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2012年9月

2012年9月 3日 (月)

俳句とからだ 70

連載俳句と“からだ” 70


愛知 三島広志


身を統べるもの

 身体は皮膚という革袋に覆われた肉体のみを意味するものではない。肉体と精神が一如となった存在を意味する。したがって肉体としての制約をやすやすと超越して時空を旅することが可能となる。
インターネットは脳の外部化した身体の延長とみることが可能だ。I氏は北海道在の藍生会員である。愛知県に住む私はI氏と会ったことはない。しかし、インターネットを介して親しくしている。これはネットというシステムが互いの身に添う、つまり身体化しているからだ。

 I氏は深谷雄大氏主宰「雪華」の同人でもあり師の句をFacebookで紹介していた。海霧はじり、海猫はごめと読む。

 断崖も海霧の虚空も海猫が統ぶ  深谷雄大

 この句から寺山修司の「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」を想起することは容易いだろう。ネットでその旨を述べるとI氏から「雄大先生は寺山修司からの影響を常日頃発言してますから、おそらくそうだと思います」との返答があった。つまりこれは北国の厳しい自然と寺山へのオマージュから書かれた俳句ということが分かる。このようにして愛知県と北海道の間のやり取りが時空を超えて成立する。しかも互いの都合の良い時間と場所において可能になる。身体はこのようにテクノロジーの影響を受けながら拡大していくのだ。

 だがしかし、身体は決して拡大するだけの存在ではない。私がこの俳句に目を止めたのは人が鷹や海猫に統べられる、あるいは統べられたがる存在と読み取れたからだ。私はその思いをI氏に「人は荒れ狂う北国の自然の下でも、澄み切った五月の虚空であっても、やはり何か総括するものを求めるのかな。本質を掴んでいる句はジャンルを超えて読者を惹き付けますね」と伝えた。

 人は自由を求める。しかし、自由は掴みどころのない不安を招き、ついに人は自由から逃走する。これはエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」に詳しい。皮肉なことに個人の自由が権威主義とナチズムを生み出したのだ。それでも何か統べるものが欲しいのが人間なのだろう。
 西洋では身体の中心をセンターと称し、東洋では丹田呼ぶ。問題はそれがどこにつながるかだ。求めるべき中心は絆の如き桎梏ではなく自他の自由を侵すことのない本来の自由につながるものだ。その中心を身体内に置くか外部に置くかは問題ではない。身体はそうした束縛から解放されるべき存在なのだから。

 白鳥帰る一羽は死者のポケットに  五十嵐秀彦

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俳句とからだ 69

連載俳句と“からだ” 69


愛知 三島広志


滞りなきが仏にて・・・

 経絡指圧の創案者増永静人から修行の道歌として「何ごともとどこおりなきが仏にて良きも悪しきもコリは鬼なり」という歌を習った。この歌は元来仏教の教えのようであるが、漢方医療にも通じる教えだ。漢方では身体の中を気血水という三つの要素が循環していると考えた。気とは生命力。身体に内在する活力や勢いのこと。雲に内在して刻々と形を変える不可視の勢力に象徴される。血は今日の医学の血液とほぼ同じ。水は血液以外の水分のこと。漢方医療ではそれら三つが過不足なく循環していると病気にはならないと説いている。まさに最初の歌にある「とどこおりなき」状態である。確かに仕事も人間関係も渋滞なく流れていれば上々である。身体内においても同様だ。そうした状態を仏とみるのだ。

 山頂に流星触れたのだろうか 清家由香里

 さて問題は後半である。「良きも悪しきもコリは鬼」であるという。コリと聞けば肩凝りや首凝りを思い浮かべる。肩凝りは辛い。肩が重く、頭は痛くなり気分も鬱陶しい。呼吸も浅くなる。常識から考えればコリは悪いものに決まっている。それなのに「良きも悪しきも」はどういうことだと疑問に思うことだろう。果たして良きコリなどあるのだろうか。

 身体のコリに限って考えると確かに鬱滞して嫌なものだ。しかしコリという言葉は別の場合にも使用される。例えば「今、釣りに凝っている」とか「韓流映画に凝っている」という具合に。この場合のコリとは集中することだ。遊びだけではない。「英会話に凝っている」などといえば逆に評価される。コリとは即ち集中することで、それは一方に偏るという意味だ。それは他を顧みないということに繋がる。俳句に凝って家庭を振り向かなければ優れた俳人になるかも知れないが家族は怒るだろう。仕事に凝る余り周囲が迷惑することもある。このように何かに打ち込んで周囲が見えない状態を鬼というのだ。「野球の鬼」「仕事の鬼」とは以前良く使われた毀誉褒貶ある言葉だ。

