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2011年9月 8日 (木)

現代の俳句6 〈湯気立てて〉

現代の俳句6 〈湯気立てて〉 

三島広志 

 俳句を読む時しばしば気になることがある。それは俳句は馴染みの無い人に読めているのだろうかという疑問である。

 田一枚植ゑて立ち去る柳かな 芭蕉

 そのまま読めば田を植えて立ち去ったのは柳の木だ。その解釈でも面白いがいかにも変だ。立ち去ったのは芭蕉かあるいは誰か、いずれにしても人間だろう。この句には日常語の読み方が通用しない。

 この極端な例句に限らずどんな場合にも俳句独自の読み方が要求される。日常語と同じ読み方をすると俳句の魅力が掴めない。これは当たり前である。韻文である俳句を散文的に読むことは許されないからだ。

 「俳句は作るのではない、ひねるのだ」

と以前何かで読んだことがある。ひねられることで文脈からすとんと落下する快感が生じる。うまくはぐらかされるのである。言葉の落差。それはジェットコースターに乗って落下や回転の速さに心と体が分断されて一瞬奇妙な快感を得るのと共通の感覚だ。

 夕空の美しかりし葛湯かな 上田五千石
 四五人のみしみし歩く障子かな 岸本尚毅

 それぞれ下五は中七から飛躍している。読み手は表現上の飛躍を想像力で埋めて読むし、作り手もそれを期待して句に仕立て上げる。そこに作り手と読み手の相補う阿吽の関係が成立しているが、俳句と関わりの薄い人にどこまで読めるだろうか。俳句ならではの空白を埋め込む読みは望めそうもない。

 文語標記も過渡期にある。文語世代は文語で考え、文語で表しているので無理が無い。しかし口語世代は口語で考え、文語に置き換えている。あえて文語を用いるのはその美しさだけでなく、口語と文語のずれ、落差を楽しんでいるふしがある。その点で、文語世代と口語世代では文語に対する考えや姿勢はまるで異なることになる。それに続く世代に果たして文語が通用するのだろうか。

 難しい漢字や言葉もそうだ。「孑孑」や「蟋蟀」、「料峭」など今では俳句にのみ保存されていることばだろう。それはとても意味のあることだが、一般からの遊離もまた大きい。これらは俳句の閉鎖性を物語っている。 

「俳句はそれでいいのさ」
というセクト主義を貫くなら、俳句は衰退の道を辿ることになる。俳句が世界中に広がっても本家本元で青息吐息の状態では俳諧連句から命懸けで芸術の道を立てた芭蕉や連綿たる詩歌の歴史に関わってきた先達に会わせる顔がない。「現代の俳句」とは「過去から現代を経て未来へ続く俳句」でなければならないだろうから。

 さて、繰り言はこれくらいにして今月は伝統をしっかり受け止めつつ、新しい肌触りの俳句を指向している若手を紹介したい。平成五年、三四歳で処女句集「重華」を刊行して遅すぎる新人と評判となった日原傳である。
 彼は昭和三四年生まれ。俳句は小佐田哲男、有馬朗人、山口青邨に学び現在「天為」に所属。中国哲学の学究である。
 句集には彼の専門とする漢籍に関する用語も散見されるが難解なものは少ない。北京大学留学中の作品も多く入集されているが違和感無く読み進めることができる。

 もう鳴かぬ亀の化石を飾りけり 傳
 湯気立てて韓愈流謫の地の粽 同
 大根を蒔き半島の星の数 同
 夕風の出てぼうたんに裏表 同
手袋の真白き道士語りだす 同
 冬没日牛の顎の下に燃ゆ 同
 麗人にもらひし風邪や金閣寺 同
 山椿大きな足の仏たち 同
 水打つてある店先が登山口 同

 韓愈の句のように骨格厳しき作品もあれば、ぼうたんの句のように若々しい感性の句もあるが全体に豊かな大陸的とも呼べる「遊び」がある。ただし「仏蘭西にゆく人送る目刺かな」までひねると芭蕉の柳と同様目刺が人を送るとしか読めないのではないだろうか。

  傳の俳句は対象の真実に切り込むというより、対象の醸し出すものを的確に把握しようとしているように見受けられる。年長者からは甘いと思われるかもしれないが、それはそれで戦争や貧困、政治闘争といったものとは無縁に育っている世代を如実に表現していると言えよう。
 むしろ闘病者などを除けば重くれた句を作ることの方が今日では不自然なポーズなのだ。そういった意味で傳は現代の二十代三十代の俳句を代表していると言っていいだろう。 

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