チョコボール、キューピーマヨネーズ、カゴメケチャップ、ピーマン、ハイボール等。勿論日本語の食品も出てくる。鶏そぼろ、豆腐、みそ汁、丸美屋のふりかけ、さくらんぼ。これらはそのまま今の日本の食卓あるいは家庭を表現している。工藤さんは眼前の日常をそのまま素材として句に仕立てているのだ。気負いも衒いもなく素直な日常スケッチをしているように見える。つまり彼女の日常から現代が読み取れるのだ。そのための装置がこれらの言葉であり俳句という形式である。従ってカタカナが多いのは極めて今日的で当然のことである。まだ俳句の言葉として練られていないなどと俳句オヤジが意見を言う隙を与えることなく易々と使いこなしている。

 だが、彼女の俳句はそれだけではない。簡素な表現の奥に現代も過去もない普遍的な本質を覗かせている。敢えて似た句を並べてみるとその世界が垣間見える。鑑賞してみて欲しい

 

草の花見つけてくれないかくれんぼ

曼珠沙華かくれんぼから帰らねば

天道虫飛んでった日の石ころ

心がこわれた天道虫が飛ぶ

天道虫空の泪の形して

かき氷泣けば許してくれますか

かき氷前髪切った顔同士

空蝉をいくつ覗いても空っぽ

空蝉を零して歩く少年ら

 

以下の句にも惹かれた。軽いが深い。

 

団栗をポッケに入れしまま大人

凩の中のきりんへひとりごと

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