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2013年7月

2013年7月26日 (金)

俳句とからだ 82

連載俳句と“からだ” 82

 

 

愛知 三島広志

 

サバイバーズ・ギルト

 『藍生』平成256月号の「照井翠特集」は圧巻だった。東北大震災時、釜石の高校教師であった照井は現場の阿鼻叫喚を体験し、それ以後、俳句を書くことで自己を立て直しつつ生きてきた。震災の夜の体育館。そこではかけがえの無い多くのいのちがかけがえの無い関係を結び合って必死で生き抜いた。そうした極限にあってもなお照井は言葉の節度を失わない。そうした言葉によって産み出された俳句によって、反対に読み手であるこちらの言葉が奪われていく。これはTwitterで発言し続けた詩人和合亮一と同様、言葉の復権だろう。未曾有の体験は言葉の命を蘇らせる。

 

 寒昴たれも誰かのただひとり 照井翠

 

 文中、最も心を惹かれたところ、それは「被災地では誰もが皆、生き残った自分を責めていた」あるいは「当時釜石は、誰にも言えないことをひとり抱えて苦しむ、暗闇のなかにいる人たちの街であった」というところだ。こうした心理的傾向はサバイバーズ・ギルト(生き残ってしまった罪悪感)と呼ばれ、心理学では戦争や災害、事故などに偶然遭遇しながら自分だけが助かったことに罪悪感を感じること説明される。それは例えば特攻隊や戦艦大和の生存兵、池田小学校で子どもを護ることが出来なかった教師などに見られることで知られる。

井上ひさしの戯曲『父と暮らせば』は原爆で生き残った広島の若い女性がサバイバーズ・ギルトに苦しむ様子を描いている。若い女性がある男性を好きになりながらもこの罪悪感から自分だけが幸せになることを許さない。その苦しい思いを何とか解き放とうと被爆死した父が霊となって娘と暮らすという物語だ。

 

 春昼の冷蔵庫より黒き汁 照井翠

 

 しかし考えてみれば誰もが濃淡こそ異なるがサバイバーズ・ギルトを抱いて戦後の社会を生きてきた。今ある社会はその集大成だ。災難は直接間接に人を苦しみへ導く。今回も渦中にあった方々だけがサバイバーズ・ギルトを感じた訳ではない。遠く離れた地にいる人々も靄がかかったまま生きている気がしてならない。この共感性こそサバイバーズ・ギルトを生むものなのだろう。

震災、津波、原発事故。ここからの復興はまだ何も見えていない。釜石の高校生たちはこの重いギルトを直接抱えてこれから先の人生を生きていくことだろう。我々に何が出来るのか。もし近くにそうした人たちがいたら、その心中を推測し、傾聴し、適度な距離で見守ることしか思いつかない。そしてこうした句集がぼつぼつと出てくることは多くのサバイバーズ・ギルトへの癒しとなるに違いない。

 

 流灯にいま生きてゐる息入るる 

照井翠

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俳句とからだ 81

連載俳句と“からだ” 81

 

 

愛知 三島広志

 

技と術

 学生時代、大学の図書館で偶然吉本隆明編集の『試行』に出会った。これは「いかなる既成の秩序、文化運動からも自立した思考」を標榜した思想誌で当初は谷川雁などと共同編集だったが、11号以降、吉本の単独編集となり、実に36年間74号も継続したという。

 

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ

山口誓子

 

