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2011年9月 8日 (木)

現代の俳句 連載12 〈痰のつまりし〉

現代の俳句 連載12 〈痰のつまりし〉 

三島広志

 短歌・俳句の投稿欄は新聞販売に地味ながらも大きな影響を持っているそうであるが、現在、人気の点では俳句が短歌を圧倒的に凌駕していると聞く。

 俳句の人気の大きな要素のひとつは、それが世界で一番短い詩型である点だろう。何にしても一番というのは気分が良い。それに、短くて誰にでも作れそうだ。そこで、とりあえず短さにだまされて取り付いてみると・・・その先は実作に苦しむ会員諸氏には言わずもがなのことである。

 鑑賞するだけの人からすれば、俳句より短歌の方がずっと読み易いと言う。短歌の方が長いだけ説明の部分があるからである。
 俳句は短さを克服するために色々な技術を発展させて来た結果として、逆に俳句を読み難くしてしまったことは否めない。

 この傾向は決して喜べるものではない。ある特殊な環境に適応したために、一般的な環境に適応できなくなって絶滅した生物種は無数にある。俳句もその危機にあらずとは言えないだろう。
 しかし、やはり俳句でモノを詳細に説明するのは難しい。十七字ではあまりにも短すぎる。だからと言って直截に感情を吐露すれば読み手は白ける。では、先人たちはどんな方法を駆使してきたのだろうか。

 「写生」と呼ぶ絵画の技法を取り込んだ方法。モノの指示だけに止めてモノそのものに語らせるやり方だ。即ち、読者に鑑賞の大方を委ねてしまう。例えば、林檎と書けば読者は読者なりの林檎を思い浮かべるように。

 あるいは、五七五の韻律を意識的に断ち切って、その空白に物語らせる方法。さりげなく文法違反を犯す韻文の最大効果でもある。「切れ字」や体言止めが典型。

 それとも、モノとモノとの衝撃的な出会いに読者を巻き込むか。各々意味合いは異なるが二句一章とか二物衝撃、モンタージュ効果などと称される俳句の中でも重要視される技術である。

 さらには、季語の持つ普遍的な時空間的〈場〉の中に読者を引きずり込む方法。歴史的に最も有効な手段とされ、現在、季語は方法を越えて、俳句の条件とまでされている。

 結局、十七文字で完結した世界を提供しようとするなら、これらの俳句が育んできた技術を駆使するしかあるまい。

 しかし、その繰り返しだけでは俳句の世界が狭まる。従来の方法に乗りながら新しい世界を目指すにはどうしたらいいのだろう。

 一の橋二の橋ほたるふぶきけり 黒田杏子
 指さして雪大文字茜さす 同
 はにわ乾くすみれに触れてきし風に 同 

 これら杏子の俳句は、過去の俳句の世界をあえて踏襲しようとはしていない。むしろ、現場において体ごと感じ取った(観じ取った)ものを一気に句に仕立て上げて俳句を若返らせている。句を作るに当たって季語の力に依存していないのだ。


 これらの句にも、結果として、長い年月をかけて育まれてきた季語やその他のことばの世界が見え隠れしている。それらの相乗効果の上に杏子の俳句は立ち、さらに俳句が季語に命を吹き込んでいるのだ。黒田杏子の俳句が驚嘆をもって迎えられた理由はこんなところにもあるのだろう。

 現場に立ち、対象から送られて来る波動と自らの精神とが共鳴する瞬間をはっしと掴む。それを自得するためには年月を必要とし、さらに、俳句の表現技術と同時浸透するように〈人間〉としての成長も必要とされる。

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 子規

 子規のこの句に学ぶなら、それは叙法ではあるまい。彼は宿痾による極めて困難な日常生活を見事に俳句を通じて突き抜けた。即ち、非常を平常として生ききった。その間、自らを俳人の目で相対化できたこと、この俳精神をこそ、まず学ぶ、否、追い求める必要があるだろう。

 熱や喘ぎの中に苦悶している自らを痰の詰まった仏と見る諧謔。こういうところからしか糸瓜の句は生まれてこなかったのだ。

後書に代えて
 一年間、読みづらい文体に付き合って下さったことに感謝します。
 また、本来なら当然敬称を付けるべき方々に対して文の体裁上一貫して省略させていただきました。ここに謹んでお詫びいたします。

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