俳句とからだ 69
連載俳句と“からだ” 69
愛知 三島広志
滞りなきが仏にて・・・
経絡指圧の創案者増永静人から修行の道歌として「何ごともとどこおりなきが仏にて良きも悪しきもコリは鬼なり」という歌を習った。この歌は元来仏教の教えのようであるが、漢方医療にも通じる教えだ。漢方では身体の中を気血水という三つの要素が循環していると考えた。気とは生命力。身体に内在する活力や勢いのこと。雲に内在して刻々と形を変える不可視の勢力に象徴される。血は今日の医学の血液とほぼ同じ。水は血液以外の水分のこと。漢方医療ではそれら三つが過不足なく循環していると病気にはならないと説いている。まさに最初の歌にある「とどこおりなき」状態である。確かに仕事も人間関係も渋滞なく流れていれば上々である。身体内においても同様だ。そうした状態を仏とみるのだ。
山頂に流星触れたのだろうか 清家由香里
さて問題は後半である。「良きも悪しきもコリは鬼」であるという。コリと聞けば肩凝りや首凝りを思い浮かべる。肩凝りは辛い。肩が重く、頭は痛くなり気分も鬱陶しい。呼吸も浅くなる。常識から考えればコリは悪いものに決まっている。それなのに「良きも悪しきも」はどういうことだと疑問に思うことだろう。果たして良きコリなどあるのだろうか。
身体のコリに限って考えると確かに鬱滞して嫌なものだ。しかしコリという言葉は別の場合にも使用される。例えば「今、釣りに凝っている」とか「韓流映画に凝っている」という具合に。この場合のコリとは集中することだ。遊びだけではない。「英会話に凝っている」などといえば逆に評価される。コリとは即ち集中することで、それは一方に偏るという意味だ。それは他を顧みないということに繋がる。俳句に凝って家庭を振り向かなければ優れた俳人になるかも知れないが家族は怒るだろう。仕事に凝る余り周囲が迷惑することもある。このように何かに打ち込んで周囲が見えない状態を鬼というのだ。「野球の鬼」「仕事の鬼」とは以前良く使われた毀誉褒貶ある言葉だ。
何かを為す時、人は多かれ少なかれ集中する。それが鬼の状態だ。凝っているのだ。これは必要なことだ。いつも仏のように蓮の上に鎮座していては生きていけない。鬼のように働く時間が必要だ。そして時が来たら集中から解き放たれて仏のようにゆったりと過ごす。この緩急こそが程よいストレスとなって自律神経やホルモンのバランスを整えてくれる。そして物事に凝り過ぎると本当に肩凝りとして身体に刻まれてしまうのだ。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 三橋鷹女
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