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2013年7月26日 (金)

俳句とからだ 81

連載俳句と“からだ” 81

 

 

愛知 三島広志

 

技と術

 学生時代、大学の図書館で偶然吉本隆明編集の『試行』に出会った。これは「いかなる既成の秩序、文化運動からも自立した思考」を標榜した思想誌で当初は谷川雁などと共同編集だったが、11号以降、吉本の単独編集となり、実に36年間74号も継続したという。

 

学問のさびしさに堪へ炭をつぐ

山口誓子

 

私はアルバイトに明け暮れ大学には少林寺拳法のためだけに通うという似非大学生だった。ただ少林寺拳法をやっていたので『試行』に連載されていた「武道の理論」という論文に大変興味を抱いた。著者は南鄕継正という空手家でこの論は後に三一書房から発行されている。南鄕は「武道の理論」で旧来形而上学的に説かれていた武道の極意を科学として唯物論的弁証法で斬ってみせると豪語していた。その中で特に興味を引いたのが「技には創出と使用」という二面があるという点だった。弁証法とは現象に潜む矛盾あるいは対立を明確にしつつ発展運動していく思考方法である。例えば柔道の背負投には「作る過程」と「使う過程」という二面性がある。これが矛盾であり対立だ。それを理解せず闇雲に練習しても上達は覚束無い。作る過程ではそれを意識して背負投という形をきちんと作る。しっかりと創出して初めて試合で自由に使うことが可能となるのだ。たまたま読んでいた吉川英治の『宮本武蔵』円明の巻に「城太郎は、人を投げる技を知っていたが、まだ、人を投げる法を弁えていない」という一文があった。投げつけた男から斬られた場面である。「武道の理論」に置き換えて言えば、城太郎は投げる技の創出は出来ていたが使用の段階で失敗したということだろう。

 熟語には意味の似た言葉を組み合わせたものが多い。技術や技法もそうだ。南鄕が「武道の理論」で「技には創出と使用がある」と述べたことは実は中国の熟語の中で既に「技術」として直感的に理解されていた。それを論理的に解いたのが南鄕理論ということになる。少林寺拳法でも技・術・略の別についての講義があった。技をどう身に付けるか、どう使用するのか(戦術)、何のために用いるのか(謀略)ということだ。

 

 俳句の有季定型という器。これはそれ自体が技の体をなしている。その器に季語と五七五を放り込みさえすれば取り敢えず俳句の体裁は整う。自由律だとそうはいかない。現代詩も難しい。俳句や短歌が一般的詩歌として身近にあるのはすでに技として用意されているからだ。しかし術と略は簡単ではない。何のために詠むのか、どう詠むのか。これは孤独な営為だ。俳句は自得するしか無いとはこのことを言うのだろう。

 

混沌が形になりし蟇 福原實

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