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2014年2月

2014年2月12日 (水)

俳句とからだ 88

連載俳句と“からだ” 88

 

 

愛知 三島広志

 

声なきこえ

 福祉業界ではノンバーバルコミュニケーションという言語によらない非言語コミュニケーションを重要視する。非言語とは表情や声の調子、仕草や服装、訪問先の室内の散らかり方などである。ワーカー達はクライアントの発する言語を真摯に傾聴すると同時に「声なきこえ」からクライアントの現状や要求を理解しようとする。もっともノンバーバルコミュニケーションは福祉に限ったことではない。教師も親も営業マンも同じことを行っている。思いは言語だけで表現できないからだ。このことは中国の古書「易経」に「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」と書かれているように昔から知られていたことだ。ただ、福祉業界は老いや認知機能の問題、心身の病気や障碍で語ることさえできない方たちに係る機会が多いので尚更ノンバーバルコミュニケーションを重要視するのだ。

 ケアマネージャーの講習会でもノンバーバルコミュニケーションの重要性を学ぶ機会が多い。私はその時いつも夭折の歌人岸上大作の歌を思い起こす。

 

意思表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチ擦るのみ

 

岸上は昭和14年生まれ。昭和35年の安保闘争に参加し、「意思表示」で短歌研究新人賞を受けたが、同年12月自殺。理由は闘争の挫折と失恋によるとされている。

この歌は闘争の仲間からの無言の攻めを詠んでいる。その時岸上が何を考えていたのかは分からない。しかし後半の「ただ掌の中にマッチ擦るのみ」は背後にせまる者ではなく、そこにはいない寺山修司へ向けられたものだ。

 

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 

岸上は背後からの声なきこえに対し歌の中の「マッチを擦る」という行為で寺山へ語りかけているのだ。これは時空を超えたノンバーバルコミュニケーションと言っていいだろう。戦争が終わって15年。まだ守るべき「祖国」はあるのだろうか。寺山も岸上もその答えを持っていたとは思えない。しかし両者とも父親を戦病死で亡くしている。その辺りに2人の近親感と祖国への思いが見え隠れする。ただ、後に岸上は寺山が創作だけで具体的な行動に出ないことを強く非難している。掌の中のマッチは彼の寺山に対する複雑な思いでもあるのだ。

 

寺山の歌は富沢赤黄男の「一本のマッチをすれば湖は霧」の優れた換骨奪胎であることは知られている。この霧は世相を覆う霧の比喩であろうことも想像に難くない。

 

かがまりてこんろに青き火をおこす母と二人の夢作るため    岸上大作

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俳句とからだ 87

連載俳句と“からだ” 87

 

 

愛知 三島広志

 

こころとからだの解離

 こころとからだは不即不離、心身一如である。こころがからだを縛り、からだの状態がこころに影響する。熟練のスポーツ選手が精神緊張からつまらないミスをするのはこころがからだを縛るからだ。逆にこころが澄み渡っていつもなら考えられないような優れたパフォーマンスを示すこともある。こころとからだの関係は一筋縄ではいかないが、一般にこころはからだの上に君臨し、からだはこころに隷属する傾向がある。

しかし反面、それらは容易に分離する。病的に分離することを解離と呼び幻覚や幻聴を生み出すことは知られている。ところが解離は必ずしも病的なものばかりではない。むしろ日常ごく当然のごとく解離は起こっている。これらには心理的解離や生理的解離がある。生理的解離は睡眠であり、眠っている時トイレに行ったことを覚えていないような現象だ。心理的解離は授業に飽きてふと他ごとを考えてしまう白日夢のようなもの。あるいはテレビドラマに夢中になって人から呼ばれても気づかない状態。からだはそこにあってもこころはどこかに浮遊している状態だ。これらは誰にも経験があることだろう。

 

初夢のいきなり太き蝶の腹

宇佐美魚目

 

