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2012年9月 3日 (月)

俳句とからだ 61

連載俳句と“からだ” 61


愛知 三島広志


いのちとからだ、そして気

 夏、早朝に散歩をする。公園のあちこちの小枝で蝉の抜け殻が風に吹かれている。気のせいかも知れないが、昨年の猛暑は蝉にとっても厳しかったようで脱皮途中で息絶えていたものを多く見かけた。上半身しか抜け出せずそのまま死んで舗道に転がっていたものも数多いた。拾い上げると当然ながら空蝉と異なる充実感と重さを感じた。それが今年はそうした脱皮途上の幼虫を全く見かけなかった。これが季候のせいか単なる勘違いかは分からない。

死ねば即軽くなるなりこがねむし 梅田昌孝

 脱皮半ばで息絶えて空を知ることなく終わった蝉や生き切ってこと切れた落蝉を拾い上げながらふと先回触れた機能と構造について考える。これらの死体には構造的に生きている蝉と何ら異なるものはない。翅も脚もある。内臓だって失われていない。では蝉が失ったものは何か。それは機能つまり働きである。蝉の解剖には不確かなのでヒトに置き換えるなら心臓も肝臓も肺も腎臓もみな生きている時と同様に存在している。胃腸や循環器、無論手脚も感覚器も脳も。そこに存在しないのは動きだ。
生きている肉体が死んだ時、見える運動としての心臓の鼓動と呼吸が停止する。瞳孔の反射も消える。さらに眼に見えないところで徐々に生体としての機能が遠のいていくだろう。しかしそれでも五体や五臓は歴然として存在している。この不可思議。「死とは何か、生とは何か」。これは古来から問い続けられている素朴かつ困難な命題だ。

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒 斎藤玄

 中国では構造に潜む機能や働きを気と考えた。現象の奥で作用している何らかの力を気と捉えたのだ。いのちもまたからだの中に存在する働きであり気の一種と考えられる。激しく啼いている蝉の中には気が迸り、落蝉の中には気が存在しない。即ち構造があっても機能がない。からだがあってもいのちが無いのだ。

失われたいのちを再生することはできない。しかし、芸術は別の意味でモノにいのちを吹きこむことができる。ことばで気を立ち上げることができる。白紙に一本の線を描くことでいのちを生むことができるのだ。これもまたいのちであり、人間にだけ可能な創造だ。生物学的命を生み出すことは不可能だがモノに息吹を与えることは可能なのだ。さすれば蝉の骸もことばの力で生き返る。

 秋の蝉骸となりて重くなり 坊城俊樹

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