俳句とからだ 116
連載俳句と“からだ” 116
愛知 三島広志
「に」と「へ」
俳句初学の人との交流は愉しい。俳句の常識に対して率直に疑問をぶつけてくる。俳人は螢を「ほうたる」と呼ぶがこれは辞書を探しても見つからない。俳句に親しんだ人は何気なく用いているが、俳句に縁の無い多くの人にとって「ほうたる」は初めて聴く言葉だ。
また、文法においても俳句ならではの用法があり、一般の日本語とは異なる用い方をするので戸惑うことがある。それは俳句独特の「切れ」や「省略」があるからだ。日常語のように見えて微妙に屈折するのでまともに読んでいると意味不明となる。または様々な解釈を呼ぶこととなる。次の句はその代表であろう。
田一枚植て立去る柳かな 芭蕉
そのまま読めば田を植えて立ち去ったのは柳となる。しかし柳が田を植えるのは妙だと考えると芭蕉か村人が田を植えて立ち去る、そこに柳の木があったと鑑賞することも可能だ。「立ち去る」は連体形であるから柳に掛かるが「立ち去る/柳」と軽く切るという読み方もあるからだ。同じことは現代俳人の句でも見られる。
手をつけて海のつめたき桜かな
岸本尚毅
「つめたき/桜」とこの連体形も掛かると同時に軽く切れている。どちらも重層的に鑑賞できるので十七音が複雑に広がって深く大きな世界を産んでいる。しかし俳句初学の人には解釈が難しい句だ。
また同じ初学の人から
ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ
桂信子
の格助詞「に」が分からないと聞かれた。豌豆が人妻のために自主的に煮えるとは思えないからだ。そこで中岡毅雄著『俳句文法心得帖(NHK出版)』で調べたところ「本来、『に』は、動作や作用の帰着点を表します。(中略)それに対し、『へ』は、体言の『辺』から助詞へ転化したもの」と説明してある。しかしこの説明では「ひとづまに」の説明ができない。そこでmailで中岡氏に直接尋ねたところ前掲書では「に」「へ」の比較をしたのみで「に」の他の用法には触れていないこと、さらに辞典に基づいた丁寧な回答を頂いた。氏に習って辞書を引くと「動作・作用の及ぶ所・方向を指示する」(広辞苑)とある。豌豆が煮えるという作用が人妻という対象に対して及んだということだ。
省略の利いた俳句が初学者に読みにくいは仕方が無いが、実は長年やっている者も意外と分からないまま俳句と接していると反省する次第である。
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