 1950年代に世界的ヒットとなったトニー・ベネットの「霧のサンフランシスコ」という曲がある。あるいは「思い出のサンフランシスコ」と呼ばれることもある。この曲はまさにそんな解離を歌ったものだ。原題は「I Left My Heart in San Francisco」。パリもローマもマンハッタンにも行ったがいずれもサンフランシスコにはとうてい及ばないという故郷を思う歌だ。原題を直訳すると「私はこころをサンフランシスコに置いている」となるだろうか。今、からだは別の場所にいるがこころはサンフランシスコにあるということ、つまりこころとからだが解離している状態を歌っている。

 

I'm going home to my city by the Bay湾近くの生まれた町に帰ろう

I left my heart in San Francisco

私の心はサンフランシスコにある

作詞Douglass A. Cross

 

これは不思議でも何でもない、ごく自然な気持ちだ。会社にいて家族を思う、教室にいて違うクラスの彼女に思いを馳せる。I Left My Heart in San Franciscoという曲は「こころここにあらず」という状態をロマンティックに歌い上げて世界の人たちの共感を得た名曲なのだ。

サンフランシスコを擬人化して愛唱するこの曲は現在サンフランシスコ市の市歌となっている。

 

 柚子湯してあしたのあしたおもふかな

黒田杏子

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俳句とからだ 86

連載俳句と“からだ” 86

 

 

愛知 三島広志

 

氣と經絡

 観天望気という言葉がある。今日のような天気予報の無い時代、人々は自然現象の中から経験的に長期、短期の天気を予報した。例えば「秋の夕焼け鎌を研げ 春の夕焼け蓑笠を持て」は農事に係る短期的な予報であり、「蜂の巣が低いところに作られる年は台風が多い」という伝承は長期予報といえる。その正確性はともかく、人々は将来への不安を様々な形で解消するための手段を求めたのだ。水利がコントロールされていない時代、雨は降っても降らなくても人々の暮らしに甚大な影響を与える。天気予報でかなり空の様相が分かり、ダムや堤防で自然の脅威から逃れている今日でも毎年のように災害がやってくる。ましてや昔の人の不安の大きさは今日の比ではあるまい。

 

ヒド(デ)リノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

「雨ニモ負ケズ」宮澤賢治より

 

日常、普通に天気と言っているが、気は中国の古い思想から生まれたものだ。気とは現象の奥に実在する勢い、見えない何かを示す。青空に浮ぶ雲の流れから風の存在が見える。風とは気の動きそのものである。陽の気と陰の気のバランスをとるために気が動く、今風に言えば高気圧から低気圧に向かって風が吹く訳だ。

気は天にあれば天気、経済の奥に蠢いているのが景気、役者などが人心に及ぼす影響力が人気。今日でも気という言葉は自然に用いられている。健康で行動的なら元気。これは漢方医療の言葉で親から受け継いだ先天的な勢力が充実している状態を言う。気は元来氣と書いた。これは米から立ち上がる湯気のことだという説がある。つまり蒸気であり蒸気という勢力を用いて動くから汽車となる。

 

夏草に汽缶車の車輪来て止まる

山口誓子

 

身体にも気の動きがある。実と虚と言って身体の中で何かが過剰な状態が実、足りないと虚という。古人はその間を氣が流れていると考えた。その筋道が經絡である。經も旧字体で今の字なら経となる。經は紡錘のことだ。連なりを意味する。経絡は縦横の気の流れる連なりのことであり、風の道は天の経絡と呼んでも間違いではない。

現象はその奥に何らかの蠢きを持っている。表層にとらわれると深奥は見えてこない。これは身体だけでなく職場など人の集団の中にも存在する。指導的立場にあるものは個人の気や集団の気、社会の気、自然の気を敏感に察知し対応しなければならない。明日の天気を読んで鎌を研ぐのか蓑笠を用意するのか。気は怪しいものではなく、実は誰もが当たり前のように感じているものなのである。

 

涼風の曲がりくねつて来たりけり

 小林一茶

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俳句とからだ 85

連載俳句と“からだ” 85

 

 

愛知 三島広志

 

