俳句とからだ 70
連載俳句と“からだ” 70
愛知 三島広志
身を統べるもの
身体は皮膚という革袋に覆われた肉体のみを意味するものではない。肉体と精神が一如となった存在を意味する。したがって肉体としての制約をやすやすと超越して時空を旅することが可能となる。
インターネットは脳の外部化した身体の延長とみることが可能だ。I氏は北海道在の藍生会員である。愛知県に住む私はI氏と会ったことはない。しかし、インターネットを介して親しくしている。これはネットというシステムが互いの身に添う、つまり身体化しているからだ。
I氏は深谷雄大氏主宰「雪華」の同人でもあり師の句をFacebookで紹介していた。海霧はじり、海猫はごめと読む。
断崖も海霧の虚空も海猫が統ぶ 深谷雄大
この句から寺山修司の「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」を想起することは容易いだろう。ネットでその旨を述べるとI氏から「雄大先生は寺山修司からの影響を常日頃発言してますから、おそらくそうだと思います」との返答があった。つまりこれは北国の厳しい自然と寺山へのオマージュから書かれた俳句ということが分かる。このようにして愛知県と北海道の間のやり取りが時空を超えて成立する。しかも互いの都合の良い時間と場所において可能になる。身体はこのようにテクノロジーの影響を受けながら拡大していくのだ。
だがしかし、身体は決して拡大するだけの存在ではない。私がこの俳句に目を止めたのは人が鷹や海猫に統べられる、あるいは統べられたがる存在と読み取れたからだ。私はその思いをI氏に「人は荒れ狂う北国の自然の下でも、澄み切った五月の虚空であっても、やはり何か総括するものを求めるのかな。本質を掴んでいる句はジャンルを超えて読者を惹き付けますね」と伝えた。
人は自由を求める。しかし、自由は掴みどころのない不安を招き、ついに人は自由から逃走する。これはエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」に詳しい。皮肉なことに個人の自由が権威主義とナチズムを生み出したのだ。それでも何か統べるものが欲しいのが人間なのだろう。
西洋では身体の中心をセンターと称し、東洋では丹田呼ぶ。問題はそれがどこにつながるかだ。求めるべき中心は絆の如き桎梏ではなく自他の自由を侵すことのない本来の自由につながるものだ。その中心を身体内に置くか外部に置くかは問題ではない。身体はそうした束縛から解放されるべき存在なのだから。
白鳥帰る一羽は死者のポケットに 五十嵐秀彦
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