俳句とからだ 100
連載俳句と“からだ” 100
愛知 三島広志
青麗
藍生の連衆高田正子女史より句集『青麗』を頂いた。『玩具』『花実』に続く第三句集である。連衆とは言え彼女の結社を超えた俳壇的活躍はどなたもご存知だろう。句は一読、タイトル通り爽やかで清々しいものだ。
あをあをと山きらきらと鮎の川
さつと来て緑雨の傘をたたみけり
これらは作者の自選十句から引いたが高原を吹き抜ける風を受けるがごとき心地良さがある。
しかし高田女史はさほど簡単な存在ではない。外面如菩薩内心如夜叉ではないが句の表層に留まると彼女の本当の魅力に気づかないか本質を見失ってしまう。同じ自選十句の中に
よく枯れてたのしき音をたてにけり
ちと云うて炎となれる毛虫かな
という句がある。本来忌むべき「枯れる」ことを「よき」といい「たのしき」と表す。さらに毛虫が焼ける状況を「ちと云うて炎」になったとさり気なく淡々と述べているのだ。ここに彼女の懐の広さ深さが感じられる。
彼女の句の魅力は次の句にも出ている。
見ゆるものみなかげろふにほかならず
ゆつくりと凍るゆふべを梅の花
これらのゆったりした調べ。具体的なものは「陽炎」「梅の花」だけしかない。その息遣いは深く広い。調べがなめらかでたったの五七五とは思えない豊かな空間が示される。これを彼女の句の正の魅力としよう。では次の句はどうだろう。
ほほけねば翁草とは言へねども
氷とけてしまへば何も無きところ
雪吊りの仕上がらぬまま昼休み
さり気なく屈折している。この斜めに構えた視点も彼女の特徴だ。これを負の魅力としよう。
一見端正で清楚、静謐なイメージの女史の俳句にはこうした捻られた魅力が随所に見られる。これが彼女の器を大きくしているに違いない。さらに
軽鳧の子の大きくなつて一羽きり
ゆふがほのおほきな一顆風の奥
に見られる孤独へ共感する視線。集中「ひとつ」を詠んだ句が多く見られたのは彼女の胸中にある寂しさと現象の有する孤独が呼応したからではないだろうか。
その他、以下の句などに感動した。
へちまよりへちまの札のなほ長し
灯せば人還りくる桜かな
六月や夜風の色の旅衣
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