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2017年1月14日 (土)

俳句とからだ 115

連載俳句と“からだ” 115

 

 

愛知 三島広志

 

バイタルサイン

 医療の現場で重視される生命指標としてバイタルサイン(vital signs)がある。vitalは「生きている」、sign は「兆候」という意味で、つまり人間が生きている兆候を意味する。具体的には心臓が拍動し血圧が保たれ、呼吸をし、体温が維持され、排尿・排便し、意識状態に応じて反応があり、脳波が特定パターンを示すことと言われる。

バイタルサインの測定は数値化される。一般的にバイタルサインは血圧・脈拍数・呼吸速度・体温を示す。近年は計器の発達からパルスオキシメーターによる動脈血酸素飽和度(SpO2)の測定値も含めることが多い。バイタルサインは医療・看護・介護の共通言語として極めて重要であり、それが示すものは患者の客観的事実である。患者の客観的事実を多くの人間が共有するために数値化されたバイタルサインが必要となるのだ。

 

米飾るわが血脈は無頼なり

角川春樹

 

しかし果たして物事は客観的に存在するだろうか。決してそうではあるまい。私が見ているものはあくまでも私化された事実であって他人とは本質的に共有することは叶わない。ある人の状態を多くのワーカーが共有するために数値化されたバイタルサインを用いるがそれはその人のある側面であり全体を示すものでは無い。それを理解した上で医療行為が行われるのだ。

 

あやまちはくりかへします秋の暮

三橋敏雄

 

俳句もまた同じだろう。作者が見て感じた事実を言語化しても決してそのまま伝達できるわけでは無い。バイタルサインのように数値化すら出来ない。それでも俳句を創るのは自他の間に共通の認識を期待するからだ。そこに物事を正しく表現したいという「言語の自立」と物事を正しく伝えたいという「言語の伝達」という矛盾が生じてくる。

 

 薪能光と闇を分かつ笛  福田泉

 

私たちは俳句という表現を通じて、詠み手と読み手の間に初めから存在する共有不可能な客観的事実を共有するために、伝達的事実を言語化する。しかしそこに立ち上がってくるのは共有では無く共感なのだ。詠み手と読み手、詠まれる対象と詠み手はそれぞれが対立しているが共感という昇華によって作品が成立する。

これら不可避の対立を相互浸透する行為(共感)が観賞だ。虚子の「選は創作なり」とはまさにこのことを簡潔に言い表しているに違いない。

 

一対か一対一か枯野人

鷹羽狩行

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