 何かを為す時、人は多かれ少なかれ集中する。それが鬼の状態だ。凝っているのだ。これは必要なことだ。いつも仏のように蓮の上に鎮座していては生きていけない。鬼のように働く時間が必要だ。そして時が来たら集中から解き放たれて仏のようにゆったりと過ごす。この緩急こそが程よいストレスとなって自律神経やホルモンのバランスを整えてくれる。そして物事に凝り過ぎると本当に肩凝りとして身体に刻まれてしまうのだ。

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉  三橋鷹女

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俳句とからだ 68

連載俳句と“からだ” 68


愛知 三島広志


管としての身体

 多細胞生物の身体は管である。単細胞生物は一つの細胞が環境と直接しているので体表に形成された口のような器官から栄養素を取り込めばそのまま栄養となる。したがって栄養素を輸送するための器官は不要である。しかし多細胞生物は体表(ヒトの場合は皮膚)こそ環境と接するが身体内部は閉じた世界であるから環境と直接することは不可能である。そのために身体は体内深くまで環境を取り込む輸送装置を形成してきた。生物は進化の過程で環境を細胞一つ一つのために直接する装置を工夫してきたのだ。その一例が口から肛門までを貫く消化管である。ヒトの身体で管を想像するのは困難でもミミズのような多細胞生物を頭に描けば確かに身体は管であると理解し易いだろう。ミミズはまさに管そのものの形状だ。彼らは口から土を食べ肛門から排泄する。極論すれば消化管という管を肉で包んだだけという極めて効率的な構造で形成されている(その形状は地中生活するために最も進化したものだとも言われる。また、実際には管は消化管だけでなく循環器や呼吸器もある)。

 みちのくの蚯蚓短し山坂勝ち 中村草田男

 消化管はヒトの身体にも当然存在する。消化管とは口、 咽頭、食道、胃、小腸(十二指腸、空腸、回腸)、大腸(盲腸、虫垂、上行・横行・下行・S状結腸)、直腸、 肛門のことである。昔はこうした中空器官のことを「腑」と呼び、実質の詰った「臓と」区別した。

 五臓六腑へ命継ぎたす寒の水 安藤和子

 身体は単純化された一本の管が呼吸し飲食し仕事をして思索し俳句を作っている。こう考えると妙な気負いが無くなる。猥雑な人体を捨てて一本の直立した管になる。古今東西、息を背骨に通す様々な呼吸法が伝えられている。もっともらしい理屈や怪しげな宗教理念を纏って指導する者もいる。しかしここはシンプルに考えよう。多細胞生物も単細胞生物も元は同じ生物。ただの管でいいではないかと開き直ってはどうだろう。食べ物や空気などの外部環境が管を通って体内を通過しているだけなのだ。

 俳句もまたことばをシンプルに削ぎ落としたものが良いとされる。不立文字を尊ぶ禅を持ち出さずとも、俳句には樹形のみで屹立する寒木の潔さがある。即ち管となる言葉があれば句としての命脈は保てるのだ。管を見出すために言葉を削ぐ。そう、只管(ひたすら)削ぐのだ。

 人間は管より成れる日短 川崎展宏

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俳句とからだ 67

連載俳句と“からだ” 67


愛知 三島広志


ヤマアラシのジレンマ

 ヤマアラシは針のような体毛に覆われた草食性の齧歯類である。体長は尾の先までで1メートルほどと意外に大きい。ドイツの哲学者ショーペンハウエルにこの小動物を題材とした「ヤマアラシのジレンマ」という知られた寓話がある。ヤマアラシのジレンマとは「ヤマアラシのカップルは寒さから互いを求めて近寄るが、近づき過ぎれば針が刺さって傷つき、離れると再び寒くなる。彼らはこのジレンマに対して近づいては離れ、離れては近づくことを繰り返しながら紆余曲折の果てに互いの最適な距離を把握していく」というものである。精神分析学の祖フロイトがこの寓話を元に人間関係における葛藤・アンビバレンス(同一対象に対して相反する感情を同時に抱くこと)を考察したことで広く知られるようになった。

