俳句とからだ 87
連載俳句と“からだ” 87
愛知 三島広志
こころとからだの解離
こころとからだは不即不離、心身一如である。こころがからだを縛り、からだの状態がこころに影響する。熟練のスポーツ選手が精神緊張からつまらないミスをするのはこころがからだを縛るからだ。逆にこころが澄み渡っていつもなら考えられないような優れたパフォーマンスを示すこともある。こころとからだの関係は一筋縄ではいかないが、一般にこころはからだの上に君臨し、からだはこころに隷属する傾向がある。
しかし反面、それらは容易に分離する。病的に分離することを解離と呼び幻覚や幻聴を生み出すことは知られている。ところが解離は必ずしも病的なものばかりではない。むしろ日常ごく当然のごとく解離は起こっている。これらには心理的解離や生理的解離がある。生理的解離は睡眠であり、眠っている時トイレに行ったことを覚えていないような現象だ。心理的解離は授業に飽きてふと他ごとを考えてしまう白日夢のようなもの。あるいはテレビドラマに夢中になって人から呼ばれても気づかない状態。からだはそこにあってもこころはどこかに浮遊している状態だ。これらは誰にも経験があることだろう。
初夢のいきなり太き蝶の腹
宇佐美魚目
1950年代に世界的ヒットとなったトニー・ベネットの「霧のサンフランシスコ」という曲がある。あるいは「思い出のサンフランシスコ」と呼ばれることもある。この曲はまさにそんな解離を歌ったものだ。原題は「I Left My Heart in San Francisco」。パリもローマもマンハッタンにも行ったがいずれもサンフランシスコにはとうてい及ばないという故郷を思う歌だ。原題を直訳すると「私はこころをサンフランシスコに置いている」となるだろうか。今、からだは別の場所にいるがこころはサンフランシスコにあるということ、つまりこころとからだが解離している状態を歌っている。
I'm going home to my
city by the Bay湾近くの生まれた町に帰ろう
I left my heart in San Francisco
私の心はサンフランシスコにある
作詞Douglass A. Cross
これは不思議でも何でもない、ごく自然な気持ちだ。会社にいて家族を思う、教室にいて違うクラスの彼女に思いを馳せる。I Left My Heart in San Franciscoという曲は「こころここにあらず」という状態をロマンティックに歌い上げて世界の人たちの共感を得た名曲なのだ。
サンフランシスコを擬人化して愛唱するこの曲は現在サンフランシスコ市の市歌となっている。
柚子湯してあしたのあしたおもふかな
黒田杏子
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