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2015年12月30日 (水)

俳句とからだ 108

連載俳句と“からだ” 108

 

 

愛知 三島広志

 

考える人

 仕事でナーシングホームを訪れることが多い。ある方の部屋へ入ると壁に有名な広隆寺の木造「弥勒菩薩半跏思惟像」の写真が掲げてあった。おそらく親の安穏とした暮らしを望む家族が持ってきたのだろう。あるいは今は眠るだけで語ることも出来ないその方が大好きだった仏像だったのかもしれない。

 

 この弥勒菩薩は形式に決まりがあり、台座に腰掛けて左足を着地し、右足先を左大腿部に載せ半跏(片脚のあぐら)を組み、上になった右膝の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰に触れて思惟する姿である。左手は右足首に置かれている。この姿勢は日常生活でもよく見られるだろう。人は考え事をするとき、片手を頬や顎、額に触れる。あるいは腕組みをして首を項垂れて集中する。

 

鉦たたき弥勒生るる支度せよ

恩田侑布子

 

 人は自分自身に集中するとき、即ち中心化するとき、肘を折り畳んで身体をコンパクトにする。そして手で身体のどこかに触れる。それは額や頬、顎や胸である。そして思考を諦めたとき両手を挙げ「Oh! My God!

と叫ぶ。
お手上げになるのだ。
人はリラックスするとき、思考状態と逆に両手を展げ、脱中心化し、空気を一杯取り込んで環境と同化する。

両腕を解放すると思考停止

、脳が休憩する。

集中するときは手に汗を握って腕を緊張させてしまう。
映画を観て興奮すると腕が妙に疲れるのはこのためである

 

沈思黙考ふところ手解く気力なし

吉田未灰

 

 半跏思惟像を観ながらそんなことを考えているうちにふと、西洋の巨匠の名作「考える人」を思い出した。オーギュスト・ロダンによるこの著名なブロンズ像も脚こそ組んでいないが、右手を顎に当てて沈思黙考しているように見える。優美な半跏思惟像と筋骨逞しい男性像がほぼ同じ姿勢でいずれも思考をしていると見做されているのは極めて興味深い。

 

もともとロダンはこのブロンズ像を「詩人」と名付けていたようである。そして表している人はロダン本人とか、『神曲』の作者ダンテであるという説もあるそうである。ロダンの死後、作品を鋳造したリュディエが「考える人」と命名したことが通説となっているが、このタイトルによってこの像の価値が普遍的に広がったと思える。タイトルが「ロダン」や「ダンテ」と個人名に限定されていたとすると、これほどの普遍的な人気は得られなかったのではないだろうか。

 

ロダンの首泰山木は花えたり

角川源義

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