私はアルバイトに明け暮れ大学には少林寺拳法のためだけに通うという似非大学生だった。ただ少林寺拳法をやっていたので『試行』に連載されていた「武道の理論」という論文に大変興味を抱いた。著者は南鄕継正という空手家でこの論は後に三一書房から発行されている。南鄕は「武道の理論」で旧来形而上学的に説かれていた武道の極意を科学として唯物論的弁証法で斬ってみせると豪語していた。その中で特に興味を引いたのが「技には創出と使用」という二面があるという点だった。弁証法とは現象に潜む矛盾あるいは対立を明確にしつつ発展運動していく思考方法である。例えば柔道の背負投には「作る過程」と「使う過程」という二面性がある。これが矛盾であり対立だ。それを理解せず闇雲に練習しても上達は覚束無い。作る過程ではそれを意識して背負投という形をきちんと作る。しっかりと創出して初めて試合で自由に使うことが可能となるのだ。たまたま読んでいた吉川英治の『宮本武蔵』円明の巻に「城太郎は、人を投げる技を知っていたが、まだ、人を投げる法を弁えていない」という一文があった。投げつけた男から斬られた場面である。「武道の理論」に置き換えて言えば、城太郎は投げる技の創出は出来ていたが使用の段階で失敗したということだろう。

 熟語には意味の似た言葉を組み合わせたものが多い。技術や技法もそうだ。南鄕が「武道の理論」で「技には創出と使用がある」と述べたことは実は中国の熟語の中で既に「技術」として直感的に理解されていた。それを論理的に解いたのが南鄕理論ということになる。少林寺拳法でも技・術・略の別についての講義があった。技をどう身に付けるか、どう使用するのか(戦術)、何のために用いるのか(謀略)ということだ。

 

 俳句の有季定型という器。これはそれ自体が技の体をなしている。その器に季語と五七五を放り込みさえすれば取り敢えず俳句の体裁は整う。自由律だとそうはいかない。現代詩も難しい。俳句や短歌が一般的詩歌として身近にあるのはすでに技として用意されているからだ。しかし術と略は簡単ではない。何のために詠むのか、どう詠むのか。これは孤独な営為だ。俳句は自得するしか無いとはこのことを言うのだろう。

 

混沌が形になりし蟇 福原實

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俳句とからだ 80

連載俳句と“からだ” 80

 

 

愛知 三島広志

 

音楽と記憶

 ある高齢者施設で入居者の医療的マッサージ施術を担当している。その中にAさんという七十代後半の男性がおられる。Aさんは脳血管障害後遺症で左半身が麻痺し、さらに認知症と統合失調症などの精神的疾患も抱えておられる。薬学部を出られたインテリで通常の会話は構音障害で聞き取り難いことを除けば可能である。しかし施術途中、絶えず天井裏や床下に住むという息子に大声で語りかけておられる。Aさんの部屋には少しでも孤独感を癒そうと家族の意向でラジオが置かれている。ラジオは幻聴を誘発するので必ずしも良いとは言えないのだが終日室内を音で満たしている。

 

巣燕に昼のラヂオが楽送る  

中村汀女

 

ある日、ラジオから古い流行歌が聞こえてきた。北原謙二が歌う「ふるさとのはなしをしよう」(作曲:キダ・タロー   作詞:伊野上のぼる)という1965年(昭和40年)のヒット曲だ。東京オリンピックの翌年、まさに高度成長期でAさん若かりし頃の歌。例によってAさんは私と話をしながら天井裏に住むという息子さんに「おい、先生がいらっしゃったから挨拶に降りて来い」と何度も声をかけておられた。彼の心は現実と幻覚の中を行き来している。それら一切が彼の現実なのだ。ところが曲の終盤

 

きみの知らない ぼくのふるさと

ふるさとの はなしをしよう

 

というフレーズが流れだした途端一緒に歌い出し「懐かしい、涙が溢れる」と手で顔を覆って涙を流された。音楽がAさんの心を掴み、懐かしさを蘇らせたのだ。

 

葱坊主どこをふり向きても故郷

寺山修司

 

