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2011年9月 8日 (木)

触れる心   「接触」から「触れ合い」へ

触れる心   「接触」から「触れ合い」へ  

三島広志

 治療行為は、患者と治療家の出会いの場、いわば一つのコミュニケーションの場であって、それはあくまでも対等な人間関係の場であるべきである。

 

 ともすれば治療家は、治療する側が優位に立っているという誤解から、患者より上に位置しているものと勘違いする傾向がある。患者もまた、治療される側として自らを下に位置してしまいがちである。しかし、それでは正しい人間関係を形成することは不可能である。

 

 治療家と患者が対等になって初めて本当の人間像を掴むことができるであろう。病気は人間像の一部に外ならないのであるから、人間像を明確に理解しない限りその人の病気を明らかにすることは困難である。

 

 そもそも、患者が治療家を訪れたということは、それに先立って患者が、チラシ、評判等から決断を下している。即ち、治療家は患者に選ばれているわけで、治療家が優位に立っているわけではない。

 

 実際の治療でも、治療家の行為に対して患者が反応し、その反応に合わせて治療家が新たな働きかけをするという、二人の呼吸があってこそ納得のいく治療が可能となる。

 

 こうした治療において「触れる」という行為が大変重要な意味をもってくる。昔から人間関係を「触れ合い」と言い、治療を「手当て」、看護を「介抱」と言うのも、皮膚の接触が人間社会に占める価値の大きさ故であろう。

 

 患者からの情報を得る方法として、漢方には「望・聞・問・切」の四診があり、西洋医学には視診・聴診・問診・触診・打診等と、機器による物理的、化学的な方法がある。

 

 西洋医学は極力主観を排し、客観性を高めることに努めているため、診察は機器に頼る傾向が強いが、漢方では五感による体験的、直感的で主観性の強い診察が主流である。

 

 四診の中で最終的に最も信頼すべき方法が切診つまり接触による診察である。鍼灸治療家は患者の体に触れることで診察を行い、綜合的判断のもとに診断をし、治療点を体表に決定する。

 

 冒頭、治療家と患者は対等の位置にいなければならないと述べた。それは患者を診断する時の最も基本的な在り方でもあるからだ。

 

 人と自分が対等の立場にいるためには、まず互いに認め合わなければならない。治療家は患者が病気である現在そのものを受け入れなければならない。腕が挙がらないのは異常であると思うことはすでに患者を受け入れていないことになる。腕が挙がるのが正常で挙がらないのは異常とみるのは一種の差別である。腕が挙がらないことを含めてそっくりそのまま患者を受け入れることが認めるということである。

 

 すると、患者の肌に触れる時、治療家と患者は同化することができる。二人の人間が一つに融合するような感覚になるのである。

 

 筆者が今まで、触れるということについて書かれ、ショックを受けた本が二冊ある。それらを紹介しながら触れるということについて考えてみたい。

 

 「大事に触れるということは、自分の中身全体が変化し外側の壁がなくなって、中身そのものが対象の中に入り込もうとすることである。そのことによって対象の中にも新しく変化が起こり、外側の壁がなくなり、中身そのものが自分に向かって入ってくる感じになるのである。そして自分と対象という対立するものはなくなり、あるのはただ文字どおり一体一如となり、新しい何ものかを生みだす実感がある。(中略)皮膚は原初生命体の界面の膜である。すべての感覚受容器(視・聴・嗅・味・触)をふくむ総合的感覚受容器なのである、と同時に、脳、神経の原初的形態なのである。(中略)皮膚は脳がからだの表面に、薄く伸び展がったものである、といったらどうであろうか。原初形態の脳(原初生命体の膜)は、受容、伝送、処理、反応のすべての働きをしていたと考えられる。(中略)皮膚は[もの]としてここにある心である、というべきであろう。(中略)人間の触れるという働きの中で、最も強く『体気』が出入りする所のひとつが手・掌・指である。本気で触れた時、どんな驚くべきことが起こるか、体験しないとまったく想像もつかないようなことが起こるのである。本気とは『本当の気』である。協力の在り方の中でぜひ体験してほしいと願っている。」
(野口三千三『原初生命体としての人間』三笠書房・岩波書店より再刊)

 

 野口体操で知られる野口氏の体操は、芸術、特に演劇や、教育の関係で地味ながら大きな影響を与えている。野口氏は独特のくねくねした体操を通じて人間を探求してこられた方で、筆者もその著書から人生観を変える程の影響を受けた。

