俳句とからだ 90
連載俳句と“からだ” 90
愛知 三島広志
みもこころも
ある朝、マッサージ師として関わっているナーシングホームへ行くと夜勤ナー スが小声で語りかけてきた。「先生、◯さんのお顔見て上げて」「え?亡くなったの?」ナースは答えずこくりと頷いた。訪室すると◯さんの御身体が介護士の手で綺麗に整えられていた。「お亡くなりになったばかりなの。少し前までお話されていたわ」とナースが説明してくれた。
もともと末期癌でストーマ(人工肛門)を着けた状態で病院から直接ナーシングホームへ入居された方だ。お看取りのための入居である。予後が短い中、職員は本人の希望する自宅外泊を実現しようと頑張った。ご自宅は三階建で寝室は三階、家庭用エレベーターで上がる。まずなんとしても◯さんを車椅子に腰掛けられるようにしなければならない。ところが長年の闘病で◯さんの両脚は膝が全く曲がらない。そこでマッサージで何とかならないかという医師からの要望だった。
死病得て爪美しき火桶かな
飯田蛇笏
気付いたことは身体の痛みより精神的な問題で曲がらないのではないかということ。理学療法士と話し合ったが彼もこの骨や筋の状況で曲がらないのは不思議だと言う。私は筋肉を揉みほぐすという一般的マッサージではなく、触れ、語りながら身体と心を解すように対応していった。やがて僅かだが膝が曲がり出した。少しずつ進歩し、ある日、娘さんが観ている前で膝が45度位まで曲がるようになった。これなら何とか車椅子に腰掛けてエレベーターに乗れる。家族が採寸して確認してきた。しかしもういのちの時間がない。医師の決断と医療スタッフや相談員、家族の活躍、何よりも本人の頑張りがあった。ついに自宅で一泊、愛犬とも再会、夢が叶ったのだ。よほど嬉しかったのか、◯さんはこれからは毎日マッサージして欲しいと言われた。そして一週間後、静かに亡くなった。
私は各居室にご家族と連絡を取るためのノートを置いている。◯さんのノートの最後のページには娘さんの手によって次の文が書かれていた。
「今朝 父が亡くなりました。短い間ではありましたが、マッサージをしていただき希望を持ちながらすごすことができました。ありがとうございました。」
マッサージの目的は疲労回復やコリほぐし、心地よさやリラックスだけではない。今回のケースでは本人とその家族のからだをもほぐすことが出来たと自負している。みもこころも深奥からほぐしていけたらマッサージ師冥利に尽きるというものである。
今生の汗が消えゆくお母さん
古賀まり子
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