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2013年7月26日 (金)

俳句とからだ 76

連載俳句と“からだ” 76

 

 

愛知 三島広志

 

だぶだぶの服

 以前「藍生」に参加しておられた大石雄鬼さん。彼は元来「陸」の会員で後に「藍生」にも暫く参加、現在は「陸」の編集長の重責にある。半年ほど前、偶然インターネットで再会し、その上句集『だぶだぶの服』(ふらんす堂)まで頂いた。二十五年の集大成としては何とも人を喰ったような句集名だが、それがいかにも大石さんの俳句を示唆している。

 

 誰かまた曲がらむとする五月闇

 舟虫の化石にならぬため走る

 わが影に穴あいてゐる良夜かな

 

初期の句。いずれも大石さんの俳句の前途を表している。ここには視点や表現の意外性と滑稽がある。五月闇の句、奇妙な省略が不思議な世界を描いている。「だれか」という曖昧さ、「また」という時間的経過、それらが五月闇の不思議をさらに深めることに成功している。舟虫の句は三葉虫の化石を想起させて愉快だ。影の穴の句も独自の世界を見せてくれる。

 

 みな尻をもちて神輿のあと歩く

 螢狩してきし足を抱いて寝る

 手の音もまじり無月の鼓うつ

 

身体に拘るのも大石さんの傾向だ。その扱いは実態としての身体ではなく一部を誇張することで写実ではない虚の世界を生み出す。捏造ではなく読み手に想像させる素材と表現を提供しているのだ。祭り神輿を担ぐ男たちの褌から弾ける尻に視点を向けることで色々なことが見えてくるではないか。螢狩の夜の豊かな孤独感も捨てがたい。無月の鼓は発見だ。鼓の音は確かに手と鼓の共演に他ならない。

 

 冬花火からだのなかに杖をつく

蝙蝠の心臓空をふらふらす

鰯雲荷物のやうに我を置く

 

凍てつく空に打ち上げられる花火だろうか。天空へ飛ぶ一条の筋と身体内の軸の感覚。この作者の類まれな身体感覚に驚かされる一句だ。これは蝙蝠に心臓を見抜く感覚や我が身を荷物のように置くという比喩とも共通する。こうした身体感覚に裏付けされていればこそ大石さんの俳句に多く見られる穿ちや捻りが穿ち過ぎず、捻り過ぎない完成度を示しているのではないだろうか。

 

 龍之介の墓が日傘のなかにあり

 東京タワーの股の間で氷菓喰ふ

 

これらの句には浮世絵のような誇張した構図がある。あるいはそのような構図だと思って鑑賞すると面白い。

 

俳句は短い言語で図柄として切り取られた瞬間、書かれなかった素地が別の世界として立ち上がる。ここに俳句の短さの恩恵がある。大石俳句はソツのない表現でその世界を展くことに成功している。

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