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2013年1月14日 (月)

俳句とからだ 71

連載俳句と“からだ” 71

  

愛知 三島広志

分かるは分かる

 「百聞は一見に如かず」という。英語ではSeeing is believingだ。見て確認できた時「分かった。I see」という。見て何が分かるのだろう。それは対象の差異を分別して区切ることができたということに他ならない。つまり対象を分節しそれぞれが異なるものであると判断できた時が「分かった」ということになる。果物がたくさんあったとしよう。そこにはリンゴとミカンが混在していた。そこからこれがリンゴでこれはミカンと分別した時、それぞれリンゴとミカンであると分かったわけだ。つまり分かるとは分けることができたということだ。

認識とは対象が脳に反映されることであり、反映像から異なる特徴を見出した時、つまり分けることができたとき理解できたことになる。

別れ路や虚実かたみに冬帽子 石塚友二

 

 元来、大和言葉は素朴なので複雑な表現は漢語の助けを借りることになる。日本語に占める中国語の量が膨大なのはそのためだ。「わかる」という大和言葉には異なる漢字がたくさん当てられている。例えば分・別・弁・解・判・剥・剖・断・析等。まだたくさんあることだろう。それらの特徴は漢字の旁の中に切り分ける「刀」があることだ。その他、析や断には「斧」が、判や剖、剥の「リ」は刀で切ることだ。いずれにも刃物関連の象形が用いられている。弁の旧字は辨でやはり真ん中を両断する「リ」が含まれる。

 春の鳶寄りわかれては高みつつ 飯田龍太

  皮膚には二点を二点と感じ分ける閾値がある。それは身体の部位によって異なり唇はかなり敏感であるが、背中などは二点を離して触れても一点としか感じない距離がある。皮膚という感覚器は二点を弁別することによって差異を分けることができるが、これは味覚でも聴覚でも同じことだ。利き酒は酒の味を分別すること、ソルフェージュによる和声の聞き分けは高度な分別力となる。

 一対か一対一か枯野人  鷹羽狩行

  分けることは科学の基礎である。科とは斗(ます)で稲の収穫を量ることだ。こうして数量化し客観化することが科学の基礎となった。この科学の発達が産業や医学で大いに寄与している。しかし、芸術の美や健康等は計量化できない。芸術とは未文化の文化なのだ。人は科学的思考と総身で感覚的に理解する勘とを上手に使い分けて生活しているのだろう。

  分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火

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