 当時、経絡指圧の増永静人氏の勉強会に参加していた筆者は、両氏の到達した地点の共通性にも驚いた。片や指圧、片や体操で、触れるということの捕らえ方が大変似ているのである。共に人間とは何かといつ命題を求める方向が同じで、たまたま方法が異なっていただけということであろう。

 

 「経絡が生命に固有のものと考えるならば、それは細胞にみられる原形質流動の発展したものと考えるのが適当だろう。細胞が分化するとき外胚葉は皮膚・神経系となって外と内を連絡した。内胚葉の内臓もやはり外界との適応・交流のために原形質流動を経絡系統として連絡に当てたとみるのである、この交流、適応ののぞき穴が、皮膚の感覚器のように経穴として開孔していると考えてよかろう。(中略)生体の歪みに対して、経穴は内臓へ向かって液性伝導を行うのであるが、これを人為的に代行した時、経絡のヒビキがおこると考えるのが妥当であろう。(中略)ツボをとるときには探ってはいけない。その疑いの心から科学は発達し得ても、生命を掴むことはできない。生命には生命でもって対しなければならないのであって、ツボを知るのは原始感覚によって感じとるのである。(中略)スキンタッチは皮膚接触と訳されるが、生命共感のタッチとは深く挿入される接合である。(中略)皮膚接合によって生命共感は得られ、その原始感覚を通してツボは実感される。指はツボを押さえるのでなく、ツボに受け取られて自ずとツボにはまるのである。」
(増永静人『経絡と指圧』医道の日本社)

 

 増永氏の言う生命共感とは、指圧を施している時、自分の体と患者の体が全く一体になったように感じ、患者の違和感、苦痛を我が身の苦痛と同様に感じるものである。それはまさに野口氏の自分と対象との中身がお互いに交じり合い溶け合うことと同じである。

 

 治療という場において、治療家と患者が本当に一つに溶け合った時、「気」が最高に発揮されるのではないか。この状態は自然との同化と同じで、太極拳に代表される気功やヨガ、自律訓練法等、皆これを目指したものである。

 

 その最もスケールの大きなものが古来から行われてきたハレの日の祭ではなかったかと筆者は思っている。祭はケの日の(普段の日常的な日)の束縛から解放されるハレの日(非日常の日)である(今日でもハレてご成婚とか晴れ着というのはその名残)。祭の日は、上下の身分を超え、男女を忘れ、唄と踊りと酒と御馳走を心行くまで堪能する。そこに存在するのはあらゆるものからの解放である。

 

 治療は治療家と患者の合一によって病気からの解放を目指すが、祭は自然と人とカミの合一によって存在からの解放を目指す。治療において触れることは、祭の酒と同じ作用をする。

 

 今日では、祭のようなハレの日を失い、ケの日も曖昧になってしまい、自らが束縛されていることに気づきにくくなってしまっている。そんな現代人を確実に束縛するのが病気である。病気は、われわれが実は束縛されている存在であることに改めて気づかせてくれる一つの現象である。

 

 治療家はそれに気づいた患者に何を与えることが可能だろうか。症状を除去することだろうか。症状を除去しても、患者は一応満足こそすれ、すでに束縛された存在であることに気づいた彼らは、一抹の不安を常に抱き続けなければならいだろう。患者に与えるべきものが見つからない時は、治療家は己れ自信に対しても与えるべきものを持っていないということでもある。この点においても、治療家と患者が全く対等の関係にあることが明瞭に見えてくる。

 

 この根源的な触れ合いの場を、もっと大きな「気」の渦巻く場として、太古の祭のような場として活かせないものだろうか。

 

 そこを素通りして小手先の指頭感覚のみを鍛えても無意味であろう。名人とされる人の評伝は皆、彼らが「気」を根底から転換させる力を持っていた事実を伝えている。患者の病気や人生がその「気」との出会いの中で治り、変化していくのである。

 

 我々治療家はそうした可能性を持っていることを絶えず自覚して、逆に患者から学ぶ心で治療に当たり、まず自分自身を啓発していかなければならないだろう。

 

 触れる、その一瞬に治療家の人生の総てが表現され、患者の人生の総てとの出会いがあり、そこから二人の新たな人生が始まるのである。

 

             所収

医道の日本1986年(昭和61年)4月号

創刊500号記念特集

圧痛点による診断と治療及び指頭感覚

 

 

 

 

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