無量

 五十嵐秀彦句集『無量』が上梓された。著者は「藍生(黒田杏子主宰)」「雪華(深谷雄大主宰)」に所属し、藍生新人賞、雪華俳句賞、さらに現代俳句評論賞を受賞している論作ともに定評のある作家である。また氏はblogFacebookを利用して積極的に表現の発信を行っている。私は未だ会ったことのない氏に対し趣のある喫茶店で音楽を聞き、珈琲を味わいながら左手に紫煙、右手に萬年筆を携え原稿用紙に向かう文人的高等遊民という印象を抱いている。

 

集中、寺山修司の影響やオマージュを垣間見ることが可能だ。これは氏の原点であろう。青春の焔は生涯身中に燃えているものだ。こうした青春のひかりとかげがこの作者の魅力と考えてよい。

 

 莨火のいつか消えたる余花の雨

 自転車に青空積んで修司の忌

 園丁になりたし薔薇の首を剪る

 博徒らの色とりどりの夏帽子

 

 この作者には追求すべき世界がある。瞽女や一遍、放哉など遊行、漂泊者への思いだ。語りや歌の原点への回帰とも言える。彼はその原点から現代や未来を見据える器の大きさを持っている。

 

 眼球の無量遊行の十三夜

 はまなすや語り部として地に翳る

 伝行基観音冥き秋時雨

 

氏の関心は物事の表層になく常に深奥へ、構造へ、過渡的変化へと向いているのだろう。そこから今を照らし返すのだ。以下の句を見てその志向の強さを感じる。

 

去年今年夢の腑分けははかどらず

解剖の詩学櫻の頌歌かな

いただきし鱈さばくともあばくとも

 

作者の季節や速度への捉え方には独特のものがある。彼の身体感覚から立ち上がるもので知的処理されたものではない。

 

街角を曲がる角度で冬に入る

夜に還る隧道を抜け冬を抜け

秒針の速度牡丹雪の速度

千年は散るに迅くて春の雪

 

彼の俳句や評論は決して単純ではない。それは現象が内包する歴史や社会、つまり時空間を抱え込んだ重層性に目を向けているからだ。彼の表現が難解なのではない、彼の見ようとする世界が難解なのだ。それが五十嵐秀彦の世界の厚みになっている。

以下の句には彼の詩人としての性向が読み取れるのではないだろうか。

 

外套をまとひちひさき闇まとふ

氷柱折るときなにものか折られけり

片蔭やわが身の洞もしづもれる

夏の蝶地下水脈を知つてゐる

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俳句とからだ 84

連載俳句と“からだ” 84

 

 

愛知 三島広志

 

脱皮

 ある日、昼食を摂った後、少し時間があったので公園の緑陰で時を過ごした。炎天下、影は大地に灼きついていた。見ると幹や木の葉のあちこちで蝉の抜け殻が熱風に吹かれている。おそらく午後七時頃来れば穴から出て一心不乱に地を這い、幹を駆け登る幼虫を見ることができるだろう。さらに十時頃には羽化したばかりの弱法師のような蝉に出会える。無論昼間の公園には夏を啼き過ごす蝉の声ばかりで生きた幼虫はいない。しかも暑い時間は蝉もあまり啼かない。暇だったので抜け殻のある樹の根元や草叢を探ってみた。案の定、脱皮できなかった蝉の幼虫を数個拾うことができた。脱皮途上でこと切れた無念の蝉骸もあった。

 

子を殴ちしながき一瞬天の蝉

秋元不死男

 

 蝉を含む昆虫は外骨格だ。節足動物門(甲殻綱や昆虫綱など)は外骨格、即ち皮膚が固く骨化し、内部を保護・支持すると同時に骨格として動きに寄与する。ヒトを含む脊椎動物門は内骨格だ。蝉は外骨格で幼虫として地下に三年から長い種では十七年も棲み、終齢幼虫が地上に出て羽化する。以前、蝉は一週間ほどしか生きられないと言われたがこれは飼育の困難さからの誤解で実際は一ヶ月位生きるのではないかとされている。つまり蝉は最も長生きする昆虫の一つなのだ。その終齢幼虫が脱皮した後残されているのが抜け殻となる。空蝉とか蝉退と呼ばれ漢方薬の材料になる。

