俳句とからだ 64
連載俳句と“からだ” 64
愛知 三島広志
句集
時々句集が届く。 果たして句集を編むとはどういう意味なのだろう。
土芳は「三冊子」に芭蕉の言葉として「学ぶことはつねにあり(中略)文台引下ろせば即反古也」と書いている。これは連句のことだから直に俳句に置換することは短慮であるが、文芸への思いの厳しさは伺われる。ではなぜ芭蕉は反古と言いながら選集を幾つも残したのか。
人間は時間の中に過渡的に存在しその影響下にある。畢竟、人間は時とともに考え、時の影響下で人生を営なんでいる歴史的存在だ。しかし時間から解放されることも可能である。それは我々が芭蕉の追い求めた世界を夢見、利休の仕掛けを未だに踏襲していることが証明している。芭蕉や利休の世界観が 時の制約を軽々と凌駕して普遍化し、常に新しい世界を再生産し続けているのだ。それが時間を超越しているということだ。芭蕉は自らと仲間の成果を書物として編むことで時を超越しようとしたのだろう。
俳句は時の流れの中で生み出され、その瞬間に過去のものとなる。この制約に抗い化石のように固定するのが句集だ。この化石は輝きや謎を孕んで別の世界を創出する。それは読み手の力による。鑑賞とはそうした行為だ。贈られた句集から一句ずつ鑑賞してみよう。
黄落を踏んでひとりをたしかめる 今井豊 「草魂」
孤独は淋しいとばかりは言えない。好んでひとりになることは豊穣だ。散り敷く銀杏の黄葉を踏むと思わぬ大きな音がする。木の葉の音が孤独を包む充実感。
遠くから絶対者来る天秤を担いつつ 武馬久仁裕 「玉門関」
絶対者は常に遠くにある。近づいて来るようで決して近づかない。だからこそ絶対者なのだ。その両肩に担われた天秤は正確で、それゆえ非情だ。
歩く 寒さと歩く 私の中へ歩く 鎌倉佐弓 「海はラララ」
寒さの中の身体。求心的に小さくなる。寒さの中を歩いていた私は、気がつくと自分自身の根源を目指している。
冬の川一歩にとほき石がある 二階堂光江 「大白鳥」
鮮烈に磨かれた冬の川。水底と空を映して漣立っている。対岸まではさほどの距離ではない。しかし踏み出すにはちょっと遠い。身近にある躊躇い。
わがうしろすがたを見たし法師蝉 杉山久子 「鳥と歩く」
人に決して見えないものは自らの後姿。しかし背後から押迫る法師蝉の声は聴こえる。その声こそ作者の後姿なのだ。
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