 音楽と身体に関する研究は多くなされている。治療としても実践され日本では1960年代年から精神障害者の心理療法、障害児に対する発達療法、認知症やターミナルケアなどの現場で音楽療法として行われている。確かに音楽は身体に何らかの変容を促す。リズムに合わせて思わず身体が動くという現象面だけでなく音楽の何かが細胞一個一個に浸透、蓄積し新たな身体を展開してくるのだ。音楽は国境や言語を超えた影響能力を所有している。それは記憶に留まらない感興を身体内に巻き起こす。まさに身に染むと言える。とりわけ流行歌にはその人の生きた時代の強い思いが染みこんでおり、曲や歌詞を聞いた瞬間当時の記憶が身体の深奥から湧き上がる。それは感情として身体化し外部に迸る。それが先のAさんの涙なのだろう。

 

手毬唄かなしきことをうつくしく

高浜虚子

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俳句とからだ 79

連載俳句と“からだ” 79

 

 

愛知 三島広志

 

民藝運動と瀬戸本業窯

 名古屋市郊外に瀬戸市という陶磁器の街がある。瀬戸焼の歴史は古墳時代まで遡行でき、しかも六古窯(瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、丹波立杭焼、備前焼)の中で瀬戸のみが釉薬を用いていた。その抜きん出た技術は焼き物を瀬戸物と呼ぶことからも理解できる。しかし秀吉の時代、朝鮮半島から連れて来られた李参平が肥前有田で磁石を発見し国内でも磁器の製作が始まった。これにより瀬戸の陶器は売れなくなった。瀬戸物復興のため尾張藩は有田へ職人を派遣し、門外不出の磁器技術を持ち帰えらせたとされている。その結果瀬戸は再び陶磁器産業で発展し、特に戦後は海外向けの食器や磁器の人形で栄えた。しかし今日、多くの産業と同様、安価な海外製品に押され厳しい経済状況となっている。

 

轆轤挽く春の指先躍らせて

木暮陶句郎

 

 瀬戸市内には現在でも磁器以前の伝統技術を継承している窯が残っている。これが瀬戸本業窯である。その製品は重く野暮ったい陶器だが温かみのある色調と手触りから多くの人(白洲正子など)に愛用されている。この本業窯が脚光を浴びるきっかけとなったのが大正末期、白樺派に属していた柳宗悦を中心に始まった民藝運動だ。民藝運動とは日用品の中に「用の美」を見出そうとするものだ。柳に賛同した著名人にはバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、棟方志功などがいる。本業窯六代目水野半次郎は柳の思想に共鳴し濱田やリーチの指導と自らの研鑽によって鎌倉以来の伝統を守る本業焼きに新しい息吹を吹き込み、現在まで本業窯の火を保つことに成功した。現在も七代目と八代目継承予定者が窯を守っている。

 

陶工は無名でありし白桔梗 

伊藤敬子

 

 この窯は昔の技法を保持して藁灰から釉薬を作っている。その乳白色は柔らかく温かい上に掌を通して優しさが伝わってくる。本来、道具とは身体の延長である。しかしよく出来た道具は逆に身体に働きかけ、身体を導いてくれる。素晴らしい真剣はそれを扱う時、剣士に正しい振り方を示してくれるという所以だ。そこに道具と身体との相互浸透が生じ、道具と身体が一体化する。一体化した身体は道具を抱く以前の身体とは異なる身体となっているのだ。茶の湯が好まれる理由の一つが手と茶碗の関係における快感だろう。茶碗は見て、手で触れて持ち上げ、口を当てるという行為の中で身体を心地よく制御してくれる。身体と道具との間にこのような浸透が起こるからこそ人は様々な道具に執着するのだろう。

 

陶工の大きてのひら冬に入る

茨木和生

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俳句とからだ 78

連載俳句と“からだ” 78

 

 

愛知 三島広志

 

暦と十二支

新年になると「今年のえとは?」「蛇(巳年)だよ」などという会話が交わされるがこれは間違いだ。どこが間違っているのか。ということで今回は暦の話。

 

暦はすでに殷の時代(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)からあり、十干と十二支の組合せで作られている。十干とは甲乙丙丁戊己庚辛壬癸のことだ。訓読みではきのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのととなる。これは五行説の木火土金水から来ている。

