俳句とからだ 95
連載俳句と“からだ” 95
愛知 三島広志
脳関門
身体には不可思議な機能や構造がある。まさに神によって創造されたとしか考えられないこともある。もちろん余りに不可思議故に神の手に依らざるを得ないと考えるのであって不遜と言われるかもしれないが神が創造したのではない。
空は太初の青さ妻より林檎うく
中村草田男
不可思議なものの一つに脳関門がある。正式には血液脳関門だ。これは血液と脳脊髄液間の物質交換を制限する機構である。この機構は脳に入ると危険な物質を毛細血管で遮断するシステムだ。脳のエネルギー源であるグルコースやケトン体は脳内に取り込まれるがその他の物質は制御するという素晴らしい機構が脳関門なのである。この働きが弱ると癌細胞や細菌が脳に入ってしまう。
しかしその関門を簡単に通過する物質もある。アルコール、カフェイン、ニコチン、向精神剤などである。私はこの文章を書くに当り、より明確に理解するために先程まで懇意にしている飲み屋で純米酒を少しずつ七種類嗜んできたが、確かにアルコールによって酩酊という現象が起きることを実感している。残念ながらタバコや向精神剤は服用した経験がないのでアルコールで実験するしか無かったのである。脱法ハーブも脳関門をくぐり抜けるので思考や精神状態に影響を与え、社会的問題を起こしている。アルコールも一歩間違えば飲酒運転のように社会的犯罪を助長する。
逆に癌末期の疼痛や精神的苦痛にはオピオイド鎮痛薬(モルヒネ様物質)を用いることによって苦痛を緩和し人生終末の苦しみを解放することが可能である。
燭の灯を煙草火としつチエホフ忌
中村草田男
脳関門があまりに強固であれば麻酔も効かず手術は猛烈な痛みを伴う。今日の全身麻酔はすぐ覚める麻酔薬を小刻みに入れることで麻酔の効果をコントロールし、術後は速やかに爽やかに目覚めることが可能となっている。医学技術の進歩は苦痛をかなり緩和できるようになった。
脳関門が完全でないのは神の恩恵かもしれない。酒や麻薬による社会的問題は看過できない。しかし同時にそれによって苦しみから逃避できるのは神の大赦だ。神話や聖書に拠ればパンドラの箱を開け、知恵の実を食べた人は平穏から苦難へと移行せざるを得なかった。しかし神は僅かな隙を作ることで人に逃げ場を与えてくれた。パンドラの箱から出てきた希望のように。脳関門を思う時いつもパンドラを想起するが、決して酩酊故ではない。
玫瑰や今も沖には未来あり
中村草田男
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