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2012年9月 3日 (月)

俳句とからだ 68

連載俳句と“からだ” 68


愛知 三島広志


管としての身体

 多細胞生物の身体は管である。単細胞生物は一つの細胞が環境と直接しているので体表に形成された口のような器官から栄養素を取り込めばそのまま栄養となる。したがって栄養素を輸送するための器官は不要である。しかし多細胞生物は体表(ヒトの場合は皮膚)こそ環境と接するが身体内部は閉じた世界であるから環境と直接することは不可能である。そのために身体は体内深くまで環境を取り込む輸送装置を形成してきた。生物は進化の過程で環境を細胞一つ一つのために直接する装置を工夫してきたのだ。その一例が口から肛門までを貫く消化管である。ヒトの身体で管を想像するのは困難でもミミズのような多細胞生物を頭に描けば確かに身体は管であると理解し易いだろう。ミミズはまさに管そのものの形状だ。彼らは口から土を食べ肛門から排泄する。極論すれば消化管という管を肉で包んだだけという極めて効率的な構造で形成されている(その形状は地中生活するために最も進化したものだとも言われる。また、実際には管は消化管だけでなく循環器や呼吸器もある)。

 みちのくの蚯蚓短し山坂勝ち 中村草田男

 消化管はヒトの身体にも当然存在する。消化管とは口、 咽頭、食道、胃、小腸(十二指腸、空腸、回腸)、大腸(盲腸、虫垂、上行・横行・下行・S状結腸)、直腸、 肛門のことである。昔はこうした中空器官のことを「腑」と呼び、実質の詰った「臓と」区別した。

 五臓六腑へ命継ぎたす寒の水 安藤和子

 身体は単純化された一本の管が呼吸し飲食し仕事をして思索し俳句を作っている。こう考えると妙な気負いが無くなる。猥雑な人体を捨てて一本の直立した管になる。古今東西、息を背骨に通す様々な呼吸法が伝えられている。もっともらしい理屈や怪しげな宗教理念を纏って指導する者もいる。しかしここはシンプルに考えよう。多細胞生物も単細胞生物も元は同じ生物。ただの管でいいではないかと開き直ってはどうだろう。食べ物や空気などの外部環境が管を通って体内を通過しているだけなのだ。

 俳句もまたことばをシンプルに削ぎ落としたものが良いとされる。不立文字を尊ぶ禅を持ち出さずとも、俳句には樹形のみで屹立する寒木の潔さがある。即ち管となる言葉があれば句としての命脈は保てるのだ。管を見出すために言葉を削ぐ。そう、只管(ひたすら)削ぐのだ。

 人間は管より成れる日短 川崎展宏

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