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2015年3月13日 (金)

俳句とからだ 96

連載俳句と“からだ” 96

 

 

愛知 三島広志

 

矛盾と統一

 私たちは矛盾の中に生きている。生まれた瞬間、死が約束されているという矛盾。成長即ち衰退を内包しているという矛盾。病は悪くなろうとする力と良くなろうとする力の鬩ぎ合いの結果が症状として表面化している。矛盾とは相反する力が相対的に作用し続ける運動構造だ。矛盾を如何に受容して生きていくか、これが人生である。

そもそも身体は約60兆個の細胞が集まって一個の生命体を形成している。細胞はそれ自体一個の生命体である。これら60兆個の生命体を一つの生命体として統一することは大変なことだ。それが私たちの生命である。驚いたことに私たちの細胞は長いもので120日の寿命しか無い。脳や骨格を除けばおよそ4ヶ月で身体は入れ替わっているのだ。じっと見る掌の皮膚はおよそ一ヶ月で入れ替わっている。つまり身体とは細胞が常に死生を繰り返している矛盾体なのだ。

 

女身仏に春剥落のつづきをり

細見綾子

 

多細胞が一生命統一体として存在する。この多を一に統一する構造は周囲に溢れている。国は12000万という個人の集合体だ。したがって国を運営するということは至難の技だ。であればこそ国内に様々な政党や団体が派生し、討議し、離合集散する。意見の統一を目指すために国粋主義や排他主義、あるいは強烈なIconの求心作用を利用する原理主義が用いられるのは歴史的必然だったのだろう。ましてや異文化、異民族、異宗教の集合体である世界がまとまることの困難さ。日本は異国からの侵襲を海によって守られ、しかも近似の言語や文化、宗教を歴史的に共有している島国である。それでも400年前までは国内で戦ばかりをしていたのだから世界平和つまり並存的統一が如何に困難な事業かが想像できる。

 

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹

     寺山修司

 

矛盾点を明確にし、それを乗り越えることを止揚という。これは弁証法だ。西洋哲学の基礎である。ところが東洋では矛盾を矛盾のままに抱えて善しとする場合がある。これを西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と呼んだ。これは弁証法のように矛盾からひとつの結論を導き出し思考の発展運動を目指すものではなく、矛盾を矛盾として抱え込むことが新しい思考を生むのであり、決して整然と分節できるものではないということだろう。

 

日本語は光と影、いずれもカゲという。また俳句を作り手は詠み、受け手は読む。即ちどちらも「ヨム」のである。正反対のものでありながら同じ呼び方をする。これもまた矛盾的自己同一であろう。

 

芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏

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