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2013年1月

2013年1月14日 (月)

俳句とからだ 75

連載俳句と“からだ” 75

 

愛知 三島広志

 ブラックカード

 夏石番矢氏から日本国内での第十四句集『ブラックカード』が贈呈された。国外でも精力的に活動されている氏には国内を上回る句集が様々な言語で出版されている。夏石氏は私と同じ世代ということで『猟常記』や『メトロポリティック』から注目してきた。その過激な変容ぶりを追いかけて行くのは困難な作業だが、批判を恐れず未踏の地に鉄槌を打ち続ける存在は安穏たる俳句の世界において極めて貴重だ。

ブラックカードとはフェンシングの悪質行為者に出されるカードだそうだ。このタイトルは現代社会に対して提示されたメタファであることは想像に難くない。そもそも俳句は短さ故に自ずとメタファになるのだが、氏の俳句はそれを強く意識して鑑賞しなければならない。

 鞄開かず時間の滝は浮遊する

 「未来より滝を吹き割る風来る」「千年の留守に瀑布を掛けておく」(共に『メトロポリティック』所収)。氏のこれらの滝の句は教科書に採用されている。前者は未来から今を観るという視点が斬新、後句は悠久の時を詠んでいる。しかしこれら滝三句に出てくる鞄、未来、滝、風、千年の留守、瀑布などを決して普遍的意味で読んではならない。何故なら作者はこれらのコトバを伝達のみの意味で用いていない。コトバの力で鑑賞者の内に強烈な波風を吹き起こすことを意図している。そこを踏まえて三句の滝の違いに注意したい。未来や悠久の時の象徴のような滝が今は開かない鞄の周辺で浮遊しているのだ。これらの句をどう鑑賞するか。これは作者から読者への挑戦に他ならない。決して向こうから歩み寄っては来ない。これは古今の芸術の在り様と同じだ。

 蟻の幸福へ胡椒のような放射能

 この句を読んだ瞬間、「天は個体なり山頂の蟻の全滅(『真空律』所収)」が想起された。天という絶対物と蟻の対比。新句集では蟻的幸福の上に降ってくる放射能が描かれている。今の日本の状況だ。古来優れた詩人は批評家なのである。

 風重し人と人とをへだてる煙

父母亡きふるさとに帰ろうとする寒さ

 これらの句は身辺の死を詠んでいる。個人的感情を一般化することも俳句の一面だ。自然科学が数量的一般化と再現を目指すものなら芸術は心象を一般化し共感を呼び起こすと言ってもいいだろう。現象の中から結晶を抽出し俳句とするのだ。以下共感した作品。

 鏡は嵐の海へ投げられ童は眠る

裸富士ことばの殻のなかにわれら

一枚の毛布に起伏その男の一生

風の首都風の不在に風見える

神の複数を人類の単数が汚染する

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俳句とからだ 74

連載俳句と“からだ” 74

  

愛知 三島広志

 強さと勁さ

 105日、名古屋のしらかわホールで加藤美緒子ピアノリサイタルを拝聴した。加藤さんは愛知県立芸術大学教授。東京藝術大学附属高校同大学を卒業、日本音楽コンクールピアノ部門で優勝、西ドイツ政府給付留学生として若い時代をヨーロッパで研鑽、帰国後は演奏活動と後進指導に多忙な日を送られている。数年前、ショパンだけのリサイタルをされたが今回はシューベルトのソナタイ長調と幻想曲ハ長調“さすらい人”、そしてショパンの24の前奏曲を演奏された。

 ピアノ弾くからだの中の白夜かな 浦川聡子

 “さすらい人”は素人でも分る超絶技巧が凄かった。終わった瞬間、隣席の見知らぬお嬢さんと期せずして顔を見合わせ感嘆のため息をついたほどだ。プログラムにはシューベルト自身が上手に弾けず「この曲は悪魔に演奏させろ」と叫んだというエピソードが書かれている。確かに人間業とは思えない指の動きとそこから生まれる空間の激しいうねりだった。

 加藤さんの演奏を拝見して感心するのはその姿勢の美しさ。鍵盤と顔の距離が常に一定なのである。坐骨から頭頂へ一本の靭やかな線が伸び、肩から両腕が水を飲む白鳥の首のように鍵盤に届いている。彼女の姿勢は柔らかな勁草のようだ。脱力した上肢がピアノに触れ羽撃くようにピアノを自在に響かせる。激しく鳴らす時も繊細に爪弾く時も上体は一定に保たれる。「どうしてあんなに大きな音がそっと触れるだけで出せるのだろう」と、学生さんが不思議がるのも無理はない。

