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2015年12月30日 (水)

俳句とからだ 104

連載俳句と“からだ” 104

 

 

愛知 三島広志

 

時は流れ時を刻む

 仕事部屋には時計がない。iPadのディスプレイに文字盤を表示し時計代わりとしている。その時計を眺めていてふと気づいたことがある。昔から家にあった時計はカチコチと時を刻んでいたが、この時計は時を刻まないのだ。古い時計は振り子や歯車がメトロノームのように小刻みな音を立て、文字盤を見ずとも、時報を聞かずとも常に空間に時を知らせていた。あえて時計を見なくても静寂の中を時が去りゆく、あるいは迫ってくる有り様が身体にしみ込んで理解できたのだ。

 

しかし、iPadの秒針はただひたすら静かに滑らかに回転しており、内部はデジタルなガジェットにも関わらずディスプレイ上ではアナログに動いている。

 

子を殴ちしながき一瞬天の蟬

秋元不死男

 

 時はいつから始まり、いつまで続くのかは不明だが現在のところは悠久に流れている。その時の流れの一瞬、瞬とは「またたき」のことだ。時計がカチと瞬間を刻むとき、それを時刻と呼ぶ。そして時刻と時刻の間が時間となる。

人類は時間を社会で共有するため様々な方法を用いた。最初はおそらく日の出と日の入り、そして南中という基準をおおざっぱに分節して社会共通の時刻としただろう。その後、物理的に共通化するため時計が考えられた。影を用いた日時計、物の落下を利用した水時計や砂時計、線香や蝋燭、火縄などを燃やした燃焼時計など。そして11世以降、振り子や発条を用いた機械時計が作られたという。現在の時計はほぼ誤差が無い電子時計となっている。

 

時計屋の時計春の夜どれがほんと

 久保田万太郎

 

 機械的に測定できる物理的な時間に対し、私たちは体験的に時間の長さの違いを感じている。若いときの一年は長かったが年々一年が短くなるとは誰もが述べる感慨だ。愉しいときは瞬時に去り、辛い時間は苦しく長く、詰まらない時間は無駄に長い。また同じ一時間でも有意に過ごして満ち足りたこともあれば無駄に浪費して虚しく後悔することもある。

 

 船のやうに年逝く人をこぼしつつ

矢島渚男

 

 「人生とは畢竟有限な時間である」とは以前私のオフィスに来たアメリカ人の言葉だ。彼は前回土壇場で仕事をキャンセルしたお詫びに今日は二回分払うと言いはった。それを私が固辞したときの言葉がこれである。続けて言った。「僕はあなたの貴重な人生の時間を無駄に奪ってしまったから二回分払わせてくれ」と。これには頷かざるを得なかった。

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