俳句とからだ 77
連載俳句と“からだ” 76
愛知 三島広志
伝統ってなんだ
仕事先で若い女性から「大正生まれですか、昭和ですか」と尋ねられた。戦後生まれの私としては些かショックであったが、それ以上に驚いたことは平成生まれの彼女からすれば既に昭和も大正も歴史の範疇ということだ。戦後生まれの私でさえも彼女にとっては歴史的存在なのだ。私自身二十代には年配の方から「戦争中は何処にいたのか」と度々聞かれたことがある。「まだ生まれていませんよ」と笑いながら答えたものだが今考えれば私が生まれたのは戦争が終って十年経っていない。しかしながら私にとって戦争は既に遠い歴史的存在でしかなかった。
降る雪や明治は遠くなりにけり
中村草田男
人は生まれる前を歴史として学ぶ。そして生まれて以後を自分史として経験する。以前「オリンピックの時は…」と言う私に「いつのオリンピックですか」と質問した年少者がいた。「東京だよ」と答えると「歴史の時間に習いました」との反応。これもまたその人にとっては生まれる前のことだから歴史なのだ。
しかし歴史は意外と卑近でもある。私の生まれる百年前、ペリーが黒船でやって来た。1853年のことだ。大昔だと思っていたが還暦近くまで生きてみるとそれは自分の生まれるたった百年前の出来事だったのかと愕然とする。しかもそれは遥か江戸時代なのだ。高齢社会の現在なら百年は一人の人生の長さではないか。歴史や時代の感覚とは如何に自分中心に都合よく考えているのか思い知った。
伝統とは何だろう。何々家の伝統と言うが日本人の多くが苗字を持ったのは僅か150年前のことだ。また、ほとんどの日本人が米飯を常食し始めたのは戦時下の配給からだと言われる。単に物心ついた時行われていたことが漠然と伝統だと思われるだけで、実はそれほど大した歳月を経てはいない。現行の婚姻制度にしても明治の民法制定以降140年でしかない。米食も婚姻制度も弥生時代から2000年の伝統があると勘違いしている。明治までは武士階級以外は夜這婚、武士にしても離婚は三行半で容易に行われた。また江戸庶民は白米を常食したので江戸患(脚気)に罹ったのだ。
今日、日常的に行われていることが遠い過去から存在し、現在を通過して未来永劫継続すると勘違いする。これは感覚的歴史認識の危うさだ。今日伝統と思われていることの多くは明治以降に発生したものだ。剣道も柔道もその歴史は意外と浅い。俳句の歴史も子規以来、百年に少し上乗せした年月に過ぎない。身体感覚は時に深い叡智を示すが、単なる感覚的判断は前提や歴史観を誤ると大変危険なこともある。
生きかはり死にかはりして打つ田かな
村上鬼城
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