俳句とからだ 8
連載俳句と“からだ” ⑧
愛知 三島広志
未来三句
肉体は皮膚に包まれた実体である。骨や筋肉、内臓や血液などからできており、誰もが見て触ることのできる確かなものだ。しかし、この論では当初から身体と肉体を区別してきた。肉体とは実体的な体であり、身体は精神や環境、歴史的広がりも含んだ存在を指す。
身体は肉体を大きく逸脱した概念としての“からだ”と考えればいい。身体は肉体の呪縛から解かれ、時間や空間を超えて存在する。わたしたちが千年前の「あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり 敦忠」という歌を読めば心は時空を超えて作者に共感する。作者が今に蘇ると言い換えてもいいだろう。
肉体は厳然と時空の法則に縛られているが身体はそれをやすやすと超えることができる。そのとき、言葉は大いなる呪術として作用する。
玫瑰や今も沖には未来あり 中村草田男
この句に出会った読み手は眼前のはまなすの花から一転遥か沖に視線を展開する。そのとき身体も沖遠くまで拡大し、その拡大した身体を、今この瞬間も存在する未来が満たすのだ。この句を読むとき身体は未来からの祝福で歓喜する。
未来より滝を吹き割る風来たる 夏石番矢
番矢の句は現在を過去にするべく未来の風が向こうからわが身体に向って吹いてくるというのだ。その風は天地を貫く滝をも吹き割る強靭なものだ。それを読者は身をもって受け止めなければならない。未来に向けて身体を啓いておくのだ。滝の垂直と向ってくる風の水平。この句は大きな幾何学的身体感覚を刺激してくれる。
草田男の句はこれから向かうであろう未来への希望と喜び、救いを表現しているが、番矢の句はむしろ未来から読者への輝かしき挑戦とも読める。未来は現在の延長に過ぎない、よき未来を望むなら今をどう生きるか。一見やさしい表現ながら厳しい。
海市立つ噴ける未来のてりかへし 加藤郁乎
郁乎の未来はどうだろう。草田男のはまなすと異なり目線はすでに沖の蜃気楼にある。そしてそれは噴出した未来の照り返しだという。蜃気楼は実体ではない。太陽の移動と共にはかなく消える。その曖昧な未来を知ると身体は不安におののく。
言葉はこうして身体を現在から未来へ、未来から現在へと揺さぶることでそれ自体も身体化するのだ。
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