 

 蝉時雨子は担送車に追ひつけず

石橋秀野

 

 外骨格は外が硬いので内部保護に優れている。人体でも脳を守る頭蓋は外骨格と同じ形態だ。骨盤も胸郭も内部を保護する。甲殻類は水圧に耐えるため外骨格は最適である。魚類の鱗も外骨格に入れる場合もある。これも水圧から身を守るためだ。

ではなぜヒトは内骨格を選んだのだろう。調べると外骨格は動きが制限されるため大型化に不向きと書かれていた。外骨格を巨大化すると付随して筋肉も大きくしなければならないが、外骨格という容器に入っているので筋肉を大きくすると必然的に内臓などの空間が占拠されてしまうのだ。

また、終に羽化できない終齢幼虫があるように脱皮は危険を伴う。しかも脱皮直後は外骨格がまだ固まらないので弱い上に飛翔もできない。その間に猫や鳥に襲われることもある。したがって安全な夕方に地上に出て、明け方までに乾かすことが必須なのだ。頑丈だから採用された外骨格もその矛盾点が内骨格へと進化の矛先を変えたのだろう。

 

空蝉のいづれも力抜かずゐる

阿部みどり女

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俳句とからだ83

連載俳句と“からだ” 83

 

 

愛知 三島広志

 

直立して得た矛盾

 生物の進化に関しては昔から考察されてきた。古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロス(前610-546)は生物が海で誕生し陸に上がったと推測している。また荘子(前369 –286)も生物が環境に適応して様々な形態をしている事実から生物の恒常的変化を説いている。

 

進化が初めて科学的に論じられたのはラマルク(1744-1829)の用不用説。そしてチャールズ・ダーウィン(1809- 1882)の進化論へ続く。反進化論もあるようだが、現代では概ね生物は進化していくと考えられている。但し注意すべきは進化とは変化であって決して進歩ではないということ。進化が必ずしも進歩になっていないことは、目下進化の頂点にあると思われる人類の愚かさを見れば明らかだ。

 

鮟鱇や嘘かまことか進化論

       遠藤真太郎

 

 分類学上ヒトは哺乳綱・サル目・ヒト科に属す。さらにヒト科はオランウータン亜科とヒト亜科、ヒト亜科にヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属がある。ヒトとゴリラとチンパンジーは近似なのだ。

 

ヒトとゴリラ・チンパンジーとの差の一つに直立がある。ヒトは直立することで重い頭脳を得たと同時に、両手が完全に解放された。近似のゴリラやチンパンジーの上肢は歩行の補助に使用しており完全解放されていない。ヒトは直立で得た巨大な頭脳と解放された手で歴史を編み、今日の社会を作り上げた。

しかし同時に直立はヒトの上下意識を明確にしたという矛盾も孕む。「籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」と詠まれるように社会には階層がある。その階層を是とするのが封建制であり、近代市民社会が自由平等友愛を唱え絶対的権力者という上層を革命によって排除することで自由で平等な社会を目指した。

上は偉いというヒエラルキー、これは直立することによる身体感覚が生み出したと仮定されるのだ。地面を這っている二次元世界ではこうした階層は明確にはならないだろう。したがって近代社会は階層と平等という矛盾を包摂と止揚することで成立しているのだ。

 

山桜生きとし生けるものすべて

伊藤哲子

 

 生物とは自己保存と種族保存を行う存在だ。そのために他者を区別し自己(含仲間)を守る闘争能力を本来的に所有している。直立して得た頭脳は闘争という自然界の輪廻から自由平等友愛への解放を目指した。しかし現実にはその根は深く未だに戦争や闘争は無くならない。否、直立することで階層性が明確になり更に複雑化したように見受けられる。

 

向日葵や先人は皆直立し 成川崖花

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