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2011年9月28日 (水)

俳句とからだ 1

俳句と“からだ” ①

からだって何だ? さらば、デカルト主義

愛知 三島広志

からだって何だ?

 “からだ”は漢字で書くと体であり身体、肉体、體、軆、躰、躯である。大和言葉ではみ(身)とかししむら(肉叢)だ。漢字はいずれも身か骨が用いられている。身は妊婦の象形で、骨は関節を表す。どちらも身体構造を示すものだ。構造は解剖学だが、身体学には機能を研究する生理学もある。さらに心を探求する心理学や思考・認識の筋道の深奥を模索する哲学。これらの総体が身体である・・・・とここでは断定する。

 上記は身体の内側に存在するものである。しかし身体は身体だけでは存在し得ない。身体を包む環境が必要である。そもそも身体は環境の一部を身中に取り込んで成立している。つまり外部環境である「空」と「陸」と「海」を体内に梱包することで内部環境である身体を形成し生命を維持しているのだ。

 からだは「空(から)だ」という人がいる。これは卓見だ。口から肛門までは一本の管であり空っぽである。口から陸の産物、つまり食べ物を取り込んで腸で吸収する。腸こそは体内の「陸」であり大地なのだ。同様に肺と鼻の穴も管でありそこは呼吸という作用を通して「空」と一体化している。また、生命の生まれた母なる海。生物は海を血液として内包し、はじめて陸に上ることができた。血は内在する「海」なのだ。このように「陸海空」を揃えることで身体は命脈を保っている。そんな総てを称して“からだ”と呼びたい。

さらば、デカルト

肉体はまさに生々しい肉から形成された物体だ。対して躯(軀)体はより構造的な意味合いを感じる。肉体より骨格的だ。では身体はどうだろう。身は「み」と読む。そして身体には肉体のような生々しさを感じない。むしろ「身につく」、「身に沁みる」という言葉から察せられるように身と心が未分の状態ではないかと思われる。つまり身の字だけで、心身を示す。もとより昔の人は心と身の分離、精神と肉体の二分は行わなかったのだ(禪には心身一如という認識があるが)。そもそもデカルト(フランスの哲学者、1596~1650)が「われ思う、ゆえにわれあり」などと難しいことを考えて、精神と物体とが独立する実体であるという二元論を振りかざすまでは人々の心身は調和がとれて幸福だったのだと信じたい。

そろそろ俳句にも触れなければならない。今は秋。爽やかな風が肺を出入りする。風は鼻や肺を通じて身体の内外を往来する大いなる空だ。何しろ風は地表の温度差と自転による大循環から生じる地球の息吹なのだ。地球の息を身体一杯呼吸しつつ、デカルトなんぞはここではっきり無視しよう。

しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作

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