 

古暦とはいつよりぞ掛けしまま

後藤夜半

 

もう一方の十二支は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥(し・ちゅう・いん・ぼう・しん・し・ご・び・しん・ゆう・じゅつ・がい)だが鼠や牛など十二獣と混同されている。本来干支とは生命消長の循環過程を示す符合であり、木火土金水や鼠牛虎などの実態とは何ら関係ない。もちろん蛇年生まれは陰険などという説明は血液型と同様、全く無意味な俗信である。

ところが興味深いことに十二獣はロシアや東欧にも伝わっており動物もほぼ同じである。その混同は既に秦代(紀元前778 - 紀元前206年)からあったようで、発見された竹簡には動物が配当されているという。符合を動物に置き換えることで親しみが湧くことは確かだろう。

 

さて冒頭の「今年のえとは?」という質問に戻る。前述したように「えと」は甲(きの)乙(きの)のような十干のことだった。木の兄(え)木の弟(と)なのだ。したがって「今年のえとは?」と聞かれたら癸(みずのと)と答えるのが正しく、巳年と答えるのは間違いなのだ。今年は癸巳の年なのだから。もっともこれでは親しみも面白みもない。

 

十二支みな闇に逃げこむ走馬灯

黒田杏子

 

知られているように暦は六十年で一周りするので数え年の六十一歳を還暦という。暦は十干と十二支を順番に組み合わせて作られている。したがって暦の最初の年は甲と子の組み合わせで甲子(きのえね)、次は乙丑(きのとうし)、丙寅(ひのえとら)。順々に組み合わせて六十番目が癸亥(みずのとい)で一巡する。つまり十干の10と十二支の12の最小公倍数が60。そこで還暦は六十年となる訳だ。ちなみに甲子の年、1924年に建造された有名な野球場が甲子園であり、甲子男さんという名の人は多くこの年に生まれている。また、明治政府確立を世界に知らしめることになった1868年の戊辰戦争は戊辰の年であった事が分る。

 

還暦のひとに涼しき青畳

白石喜久子

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俳句とからだ 77

連載俳句と“からだ” 76

 

 

愛知 三島広志

 

伝統ってなんだ

 仕事先で若い女性から「大正生まれですか、昭和ですか」と尋ねられた。戦後生まれの私としては些かショックであったが、それ以上に驚いたことは平成生まれの彼女からすれば既に昭和も大正も歴史の範疇ということだ。戦後生まれの私でさえも彼女にとっては歴史的存在なのだ。私自身二十代には年配の方から「戦争中は何処にいたのか」と度々聞かれたことがある。「まだ生まれていませんよ」と笑いながら答えたものだが今考えれば私が生まれたのは戦争が終って十年経っていない。しかしながら私にとって戦争は既に遠い歴史的存在でしかなかった。

 

 降る雪や明治は遠くなりにけり

中村草田男

 

人は生まれる前を歴史として学ぶ。そして生まれて以後を自分史として経験する。以前「オリンピックの時は…」と言う私に「いつのオリンピックですか」と質問した年少者がいた。「東京だよ」と答えると「歴史の時間に習いました」との反応。これもまたその人にとっては生まれる前のことだから歴史なのだ。

しかし歴史は意外と卑近でもある。私の生まれる百年前、ペリーが黒船でやって来た。1853年のことだ。大昔だと思っていたが還暦近くまで生きてみるとそれは自分の生まれるたった百年前の出来事だったのかと愕然とする。しかもそれは遥か江戸時代なのだ。高齢社会の現在なら百年は一人の人生の長さではないか。歴史や時代の感覚とは如何に自分中心に都合よく考えているのか思い知った。

