俳句とからだ 82
連載俳句と“からだ” 82
愛知 三島広志
サバイバーズ・ギルト
『藍生』平成25年6月号の「照井翠特集」は圧巻だった。東北大震災時、釜石の高校教師であった照井は現場の阿鼻叫喚を体験し、それ以後、俳句を書くことで自己を立て直しつつ生きてきた。震災の夜の体育館。そこではかけがえの無い多くのいのちがかけがえの無い関係を結び合って必死で生き抜いた。そうした極限にあってもなお照井は言葉の節度を失わない。そうした言葉によって産み出された俳句によって、反対に読み手であるこちらの言葉が奪われていく。これはTwitterで発言し続けた詩人和合亮一と同様、言葉の復権だろう。未曾有の体験は言葉の命を蘇らせる。
寒昴たれも誰かのただひとり 照井翠
文中、最も心を惹かれたところ、それは「被災地では誰もが皆、生き残った自分を責めていた」あるいは「当時釜石は、誰にも言えないことをひとり抱えて苦しむ、暗闇のなかにいる人たちの街であった」というところだ。こうした心理的傾向はサバイバーズ・ギルト(生き残ってしまった罪悪感)と呼ばれ、心理学では戦争や災害、事故などに偶然遭遇しながら自分だけが助かったことに罪悪感を感じること説明される。それは例えば特攻隊や戦艦大和の生存兵、池田小学校で子どもを護ることが出来なかった教師などに見られることで知られる。
井上ひさしの戯曲『父と暮らせば』は原爆で生き残った広島の若い女性がサバイバーズ・ギルトに苦しむ様子を描いている。若い女性がある男性を好きになりながらもこの罪悪感から自分だけが幸せになることを許さない。その苦しい思いを何とか解き放とうと被爆死した父が霊となって娘と暮らすという物語だ。
春昼の冷蔵庫より黒き汁 照井翠
しかし考えてみれば誰もが濃淡こそ異なるがサバイバーズ・ギルトを抱いて戦後の社会を生きてきた。今ある社会はその集大成だ。災難は直接間接に人を苦しみへ導く。今回も渦中にあった方々だけがサバイバーズ・ギルトを感じた訳ではない。遠く離れた地にいる人々も靄がかかったまま生きている気がしてならない。この共感性こそサバイバーズ・ギルトを生むものなのだろう。
震災、津波、原発事故。ここからの復興はまだ何も見えていない。釜石の高校生たちはこの重いギルトを直接抱えてこれから先の人生を生きていくことだろう。我々に何が出来るのか。もし近くにそうした人たちがいたら、その心中を推測し、傾聴し、適度な距離で見守ることしか思いつかない。そしてこうした句集がぼつぼつと出てくることは多くのサバイバーズ・ギルトへの癒しとなるに違いない。
流灯にいま生きてゐる息入るる
照井翠
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