  ショパンは決してロビーのBGMとして聞く曲ではない。悲痛な望郷や結核を通して見え隠れする死の恐怖。これらを表現するには微妙なリズムの変化だけでなく音色も創出しなればならないだろう。一流の演奏家は一音一音に意味を持たせる。ショパンは湿った深い音色を多用しておられるように感じた。そこに作曲家に重ねる加藤さんの哲学があると勝手に解釈している。そのために加藤さんは指先の汗も自在に操れるのではないかと思うほど曲によって音色に表情がある。

  中国拳法に発勁という技法がある。筋力や速度、距離によって運動量を上げるのではなく、そっと触れた状態から爆発的な力を相手に伝えるものだ。加藤さんのピアノ技法はまさに発勁としか思えない。発勁を出すためには身体が固まってはいけない。勁く緩んだ体幹の力が鞭のように鍵盤に伝わることが必要となる。その域に到達するために一体どれだけの時間を費やされてきたことか。苦しまれてきたことか。来し方が人を感動させる。

  ショパン弾き了へたるままの露万朶 中村草田男

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俳句とからだ 73

連載俳句と“からだ” 73

 愛知 三島広志

 医学と医療

 精神科医で歌人の斎藤茂吉に有名な逸話がある。患者の頭に聴診器をのせ、或いは耳に耳鼻鏡をつけて覗きこみ「ああ、君の脳は腐っている。大丈夫、ぼくがちゃんと治してあげる」と言ったというものだ。しかしこれは北杜夫が『青年茂吉』(岩波書店刊)に書いているように実際には茂吉ではなくその義父齋藤紀一という豪放な精神科医の逸話がいつしか茂吉のものとして広がってしまったようだ。

 こうした診察が現代も許されるかは疑問だが、これはドイツ語でムント・テラピー(口舌療法)といって患者の心理に働きかける善意の方便として臨床の場ではしばしば用いられる。以前はがん患者の精神的落ち込みを懸念して嘘の病名を告げた。これもその一種だろう。

 枇杷の種ぽろりと嘘も濡れしまま 中尾杏子

  医学と医療。通常気にせず用いているがこの両者の差異はなんだろう。西洋医学の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされ、中世のキリスト教支配暗黒時代に停滞し、ルネサンス期(十四世紀イタリア、神中心から人間中心)に人体に対する実証的な研究が始まり、その後十七世紀デカルトの心身二元論に基づき近代医学として発達した。そして自然科学の発達した十九世紀後半、細菌の発見により医学は飛躍的に進歩し、二十世紀に入り抗生物質やステロイド剤、CTに代表される診察技術の確立等により多くの病気に対応可能となったのだ。

 それまでは自然発生あるいは経験主義に基づく民間医療が人々の健康を担っていた。有名なものとしてはイスラムのユナニ、インドのアーユルヴェーダ、中医学(近代に命名された)、日本の漢方などがある。

 では冒頭の頭に聴診器という方法は医学的に鑑みてどうであろう。デタラメとしか言いようがないに違いない。しかし臨床的な医療としては北杜夫も精神科医としての立場から祖父の技量を「臨床医としてなかなかの腕前」と認めている。

 医学はヒトを扱う自然科学の一分野であり、臨床はその成果を現場で用いる方法である。したがっていささか暴言ではあるが心身や社会的に害のない方法であれば患者を治すためなら「何でもあり」なのだ。そこが臨床医の腕の見せ所であり、それ故医師は科学者と臨床的技術者の二面を止揚して体現しなければならない極めて困難な存在だろうと推測できる。 

 春寒し医師招かれて死の儀式  相馬遷子

(齋藤茂吉の逸話は「日本大学大学院紀要」小泉博明著を参照)

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俳句とからだ 72

連載俳句と“からだ” 72

 

 

愛知 三島広志

 

 

こそあど

 日本語には「こそあど言葉」と呼ばれる指示語がある。事物を指し示すときなどに用いる「これ、それ、あれ、どれ」に代表される言葉だ。命名は心理学者でもある言語学者佐久間鼎。佐久間はゲシュタルト心理学の紹介と普及に貢献したことでも知られる。時間知覚と空間知覚の相互依存性を意味する「時空相待」も佐久間の造語である。指示語は身体と時空間との関係を示す言語であるから心理学者佐久間が関心を抱いた点は興味深い。

