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2014年2月12日 (水)

俳句とからだ 86

連載俳句と“からだ” 86

 

 

愛知 三島広志

 

氣と經絡

 観天望気という言葉がある。今日のような天気予報の無い時代、人々は自然現象の中から経験的に長期、短期の天気を予報した。例えば「秋の夕焼け鎌を研げ 春の夕焼け蓑笠を持て」は農事に係る短期的な予報であり、「蜂の巣が低いところに作られる年は台風が多い」という伝承は長期予報といえる。その正確性はともかく、人々は将来への不安を様々な形で解消するための手段を求めたのだ。水利がコントロールされていない時代、雨は降っても降らなくても人々の暮らしに甚大な影響を与える。天気予報でかなり空の様相が分かり、ダムや堤防で自然の脅威から逃れている今日でも毎年のように災害がやってくる。ましてや昔の人の不安の大きさは今日の比ではあるまい。

 

ヒド(デ)リノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

「雨ニモ負ケズ」宮澤賢治より

 

日常、普通に天気と言っているが、気は中国の古い思想から生まれたものだ。気とは現象の奥に実在する勢い、見えない何かを示す。青空に浮ぶ雲の流れから風の存在が見える。風とは気の動きそのものである。陽の気と陰の気のバランスをとるために気が動く、今風に言えば高気圧から低気圧に向かって風が吹く訳だ。

気は天にあれば天気、経済の奥に蠢いているのが景気、役者などが人心に及ぼす影響力が人気。今日でも気という言葉は自然に用いられている。健康で行動的なら元気。これは漢方医療の言葉で親から受け継いだ先天的な勢力が充実している状態を言う。気は元来氣と書いた。これは米から立ち上がる湯気のことだという説がある。つまり蒸気であり蒸気という勢力を用いて動くから汽車となる。

 

夏草に汽缶車の車輪来て止まる

山口誓子

 

身体にも気の動きがある。実と虚と言って身体の中で何かが過剰な状態が実、足りないと虚という。古人はその間を氣が流れていると考えた。その筋道が經絡である。經も旧字体で今の字なら経となる。經は紡錘のことだ。連なりを意味する。経絡は縦横の気の流れる連なりのことであり、風の道は天の経絡と呼んでも間違いではない。

現象はその奥に何らかの蠢きを持っている。表層にとらわれると深奥は見えてこない。これは身体だけでなく職場など人の集団の中にも存在する。指導的立場にあるものは個人の気や集団の気、社会の気、自然の気を敏感に察知し対応しなければならない。明日の天気を読んで鎌を研ぐのか蓑笠を用意するのか。気は怪しいものではなく、実は誰もが当たり前のように感じているものなのである。

 

涼風の曲がりくねつて来たりけり

 小林一茶

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