俳句とからだ 5
連載俳句と“からだ” ⑤
愛知 三島広志
大寒から立春
極寒のちりもとどめず巖ふすま 飯田蛇笏
大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太
親子二代、極限の寒さを詠んだ句である。敢えてこの二句からのみその相違を検討してみると、蛇笏の方に一層の孤独を感じる。父蛇笏はその自然に対峙し、極寒の厳しさを屹立する巖襖に塵もとどまっていないと感得する。そこには孤独とそれに対峙する強靭な精神の強さがある。それに対し、子息の龍太は大寒の緻密な空気に浮かび上がる故郷の家々を見る。しかも一戸もかくれなきとは何と優しい眼差しであろうか。
父蛇笏は故郷の自然の厳しさに向かい、子龍太は古里の人々に目を向ける。二人の異なった視線の中にこそ、その人の身体性が現れているのではないか。
脳の外部化
現代の社会にあって身体性は脆弱し、脳の一面が拡大して現象化している。今わたしが向かっているパソコンこそ脳の外部化の象徴といっていいだろう。そして腰掛けているミスタードーナツの窓から見下ろすと整然と構築された硬質な都市空間。都市は脳の外部化とは養老氏の言葉だったか。
隷属する身体
わたしたちは否応なく時代に翻弄されて暮らしている。そこでは身体性は喪失され精神のみが活発に意識される。翻弄されるとき身体は精神を支える下部構造としての存在を余儀なくされてしまう。今日、人が身体を思うとき、それは病気や怪我をしたときだけだ。しかも道具として役に立たないと罵る。あるいは酒を飲んだりピアスをしたり、ドラッグやセックスあるいは健康法に身をやつすのは身体が奥底から郷愁めいた自己存在の叫びを発するからだ。
しかしこの身体という下部構造はしたたかである。ひとの精神活動は確実に身体の影響を受けている。開かれた身体や閉じた身体、ねじれた身体など無意識に精神に影響を与え、個性の一半を担っているのだ。
包摂された身体
蛇笏の時代、龍太の時代、彼らの郷土。そこには身体と環境との濃密な交流がある。自然環境は脳の外部化ではない。むしろ身体は自然環境に包摂された存在である。そこに<生きる場>と<生かされる存在>が影響を与え合う平和な関係が維持されていたのだ。
落葉ふんで人道念を全うす 蛇笏
手が見えて父が落葉の山歩く 龍太
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