俳句とからだ 105
連載俳句と“からだ” 105
愛知 三島広志
平常にある不思議
栗島弘氏から句集『水仙の閂』を頂いた。『遡る』『百物語』に続く第三句集で氏はこれを「まちがいなく最後の句集」と位置づける。
氏の俳句を一言で説明するなら日常の身の周りにある平明な現象を平明な言葉で平明に表現されていることだ。ところがこの三つの平明が曲者で読者はいつの間にか栗島ワールドへ引き込まれることになる。
有体に言へば粗末な裸かな
衣更へてこの身ひとつといふことか
自画像だろう。上五の「有体に言へば」の一句でその粗末な裸がリアルに立ち上がってくる。この上五は元々必要ないのだが、どうしてなかなかの曲者なのだ。次の句の「いふことか」も同様に不思議な世界を作り出す。
鰻屋の火を落したる小雨かな
小粋な句だ。この句のいのちは下五「小雨かな」。喧噪の一日を終えた鰻屋が炭火を消す。表には人々の疲れを鎮静するかのように小雨が降っている。静謐な景に読み手は安堵する。
蕎麦洗ふ九月の水を手づかみに
上質な写生句だ。九月というと蕎麦好きはもうすぐ出る新蕎麦を心待ちにしている頃だ。その古い蕎麦を丁寧に洗う様子が「手づかみ」で十分に表現されている。
あきらめてしまへばもとの寒さかな
なんとなく祭の端にをりにけり
この人を食ったような句がこの人の真骨頂だろう。飄々と肩の力が抜けている洒脱さと根底にある寂しさ。
ふきのたうきのふは人を弔うて
人送る手に一本の青芒
氏は『水仙の閂』を最後の句集と位置づける。それはそういう年齢にあるということだ。静かに老いて老いを閑かに見つめる。そこには払いきれない老いや命への不安が見えてくる。
榾足して榾足してまださびしいぞ
夕桜いましがたまで人のゐて
もう少し生きる途中の桜かな
氏の根底にあるさびしさ。これは誰にでも存在する。その存在を過不足無く共感させる措辞。そこに作者としての力量が問われるのだ。次の句、平明にして深く、人に共通するさびしさを読者の中から掘り出してくれる。
盆の月自分の箸を洗ひけり
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