 海よりも嘔吐ひかるは矛盾だらう 小川双々子

この寓話はティム・バートン監督原案制作、ジョニー・デップ主演の映画「シザー・ハンズ(1990年)」を思い出す。両手が鋏の人造人間エドワードは愛する少女を守ろうと思わず抱いて彼女を傷つけてしまう。助けようとすれば傷つけるというジレンマを最後は感動的なメルヘンに仕立ててある名画である。この普遍的ジレンマはメルヘンとして止揚するしか無いのかも知れないと複雑な思いで観た記憶がある。

 雪の日のそれはちひさなラシャ鋏  中岡毅雄

 一つの物事の中に相反する矛盾を見出す思考法は弁証法であるが、そこまで構えなくとも常日頃の何気ない対話の中にもこの技法は自ずと潜在している。ディベートはこうした矛盾を顕在化して議論や思考の訓練をする教育方法だ。我々は矛盾の中に生存していると言ってもいい。解答のない世界に生きている。何故なら解答は次の疑問の礎にしかならないからだ。これこそ矛盾である。もし簡単に解答を与えてくれる人がいたとしたらそれは疑うべき存在として大いに反証しなければならない。そもそも私たちの身体は生まれたということはいずれ年老いて朽ち果てるという矛盾を抱え込んでいるのだ。

 近づきたいけど近づけないというヤマアラシのジレンマは一見皮肉であるが「自立」と「共存」という二律背反の中からほど良い距離を発見するという肯定的な意味として使われることも多い。人生も生死という矛盾に包摂された有限の時間をどう生きるのかヤマアラシのように学習していかなければならない。

 あたたかな雨が降るなり枯葎  正岡子規

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俳句とからだ 66

連載俳句と“からだ” 66


愛知 三島広志


口誦とからだ

 ことばは身体の延長である。調子、音色、音質、ふし、リズム、イントネーションなどだけでなく言語の意味までも身体から生み出される。身体は情報を収集し、整理判別の後、何らかの表現を行う装置である。様々な情報は身体というフィルターを通過して存在する。物事を客観的に判断することが困難なのは一人一人の身体が多様性を有しているからだ。だからこそ対話や理論化が重要となる。自分が理解していると思っていることはあくまでも相互浸透的に相対化されたものであって絶対的なものではない。
 ことばによる芸術も過程的身体の状況によって刻々と変化する。そこに他の芸術と同様、作品を通じて展開される鑑賞の妙味が生じてくる。

 身体は対象と相互に関係し合うので詩を口誦するとき、そのことばの持つ力が逆に身体に影響を与えてくる。これもまた身体の持つ特性だ。一部しか掲載できないので心苦しいが次に紹介する幾つかの詩を口誦してみて欲しい。

母よ―/淡くかなしきもののふるなり/紫陽花いろのもののふるなり/はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり/
  「乳母車」(三好達治)

 この詩の有する淡くなまめかしい語調が身体を優しく包んでくれるだろう。まさに達治ならではの世界である。

太刀は稲妻萱穂のさやぎ/獅子の星座に散る火の雨の/消えてあとない天のがはら/打つも果てるもひとつのいのち/ 
「原体剣舞連」(宮沢賢治)

 賢治の詩は鬼剣舞の勇壮さを強い言語と畳み込むリズムで表現してあり、読む者をして力強い世界に引き込んでくれる。

さむいね/ああさむいね/虫がないてるね/ああ虫がないてるね/もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね/
「秋の夜の会話」(草野心平)

 これは心平の好んだ蛙の会話による詩である。抄出でなく全編を読むと実に切なくなる。次に石鼎の句を紹介しよう。

蔓踏んで一山の露動きけり 原石鼎
山の色釣り上げし鮎に動くかな 同

 これら石鼎の句は些末なものが全体を揺り動かすという共通性を持っている。大仰な表現だ。しかし口誦したときの心地よさは誰もが実感することだろう。

 詩はまず意味より音で身体を深く揺さぶる。これは言語の無い時代から身体が共感する装置だったからだろう。人間の関係性はその共感性の上に成立している。

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俳句とからだ 65

連載俳句と“からだ” 65


愛知 三島広志


ピカソを超えた男

「ピカソを超えた男」「評価額200億円の傑作」などのセンセーショナルな煽りに誘われ愛知県美術館のジャクソン・ポロック展に出かけた。ポロックは1912年に生まれ1956年、自らの飲酒運転で44年の人生を閉じている。彼の絵は前衛絵画を見慣れた現代人にとってさほど珍しいものではないが、登場したころは大変奇異な目で見られていたようだ。

