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2015年3月13日 (金)

俳句とからだ 94

連載俳句と“からだ” 94

 

 

愛知 三島広志

 

手当

 医療機器や検査が格段に発展した今日、医師が実際に手を当てることは少ない。しかし今でも医療行為を手当という。巷間「今の医者は患者の身体に手も聴診器も当てない」という不満を耳にする。医師からすると客観的検査データを重要視し、主観的行為である手当は二の次になる。もう一つは多忙の故でもある。

 

新涼や白きてのひらあしのうら

川端茅舎

 

手当はむしろ一部の宗教行為に残された技法だ。オウム真理教の事件以前、街角でしばしば手をかざす宗教勧誘に遭遇した。元々「医」は「醫」と書いた。医は箱に矢、これは膿や血を切って排出するメスを示している(異説あり)。その隣の又は手、几は道具のことで道具を用いる意味(異説あり)。投げるや殴るなどに使われている。医はメスで膿を切開するということだ。下の酉は酒壺。薬草をアルコールで抽出したもの。つまり医師とはメスと薬で治療行為を行う人のことである。ところがもう一つ酉の代わりに巫を用いた「毉」もあり、これは呪術的治療。したがって古い医療行為には呪術的要素も含まれていたと考えられる。お手当が医療行為と宗教行為に跨るのは歴史的なものであり、今日でも患者は医師に対して呪術的側面を期待しているのは苦しみの最中にある人間として当然のことだろう。

 

 手当はもう一つボーナスを意味する。夏期手当、歳末手当である。これは手を当てるという行為が弱っている処を庇い助けるように、ボーナスは弱った家計を助けるからだ。漢方では弱っている人や病状に対して「補」という治療を行う。薬でも鍼でも指圧でも同様である。補は衣編が示すように布を当て補うことであり、訓読すれば「置き縫う」となる。

 

冬薔薇や賞与劣りし一詩人

草間時彦

 

 手当とは弱っている病人や障碍のある方、高齢で命の余力が無くなりつつある人に対し寄り添い、手を当てることであり、さらに拡大延長して抱きしめる「介抱」、見守る「看護」、身の回りを助ける「介護」。いずれも身体を直接提供することで苦しみの中にある人を補い、ついには互いに満足する行為なのだ。

 

 人間関係を触れ合いという。実際に触れることが無いにも関わらずだ。これは手当と同じく行為そのものを示すのではなくその行為の深奥にある心を示している。寄り添ってその人の苦しみに深く切り込んで切々と共感することが親切であるように。

 

除夜の湯に肌触れあへり生くるべし

村越化石

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