 

これ以上澄みなば水の傷つかむ 上田五千石

 

指示語には4つの系列があり、コ系列を近称、ソ系列を中称、ア系列を遠称と分類する。ド系列は不定称である。自分の手に取ることができる近い空間域にあるものは「これ」、相手の身体に近いものは「それ」、両者から遠いものは「あれ」と思えばよいだろう。場所なら「ここ、そこ、あそこ、どこ」、方向なら「こちら、そちら、あちら、どちら」と子どもの頃から自然に使い分けている。

 

その中にちいさき神や壺すみれ 高浜虚子

 

指示語は空間域のみでなく時間域も示す。「この時、その時、あの時」と次第に距離が広がり、疑問なら「どの時?」となる。

 

案山子翁あち見こち見や芋嵐 阿波野青畝

 

指示語は人称も示す。「こなた」、「そなた」は時代劇で、「あなた」は現在も一般的に使用されている。誰か限定できないときは「どなた?」となる。親しみや逆に憎悪の対象なら「こいつ、そいつ、あいつ、どいつ」である。

「この、その、あの、どの」なら連体詞、「こうする、そうする、ああする、どうする」なら副詞。形容動詞なら「こんな、そんな、あんな、どんな」。いずれも整然としており、外国人が日本語を学習するときとても重宝がる。

 

蜩やどのみちも町へ下りてゐる 臼田亜浪

 

 「こそあど言葉」は身体を起点に生まれたという点で幼児にも使い易い言語なのではないだろうか。子どもと対象物の間に二項関係 が出来ると指差しが始まる。一歳頃だ。子どもは自分とモノとの関係を理解し、さらにその理解を他人と共有したいとき、言語前言語として指差しながら「んっんっ」などと言う。これこそまさに「指示」に他ならない。

 

指さして雪大文字茜さす  黒田杏子

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俳句とからだ 71

連載俳句と“からだ” 71

  

愛知 三島広志

分かるは分かる

 「百聞は一見に如かず」という。英語ではSeeing is believingだ。見て確認できた時「分かった。I see」という。見て何が分かるのだろう。それは対象の差異を分別して区切ることができたということに他ならない。つまり対象を分節しそれぞれが異なるものであると判断できた時が「分かった」ということになる。果物がたくさんあったとしよう。そこにはリンゴとミカンが混在していた。そこからこれがリンゴでこれはミカンと分別した時、それぞれリンゴとミカンであると分かったわけだ。つまり分かるとは分けることができたということだ。

認識とは対象が脳に反映されることであり、反映像から異なる特徴を見出した時、つまり分けることができたとき理解できたことになる。

別れ路や虚実かたみに冬帽子 石塚友二

 

 元来、大和言葉は素朴なので複雑な表現は漢語の助けを借りることになる。日本語に占める中国語の量が膨大なのはそのためだ。「わかる」という大和言葉には異なる漢字がたくさん当てられている。例えば分・別・弁・解・判・剥・剖・断・析等。まだたくさんあることだろう。それらの特徴は漢字の旁の中に切り分ける「刀」があることだ。その他、析や断には「斧」が、判や剖、剥の「リ」は刀で切ることだ。いずれにも刃物関連の象形が用いられている。弁の旧字は辨でやはり真ん中を両断する「リ」が含まれる。

 春の鳶寄りわかれては高みつつ 飯田龍太

  皮膚には二点を二点と感じ分ける閾値がある。それは身体の部位によって異なり唇はかなり敏感であるが、背中などは二点を離して触れても一点としか感じない距離がある。皮膚という感覚器は二点を弁別することによって差異を分けることができるが、これは味覚でも聴覚でも同じことだ。利き酒は酒の味を分別すること、ソルフェージュによる和声の聞き分けは高度な分別力となる。

 一対か一対一か枯野人  鷹羽狩行

  分けることは科学の基礎である。科とは斗(ます)で稲の収穫を量ることだ。こうして数量化し客観化することが科学の基礎となった。この科学の発達が産業や医学で大いに寄与している。しかし、芸術の美や健康等は計量化できない。芸術とは未文化の文化なのだ。人は科学的思考と総身で感覚的に理解する勘とを上手に使い分けて生活しているのだろう。

  分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火

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