絵画には具象や抽象があるが、いずれにしてもそこに作家の意図が表現されている。しかし20世紀になると無意識を表出させるシュルレアリスムが登場し、さらにピカソやミロに至って絵画は激変する。絵画は外界の模倣ではなく作家の精神が形と色で創出されドサリと鑑賞者の前に放り出される。その一つの極みがポロックだろう。彼の到達した流し込み技法は絵具を垂らしていくだけだ。あるいはペンキを缶から放り投げる。方法のみあって作為が削ぎ落とされている。

200億円の値がついたという「インディアンレッドの地の壁画(1950年作)」という大作の前に立つとどうだろう。その絵はエンジのカンバスの上に複雑な色があたかも蛍の乱舞の軌跡のように激しく描かれている。色彩が自在に踊っている。いかなるリズムも形象もなく、縺れ合った毛糸玉のように置かれている。これが絵画か?と訝しく思ってもあながち間違いではない。ところが、そこには激しいエネルギーが渦巻いている。それは作家の苦悶の人生だろうか、社会の不条理だろうか、人間の裏側にある想念がポロックという身体を通してマグマのように噴出しているようだ。

若い時の作品には明らかに牛とか人と分かる形象が描かれている。さらに成長しても意味不明の文様の中に明らかに人の顔や手足と分かるパーツが描かれている。また文様の中に踊るようなリズムがみられる作品もある。鑑賞者はそこに安堵しその世界を受け止めることができる。しかし先の「インディアンレッド」の前では立ち尽くすしかない。あらゆる肉体を剥ぎ取られた人間の本質的存在がこちらに挑むように対峙しているのだ。

ポロックはその天才性ゆえだろうか。若い時からアルコール依存で苦しみユング派の心理療法を受ける。そこで出会った絵画療法が彼の無意識を解放させたと言われている。これは彼にとって救いであると同時に治癒へ到達できないという矛盾を生じた。だが結果として彼の身体は近代美術を終焉させ、現代美術の窓をこじ開けたのだ。天才は常に時代を屈服させる代償としてその生涯を短く終えるのかもしれない。

 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢 赤尾兜子

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俳句とからだ 64

連載俳句と“からだ” 64


愛知 三島広志


句集

 時々句集が届く。 果たして句集を編むとはどういう意味なのだろう。

 土芳は「三冊子」に芭蕉の言葉として「学ぶことはつねにあり(中略)文台引下ろせば即反古也」と書いている。これは連句のことだから直に俳句に置換することは短慮であるが、文芸への思いの厳しさは伺われる。ではなぜ芭蕉は反古と言いながら選集を幾つも残したのか。
 人間は時間の中に過渡的に存在しその影響下にある。畢竟、人間は時とともに考え、時の影響下で人生を営なんでいる歴史的存在だ。しかし時間から解放されることも可能である。それは我々が芭蕉の追い求めた世界を夢見、利休の仕掛けを未だに踏襲していることが証明している。芭蕉や利休の世界観が 時の制約を軽々と凌駕して普遍化し、常に新しい世界を再生産し続けているのだ。それが時間を超越しているということだ。芭蕉は自らと仲間の成果を書物として編むことで時を超越しようとしたのだろう。

 俳句は時の流れの中で生み出され、その瞬間に過去のものとなる。この制約に抗い化石のように固定するのが句集だ。この化石は輝きや謎を孕んで別の世界を創出する。それは読み手の力による。鑑賞とはそうした行為だ。贈られた句集から一句ずつ鑑賞してみよう。

黄落を踏んでひとりをたしかめる 今井豊 「草魂」
孤独は淋しいとばかりは言えない。好んでひとりになることは豊穣だ。散り敷く銀杏の黄葉を踏むと思わぬ大きな音がする。木の葉の音が孤独を包む充実感。