伝統とは何だろう。何々家の伝統と言うが日本人の多くが苗字を持ったのは僅か150年前のことだ。また、ほとんどの日本人が米飯を常食し始めたのは戦時下の配給からだと言われる。単に物心ついた時行われていたことが漠然と伝統だと思われるだけで、実はそれほど大した歳月を経てはいない。現行の婚姻制度にしても明治の民法制定以降140年でしかない。米食も婚姻制度も弥生時代から2000年の伝統があると勘違いしている。明治までは武士階級以外は夜這婚、武士にしても離婚は三行半で容易に行われた。また江戸庶民は白米を常食したので江戸患(脚気)に罹ったのだ。

 

今日、日常的に行われていることが遠い過去から存在し、現在を通過して未来永劫継続すると勘違いする。これは感覚的歴史認識の危うさだ。今日伝統と思われていることの多くは明治以降に発生したものだ。剣道も柔道もその歴史は意外と浅い。俳句の歴史も子規以来、百年に少し上乗せした年月に過ぎない。身体感覚は時に深い叡智を示すが、単なる感覚的判断は前提や歴史観を誤ると大変危険なこともある。

 

生きかはり死にかはりして打つ田かな

村上鬼城

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俳句とからだ 76

連載俳句と“からだ” 76

 

 

愛知 三島広志

 

だぶだぶの服

 以前「藍生」に参加しておられた大石雄鬼さん。彼は元来「陸」の会員で後に「藍生」にも暫く参加、現在は「陸」の編集長の重責にある。半年ほど前、偶然インターネットで再会し、その上句集『だぶだぶの服』(ふらんす堂)まで頂いた。二十五年の集大成としては何とも人を喰ったような句集名だが、それがいかにも大石さんの俳句を示唆している。

 

 誰かまた曲がらむとする五月闇

 舟虫の化石にならぬため走る

 わが影に穴あいてゐる良夜かな

 

初期の句。いずれも大石さんの俳句の前途を表している。ここには視点や表現の意外性と滑稽がある。五月闇の句、奇妙な省略が不思議な世界を描いている。「だれか」という曖昧さ、「また」という時間的経過、それらが五月闇の不思議をさらに深めることに成功している。舟虫の句は三葉虫の化石を想起させて愉快だ。影の穴の句も独自の世界を見せてくれる。

 

 みな尻をもちて神輿のあと歩く

 螢狩してきし足を抱いて寝る

 手の音もまじり無月の鼓うつ

 

身体に拘るのも大石さんの傾向だ。その扱いは実態としての身体ではなく一部を誇張することで写実ではない虚の世界を生み出す。捏造ではなく読み手に想像させる素材と表現を提供しているのだ。祭り神輿を担ぐ男たちの褌から弾ける尻に視点を向けることで色々なことが見えてくるではないか。螢狩の夜の豊かな孤独感も捨てがたい。無月の鼓は発見だ。鼓の音は確かに手と鼓の共演に他ならない。

 

 冬花火からだのなかに杖をつく

蝙蝠の心臓空をふらふらす

鰯雲荷物のやうに我を置く

 

凍てつく空に打ち上げられる花火だろうか。天空へ飛ぶ一条の筋と身体内の軸の感覚。この作者の類まれな身体感覚に驚かされる一句だ。これは蝙蝠に心臓を見抜く感覚や我が身を荷物のように置くという比喩とも共通する。こうした身体感覚に裏付けされていればこそ大石さんの俳句に多く見られる穿ちや捻りが穿ち過ぎず、捻り過ぎない完成度を示しているのではないだろうか。

 

 龍之介の墓が日傘のなかにあり

 東京タワーの股の間で氷菓喰ふ

 

これらの句には浮世絵のような誇張した構図がある。あるいはそのような構図だと思って鑑賞すると面白い。

 

俳句は短い言語で図柄として切り取られた瞬間、書かれなかった素地が別の世界として立ち上がる。ここに俳句の短さの恩恵がある。大石俳句はソツのない表現でその世界を展くことに成功している。

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