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2015年3月13日 (金)

俳句とからだ 99

連載俳句と“からだ” 99

 

 

愛知 三島広志

 

舞とマイム

 秋風が心地よく感じられる頃、知人の紹介でパントマイムを観に出かけた。パントマイムとは無言劇や黙劇と訳されるようにセリフがなく身体や表情で表現する演劇の一形態だ。マルセル・マルソーは特に知られたマイム俳優だろう。猿の形態模写で知られたマルセ太郎は彼に因んで芸名を付けたという。

 その日のパフォーマーは奥野衆英と二人のミュージシャからなる「エ・ヴィ・ダンス」というスリーピースバンドだった。奥野は主にフランスで活動しておりマイムというジャンルに因われない自由な身体的表現を追求、ヨーロッパで高い評価を得ている。先のマルセル・マルソー最晩年の弟子でもある。

 冒頭、奥野は腰に布を纏っただけの裸でステージに立った。暗転から光が差した途端、鍛えられた身体が激しく動き出す。裸体の奥野を観た瞬間、難解な大駱駝鑑か山海塾のような暗黒舞踏を想像したが、奥野のそれはテーマが明快で生物の形態を情念とともに模写するものであった。初めは鳥、鳥を狙う獣、獣を狩る人。これらを鬼気迫る身体表現で演じ、開場早々の場内を緊張感で包み込んだ。私はその演技に圧倒されながら全く関係ない中国の五禽戯という古い健康体操を想起していた。それは虎、鹿、熊、猿、鳥になりきることでその力を得ようとするものだ。奥野の表現はその迫真性からそれぞれの動物の魂が彼に乗り移ったかのように激しいもので身体の形態と動作のみで観客の心を引きつけた。

 

帰国してパリにつながる鰯雲

小間さち子

 

 次のパフォーマンスはステージに電車のドアの開閉の映像を重ねて行われた。ドアの開閉毎に織りなされる人間模様。現代人の喜びや失意を身体で演じていた。先の動物の模写が原初の人類誕生に至るまでの道なら、ドアの開閉による演技は現代の人間模様の奥に潜む本質をオムニバスに表現していた。

 その日の圧巻は小惑星探索機はやぶさであろう。宇宙を飛翔する孤独な宇宙船はやぶさをマイム俳優奥野は抑制的に演じていた。両手を広げ屹立する姿は能の立ち姿のようであった。奥野の師マルセル・マルソーが影響を受けたという能。その日の演技からそれが伺われた。抑制の持つ多弁。奥野はステージで一人で宇宙空間とはやぶさを演じきっていた。

 

 ステージで彼は一度だけ言葉を発して身体の持つ雄弁性を語った。「僕、食べていないよ」と子どもが嘘をつく様子を演じながら言葉では嘘をつけても身体では嘘をつけない例を説明してくれたのだ。これはノンバーバルコミュニケーションの原点と思える示唆だった。

 

汗のてのひらを泳がす無言劇

行方克巳

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