遠くから絶対者来る天秤を担いつつ 武馬久仁裕 「玉門関」
絶対者は常に遠くにある。近づいて来るようで決して近づかない。だからこそ絶対者なのだ。その両肩に担われた天秤は正確で、それゆえ非情だ。

歩く 寒さと歩く 私の中へ歩く 鎌倉佐弓 「海はラララ」
寒さの中の身体。求心的に小さくなる。寒さの中を歩いていた私は、気がつくと自分自身の根源を目指している。

冬の川一歩にとほき石がある 二階堂光江 「大白鳥」
鮮烈に磨かれた冬の川。水底と空を映して漣立っている。対岸まではさほどの距離ではない。しかし踏み出すにはちょっと遠い。身近にある躊躇い。

わがうしろすがたを見たし法師蝉 杉山久子 「鳥と歩く」
人に決して見えないものは自らの後姿。しかし背後から押迫る法師蝉の声は聴こえる。その声こそ作者の後姿なのだ。

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俳句とからだ 63

連載俳句と“からだ” 63


愛知 三島広志


モノと身体

 身体は財布やペンなど愛用のモノと一如になる。これは誰もが体験することだ。小川未明の童話「小さい針の音」はその普遍的体験を精緻な文章で表している。

 「小さい針の音」は「ある田舎の小学校に、一人の青年の教師がありました。その青年は、真実に小さな子供達を教えたのであります」から始まる。青年は子ども達に慕われていたが世に出たいと学校を去る。子らは別れを悲しみながらも記念に懐中時計を贈る。青年は当初大切にしていたその時計を出世する過程でみすぼらしいと感じ古道具屋に売り払い、その時々の地位にふさわしい時計に買い換える。しかしそんな高級時計でも時間が正確ではないのが不満だった。ある時、部下から自分の時計は安物の中古だが正確だと告げられる。何とその時計は田舎の子達から贈られた懐中時計だった。懇願してその時計を譲り受けた夜、彼は夢の中で田舎教師に戻り子ども達に問いかける。「いい人間って、どんな人ですか」と。ある子が「世の中のために働く人」と答えた所で夢は覚め「ああ、おれは、いままでにほんとうに、社会のために、どんなことをしておったか」と反省する。

 やや教訓めいた話だが一度売り払った時計が巡って再び掌中にあるという未明独自の幻想譚でもある。村の子どもらから贈られた懐中時計、貧しさと一緒に肌身離さずにいた時計の重さ、温度、質感、形、風合い、針の音、うっかり傷付けてしまった痛み。部下の時計を掌中にした瞬間、彼には貧しくとも夢を抱いて頃の身体感覚が即座に蘇ったに違いない。その身の記憶が噴出して昔の夢を見たのだ。

 モノは自分の身体ではない。しかし親しく身近にあったモノはいつしか身体化して自分の身の内となっている。身体は環境と交響する。環境とは自然であり社会でありモノであり自分自身でもある。環境と自分は相互に浸透しているのだ。

 「日本のアンデルセン」と称された未明は1882年(明治15年)に新潟に生まれ1961年(昭和36年)に79歳で亡くなった。社会主義作家だったが1926年、子どもの心を忘れないすべての人のための文学を書こうと童話宣言した。1951年(昭和26年)文化功労者、1953年(昭和28年)に芸術院会員に推挙されるが同年、鳥越信らの「少年文学宣言」が発表され、未明作品は呪術的で未熟、子ども達に夢を与えないと糾弾される。これを機に未明は過去に追いやられた。だが、未明の文章は繊細で静謐。声高でないだけに余計身に迫るものがある。それを呪術的と葬ることこそ無謀な企みだろう。

 鳴り終へて時計は正午震災忌 小川匠太郎

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俳句と“からだ 62

連載俳句と“からだ” 62


愛知 三島広志


健康と病気

 健康と病気は並列されるが実は等価な対立概念ではない。病気は心身の生理的現象が不都合になった状態だ。その意味は個々人で異なる。客観的に見て明らかに病気だろうと思える状態でも本人が病気で無いと言い張ればそれは病気ではない。決して健康診断の数値で評価されるものではないのだ。
無論公衆医学の見地からすれば正常という基準値があって逸脱したら病気であるとレッテルを貼られてしまうのは仕方ない。社会経済的にも身体機能を数量的に把握することは極めて重要な情報だ。だが人体は機能的にも構造的にも個体差がある上に個人の人生観も加味すれば一概に基準値からはみ出したものを病気とは断定できない。病気や健康には多様性がある。畢竟それは個人の人生観や生命観で決定されるものだ。

