俳句とからだ 73
連載俳句と“からだ” 73
愛知 三島広志
医学と医療
精神科医で歌人の斎藤茂吉に有名な逸話がある。患者の頭に聴診器をのせ、或いは耳に耳鼻鏡をつけて覗きこみ「ああ、君の脳は腐っている。大丈夫、ぼくがちゃんと治してあげる」と言ったというものだ。しかしこれは北杜夫が『青年茂吉』(岩波書店刊)に書いているように実際には茂吉ではなくその義父齋藤紀一という豪放な精神科医の逸話がいつしか茂吉のものとして広がってしまったようだ。
こうした診察が現代も許されるかは疑問だが、これはドイツ語でムント・テラピー(口舌療法)といって患者の心理に働きかける善意の方便として臨床の場ではしばしば用いられる。以前はがん患者の精神的落ち込みを懸念して嘘の病名を告げた。これもその一種だろう。
枇杷の種ぽろりと嘘も濡れしまま 中尾杏子
医学と医療。通常気にせず用いているがこの両者の差異はなんだろう。西洋医学の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされ、中世のキリスト教支配暗黒時代に停滞し、ルネサンス期(十四世紀イタリア、神中心から人間中心)に人体に対する実証的な研究が始まり、その後十七世紀デカルトの心身二元論に基づき近代医学として発達した。そして自然科学の発達した十九世紀後半、細菌の発見により医学は飛躍的に進歩し、二十世紀に入り抗生物質やステロイド剤、CTに代表される診察技術の確立等により多くの病気に対応可能となったのだ。
それまでは自然発生あるいは経験主義に基づく民間医療が人々の健康を担っていた。有名なものとしてはイスラムのユナニ、インドのアーユルヴェーダ、中医学(近代に命名された)、日本の漢方などがある。
では冒頭の頭に聴診器という方法は医学的に鑑みてどうであろう。デタラメとしか言いようがないに違いない。しかし臨床的な医療としては北杜夫も精神科医としての立場から祖父の技量を「臨床医としてなかなかの腕前」と認めている。
医学はヒトを扱う自然科学の一分野であり、臨床はその成果を現場で用いる方法である。したがっていささか暴言ではあるが心身や社会的に害のない方法であれば患者を治すためなら「何でもあり」なのだ。そこが臨床医の腕の見せ所であり、それ故医師は科学者と臨床的技術者の二面を止揚して体現しなければならない極めて困難な存在だろうと推測できる。
春寒し医師招かれて死の儀式 相馬遷子
(齋藤茂吉の逸話は「日本大学大学院紀要」小泉博明著を参照)
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