俳句とからだ 7
連載俳句と“からだ” ⑦
愛知 三島広志
新樹
夜の新樹詩の行間をゆくごとし 鷹羽狩行
初夏。新樹と相対する。太い幹の中を地中からいのちが迸り青葉となる。青葉はいのちの反映だ。新樹は勢いである。新樹に対峙するとき、こちらのからだも共振し身中を勢いが奔騰する。
樹と対峙するとき、ふと考える。今わたしは樹の勢いに絡めとられているのだろうか。それともわたしの中に内在する鏡に樹を写し込んでいるのだろうか。あるいは樹とわたしとの間にこそ、自分と樹の融合した何かがあるのだろうか。
人は決して身体の中だけに納まってはいない。からだは外界を像として脳に反映する器であると同時に、からだから自在に脱出し、対象と自分との間に新たな“からだ”を築き上げる。こうして自分の主観を超え、対象との間に新たな主観を生じることができる。
この句の作者は夜なおいのち燃え盛る新樹の間を歩いている。樹と樹の距離を測りながら同時に自分と樹の距離も測っているのだろう。その気分を「詩の行間をゆく」という何とも魅惑的なことばで捕捉した。
間主観
からだは主観の「中心」である。自分はからだを離れては存在しない。同時に自分が存在しなければ対象(この句の場合は新樹)も消滅する。自分と対象は対立するものでありながら自分が対象に向かうとき、からだという「中心」を離れて何かが表に出ていく。脱中心化する。自分が新樹と対峙するとき、自分の中心は脱中心化して樹と自分の間に存在する。対立物の間にこそ相互浸透的に主観が存在するのだ。
ひとは決して自分の主観だけでものごとを把握できない。対象とするものと自分の間で互いに浸透的な影響を与え合う。新樹に向かうとき自ずと身体中に勢いが共鳴湧出してくるのはそのためだ。
写生って?
写生は俳句の基本とされる。少なくとも子規はそう考え、多くのひとが踏襲している。写生とは対象物のいのちを無心にみること、そして写し取ることだ。客観写生も主観写生も、あるいは真実感合や実相観入にしてもまずは真摯にみることから始まる。そしてことばが立ち上がるのを待つのだ。ただし、みる者の態度は異なる。そこに個々の身体性が現れる。極力主観を排してみる人。あるいは個人体験を絡ませる者。ある人はことばの自走を許し、ある作者はことばの意味をも破壊する。そして人はみるとき、実は自分もまたみられるものなのだ。上田五千石の句のごとく。
渡り鳥みるみるわれの小さくなり 上田五千石
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