少年ありピカソの青の中にやむ 三橋敏雄

 では健康とはなんだろう。これもまた不確かなものだ。科学的評価で「健康です」と医師から太鼓判を押されても頭が重いとか腰が張っているとか食欲がないなどの症状を抱えている人は大勢いる。
 二十代前半に読んで大変感銘を受けた本がある。NHK大学講座テキスト「人間と病気の科学」、著者は千葉大学名誉教授の川喜田愛郎(かわきた・よしお)。氏の専攻は病原微生物学だが医学概論的な著書も多い。前掲書の中で強く印象に残ったのが次の文章だ。
「病気は現実の『悩み』であるが、健康は価値であって、その二つは単純に対偶する概念ではない」。
「健康とは、私見を大胆に述べれば、人めいめいがその択ぶ生きざまにとって必要にして充分な精神的・身体的諸条件の総体(中略)それは科学の話であると同時に、より正確な意味で、むしろ人間学的な意味内容をもっている」。

 およそあらゆる科学は人間を問うために存在するべきであろう。科学が人間の上に君臨することは本末転倒だ。したがって医学も人間学であるはずだ。医学技術の発達と現実間に生じた齟齬に対する考察もそこから生まれることが望ましい。

 病気は心身が思い通りに機能しない悩ましい現実、健康は人生における価値。であるなら病気を忌避し健康を追求することは幸福という青い鳥を追いかける徒労に似ている。大切なのは健康を追い求めることではなく自分はどう生きたいかであり、そのためには健康である方がありがたいのだ。同時に病気を包摂して生きるという考えも必要なことだろう。

健康がまぶしきときの女たち 高柳重信

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俳句とからだ 61

連載俳句と“からだ” 61


愛知 三島広志


いのちとからだ、そして気

 夏、早朝に散歩をする。公園のあちこちの小枝で蝉の抜け殻が風に吹かれている。気のせいかも知れないが、昨年の猛暑は蝉にとっても厳しかったようで脱皮途中で息絶えていたものを多く見かけた。上半身しか抜け出せずそのまま死んで舗道に転がっていたものも数多いた。拾い上げると当然ながら空蝉と異なる充実感と重さを感じた。それが今年はそうした脱皮途上の幼虫を全く見かけなかった。これが季候のせいか単なる勘違いかは分からない。

死ねば即軽くなるなりこがねむし 梅田昌孝

 脱皮半ばで息絶えて空を知ることなく終わった蝉や生き切ってこと切れた落蝉を拾い上げながらふと先回触れた機能と構造について考える。これらの死体には構造的に生きている蝉と何ら異なるものはない。翅も脚もある。内臓だって失われていない。では蝉が失ったものは何か。それは機能つまり働きである。蝉の解剖には不確かなのでヒトに置き換えるなら心臓も肝臓も肺も腎臓もみな生きている時と同様に存在している。胃腸や循環器、無論手脚も感覚器も脳も。そこに存在しないのは動きだ。
生きている肉体が死んだ時、見える運動としての心臓の鼓動と呼吸が停止する。瞳孔の反射も消える。さらに眼に見えないところで徐々に生体としての機能が遠のいていくだろう。しかしそれでも五体や五臓は歴然として存在している。この不可思議。「死とは何か、生とは何か」。これは古来から問い続けられている素朴かつ困難な命題だ。

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒 斎藤玄

 中国では構造に潜む機能や働きを気と考えた。現象の奥で作用している何らかの力を気と捉えたのだ。いのちもまたからだの中に存在する働きであり気の一種と考えられる。激しく啼いている蝉の中には気が迸り、落蝉の中には気が存在しない。即ち構造があっても機能がない。からだがあってもいのちが無いのだ。

失われたいのちを再生することはできない。しかし、芸術は別の意味でモノにいのちを吹きこむことができる。ことばで気を立ち上げることができる。白紙に一本の線を描くことでいのちを生むことができるのだ。これもまたいのちであり、人間にだけ可能な創造だ。生物学的命を生み出すことは不可能だがモノに息吹を与えることは可能なのだ。さすれば蝉の骸もことばの力で生き返る。

 秋の蝉骸となりて重くなり 坊城俊樹

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