俳句とからだ 3
連載俳句と“からだ” ③
愛知 三島広志
時は貫く
去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
十二月。一年最後の月だ。一年とは地球が太陽の周りを一回転した時間を基準に作られた人為的な約束事に過ぎない。約束事は社会生活を送るための統一された基準としてその必要は認めよう。だが、それに振り回されるのは滑稽だ。しかるに人は毎年、師走になると忙しさを吐露する。自分たちで作った約束事が逆に人を不愉快にするのだ。とりわけ時と金とはたびたび反乱を起こし、われわれを苦しめる。
時は刻む
今、この時も刻々と卓上の時計が時を刻んでいる。その音を聞いていると、時はこうして細切れにされ、その集積が時間であると勘違いしてしまう。あたかもモノのように。虚子の句はまさにそうした即物的な時の移ろいを棒という比喩を用いて冷徹かつ圧倒的な存在感をもって表現している。
けれども誰もが知っているように、実感される時間は時計の刻みとは必ずしも一致しない。楽しい時は瞬時に去り、辛い時は意地悪く停滞する。音楽だって単純にメトロノームで刻まれては身体に響いてこない。音楽という時間芸術は演奏家の体内を通過し、その息遣いで生命を吹き込まれる。そこに身体としての時間がある。
体内時計
体内時計とは生来体内に組み込まれた時間のリズムである。これが時計の無い昔からわたしたちの睡眠・食事・運動などの生活リズムを調整してきた。卑近に言えば腹時計のことだ。研究によると人間が本来持っている1日の単位は25時間だそうだ。それが朝起きて太陽の光を感じることで1時間早め、1日24時間の周期に合わせている。なぜ25時間なのかは知らないが、いずれにしても体内時計と生活時計に齟齬があるところに時間の厄介さがあるように思える。
時は逝く
船のやうに年逝く人をこぼしつつ 矢島渚男
時は時刻として刻まれると同時に、滔々たる川のように流れとしても実感される。虚子の句は時の流れを一本の棒と喩えたが、渚男は船の運航として捉えた。しかも時の流れは悠然と人をこぼして行く。これまた虚子の句と同様冷徹ではないか。それは両者ともに時間というものの性質を言い当てているからだ。
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